鈴木謙介
「自己への嗜癖」は、確固たるアイデンティティに基礎づけられることを必要としない社会故にこそ生じる、不可避な現象と見なすことができよう。逆に言えばこうした社会では、「本当の私」や「本当の愛情」や「本当にやりたいこと」を望めば望むほど、それが手に入れられず、結果として立ちすくんでしまわざるをえない。なぜならば、最初からそうした「本当のもの(=アイデンティティ)が手に入らないところに、個人化の本質があるからだ。(第3章「『圏外』を逃れて−自分中毒としての携帯電話」より)
近頃は「祭り(カーニヴァル)」が世の中の駆動原理になり始めているんじゃないの?というのが本書の問題提起。確かに多くの人々が、何でも構わないから「その瞬間に盛り上がれるネタ」を、イナゴの大群の様に次から次へと消費の対象にしている感がある。イラク人質事件然り、沢尻・亀田バッシング然り、反対にW杯や野球五輪での盛り上がり然り。そこには対象への一方的な「非難」もあれば「賞賛」もあるし、「論争」もあれば「感動」もある。要は何でも良いのだ、「お祭り騒ぎ」さえできれば・・・。 という訳で、明確な動機や理念、物語を欠いた祝祭が日常化する背景とその意味を考察しているのが本書である。雇用問題から監視社会、データベース等々主題が各章でめまぐるしく変わるので、何かまとまりのない印象は否めなかったが、とりあえずはこの問題提起だけでも十分価値のある本かなと。
こうした「自己目的化する感動」が、カーニヴァル化の源泉となるわけだが、こうした動きは何もインターネットのイベントだけにとどまらない。始まる前から「感動をありがとう」がコピーになっていた二〇〇四年のオリンピックにせよ、問題は、日本という国への帰属感ではなく、感動のネタとしての「オリンピック」であり「日本」だったわけだ。(第4章「カーニヴァル化するモダニティ」より)
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カーニヴァル化する社会
鈴木謙介
近頃は「祭り(カーニヴァル)」が世の中の駆動原理になり始めているんじゃないの?というのが本書の問題提起。確かに多くの人々が、何でも構わないから「その瞬間に盛り上がれるネタ」を、イナゴの大群の様に次から次へと消費の対象にしている感がある。イラク人質事件然り、沢尻・亀田バッシング然り、反対にW杯や野球五輪での盛り上がり然り。そこには対象への一方的な「非難」もあれば「賞賛」もあるし、「論争」もあれば「感動」もある。要は何でも良いのだ、「お祭り騒ぎ」さえできれば・・・。
という訳で、明確な動機や理念、物語を欠いた祝祭が日常化する背景とその意味を考察しているのが本書である。雇用問題から監視社会、データベース等々主題が各章でめまぐるしく変わるので、何かまとまりのない印象は否めなかったが、とりあえずはこの問題提起だけでも十分価値のある本かなと。
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