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「世間」とは何か

阿部謹也

「無常」は、通常は「世は無常」という形で語られることが多い。その意味は「一切の物は生滅・変化して常住でないこと」と「広辞苑」(第四版)では説明している。しかし世の中の事物が常住でないことは極めて自然のことであって、それをわざわざ「無常を観じ」という形で言葉にするのは、その背後にある種の感情があるからであろう。それは変化を求めない感情であって、現在の事態がいつまでも続くことを望んでいるのである。周囲の人が突然死んでしまったときなど、「世は無常」などというのはこのような場合である。(第四章「『色』と『金』の世の中」より)

「身に覚えはないが、世間をお騒がせして申し訳ない」。これは何らかの嫌疑をかけられた政治家や財界人の常套句。そして受け手の方も「口先だけだな…」と知りつつ、この言葉と共に深々と頭を下げられると、何となく場が収まる“空気”が流れるのも事実だ。反対に「私は無実なのに何を騒いでいるの?!」と、正面を見据えて傲然と言い放つ者がいれば、実際に無実でも、何となく“世間”からは“可愛げのない奴”というレッテルが貼られるだろう。
いささか旧聞に属するが、例の江川事件(1978)の際も、「興奮しないで」と言う代わりに「お騒がせしました」と、当人に頭を下げさせる気の利いた大人が周囲にいれば、江川卓は日本中を敵に回さずに済んだろう。あれこそ国民の誰にも迷惑のかからない、単に“世間を騒がせた”に過ぎない出来事だった訳だから。

…善意の募金であろうと国民の義務である税金であろうと日本人はそれを拠出する際に「取られた」という想いを否定できないのである。
何故なら日本人がこの種の募金に応ずる際には、たいていの場合何らかの組織が間に入っていて、そこでの人間関係が頭に浮かぶからである。誰誰が募金に応じているかどうか、そしてそれがいくらであったかなどのことがすぐに頭に浮かび、それらを勘案し、組織の一員としての義理として募金に応ずる場合が多いのである。(第五章「なぜ漱石は読み継がれてきたのか」より)

[2009年11月28日] この日の感想・書評へ→

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