振る舞い・運動・お笑い・ゲーム 荻上チキ
私たちの社会では、新しいメディア(ニューメディア)が登場すると、必ずと言っていいほど「有害メディア論」(メディアバッシング、メディア悪玉論)が観られることになる。「有害メディア論」とは、ニューメディアの影響力を過剰に高く見積もったうえで、「ニューメディアが(自分以外の)人々に有害な影響をもたらす」とする「流言」のパターンだ。(第1章「有害メディア論の歴史と社会的身体の構築」より)
TVもゲーム機も、ネットもケータイもそうだが、新しく登場したメディアというのは、“教育的”見地からしばしば非難の対象となりがちである。本書によると、ソクラテスの時代には「文字」が批判の対象となり、明治期には「小説」が、「淫猥極まる写実小説、陰険恐るべき探偵小説の流行は、世の有識者が児童教育の為めに、多望なる青年子弟の為めに、只管顰蹙せる所なりき」(『教育時論』)とバッシングを受けていたというから驚きだ。そう言えば90年代に一世を風靡した「たまごっち」も、「命の軽視を助長するのでは?」「むしろ命の尊さが分かる」と侃々諤々の論議を呼んだものだが、今となってはご大層な議論だったという他ない。 かつて「メディアは身体を拡張する」と書いたのはマクルーハンだったが、身体感覚と密接に結び付いているからこそ、人は新奇なメディアの登場に過剰な警戒心と恐れを抱いてしまうのだろう。
あらゆるメディアには、「ゲーム性」が埋め込まれている。そして私たちは、メディアを身体化していくそのプロセスそのものを快楽の次元で享受する。有害メディア論を唱えるものにとっては非常に不快な存在かもしれないが、一方でイノベーター層にとっては、新しいメディアに触れる行為そのものが快楽として受け止められる。(第4章「ゲーム性と身体化の快楽」より)
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社会的な身体
振る舞い・運動・お笑い・ゲーム
荻上チキ
TVもゲーム機も、ネットもケータイもそうだが、新しく登場したメディアというのは、“教育的”見地からしばしば非難の対象となりがちである。本書によると、ソクラテスの時代には「文字」が批判の対象となり、明治期には「小説」が、「淫猥極まる写実小説、陰険恐るべき探偵小説の流行は、世の有識者が児童教育の為めに、多望なる青年子弟の為めに、只管顰蹙せる所なりき」(『教育時論』)とバッシングを受けていたというから驚きだ。そう言えば90年代に一世を風靡した「たまごっち」も、「命の軽視を助長するのでは?」「むしろ命の尊さが分かる」と侃々諤々の論議を呼んだものだが、今となってはご大層な議論だったという他ない。
かつて「メディアは身体を拡張する」と書いたのはマクルーハンだったが、身体感覚と密接に結び付いているからこそ、人は新奇なメディアの登場に過剰な警戒心と恐れを抱いてしまうのだろう。
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