ジャーナリズム/メディア
テレビは総理を殺したか
菊池正史
小泉は風車に吹き飛ばされたドン・キホーテではなかった。田中の継承者たちが握っていた人事を完全掌握した。我々メディアも、まず、このことに度肝を抜かれ、引きつけられたのである。
また小泉は、平沢ら仕掛け人の思惑どおり、「二極対立」にこだわり、国民に敵の姿を具体的に、ピンポイントで示した。「敵はこの人だ」と指差して、敵の生身の姿を、メディアを使って国民にさらしたのである。その敵は中曽根康弘をはじめとした長老達であり、橋本派の実力者・野中であり、郵政選挙で造反した亀井たちであった。(第2章「熱狂のあとで」より)
本書のどこにも書いてはいないが、一言で要約すれば「小沢一郎を対立軸として考察した、90年代以降の歴代総理」を論じた本。こうした内容の本を、傍観者的な立場の評論家ではなく、マスコミ内部で「小泉劇場に踊らされた」事実を深く自覚した一テレビマンが率直に著したことが面白い。
本書を貫くキーワードは「二極対立の明暗」である。田原総一朗の登場以来、政治は視聴率が稼げるコンテンツとなり、政治報道にTV的な「分かりやすさ」を求める風潮が明らかに強まった。この二十年あまりの政治の構図は、“小泉郵政選挙”における「改革派vs.抵抗勢力」に代表されるように、明確な対立軸を打ち出して世論を味方につけた者が勝利者となった。小泉純一郎は、その流れを最大限に利用した稀有な政治家だったことが本書を読めばよく分かる。
なお内容の踏み込み具合から、著者は既にフリーになった人だと思い込んでいたが、経歴を見るとまだ日本テレビに在職中とある。在職中のサラリーマンにしては結構勇気のいる内容だろう。あっぱれ。
世論の権威をまとって永田町に君臨したのが小泉である。小泉政治が崩壊していこう、世論の権威と結託する政治はポピュリズムと批判され、その威力にも陰りがさしたように見えたが、永田町において隠然たる力を維持してきた小沢の権威を粉砕したことは、世論の権威が政治において最も優位な存在であることを改めて実証した。
戦後の民主主義が定着してかなりの年月が流れるが、世論の権威が台頭してきた歴史は意外にも浅い。むしろ、圧倒的な政治的権威によって、長い間抑圧されていたと言える。(第4章「迷走する民主党」より)
[2012年1月13日] この日の感想・書評へ→
ジャーナリズムの陥し穴
明治から東日本大震災まで
田原総一朗
一体メディアがどこに立って見るか、その記者が、そのディレクターが、どういう世界観、人間観を持っているかで、すべて見る景色、伝えられる景色は変わってくる。これは紛れもない事実だ。ところが日本のジャーナリズムは、客観報道などという、ありもしない建前を、まるであるかのごとく置いている。そのため、アメリカやイギリスに比べ、非常に曖昧な姿勢に終始している(第一章「ジャーナリズムの歴史」より)
ジャーナリズムとは何か。本書によれば、それは「真実に近いものを探り出す作業」である。その「真実」に触れるため、ジャーナリスト田原はTVというメディアの特性を最大限に活用した。特に現役の政治家たちを相手にした時こそ田原の真骨頂で、あえて下品に挑発し、ぶしつけに斬り込んでは、相手の本性をカメラの前に曝け出させた。「客観報道などありもしない建前だ」という信条の下、強引に真実を引き出そうとするスタイルはまさに確信犯的であり、時には相手の政治家が哀れに見える場面さえあった程である。知性と論理で対象に迫ろうとした一方の雄・筑紫哲也とはまさに好対照。TV畑の叩き上げと新聞・雑誌畑のエリート育ちの個性の違いとでも言うべきか。
さてそんな田原による、3.11後に書かれた最新のジャーナリズム論である本書は、第一、二章で戦中・戦後の日本のジャーナリズム史に触れ、第三章以降からはいきなり「田原総一朗自伝」に切り替わるという、いかにも著者らしい強引な構成である。二冊の本をくっつけた様な違和感もあるが、その分読みどころも多く、「ジャーナリズムとは何か」を改めて考えるきっかけをいろいろ与えてくれる。
実は、橋本内閣が失脚したことが、私にとっても転換点になった。
宮澤首相、その前に事実上海部首相を失脚に追い込み、私の中で困惑が生じた。…(中略)…つまり国家権力側に政策、発想などがないのだとわかったのだ。カラッポであることがわかったのだ。
三人の首相を失脚させて、そのことを痛感せざるを得なかった。首相は失脚しても政治は変わらない。カラッポなのだから変わりようがないわけだ。(第六章「ジャーナリズムの現場ーその1」より)
[2011年11月15日] この日の感想・書評へ→
原発報道とメディア
武田徹
脱原発を進めるのなら、特に廃炉が予定されている福島第一原発周辺では、雇用確保や生活保障などの措置がなければ、立地住民は被災、避難に続いて生活再建の困難という不幸を強いられる。
ここにローティが述べていた「罪なき人を助ける公共的善行を行うために、多少の犠牲はやむをえない」と考える発想、あるいは、そうした犠牲が出ていることすら気づかない残酷さがうかがえるとは言えないか。
ジャーナリズムはこうした残酷さに敏感でなければならない。(第9章「マスメディアと反検索型ジャーナリズム」より)
先頃、世田谷区で局地的に高い放射線量が測定され騒動になった。結局は原発事故とは無関係の「ラジウム放置」が原因と判り騒ぎは収まったが、日常的に放射線の健康被害を憂慮しつつ今後も現場近くで住まざるを得ない人たちは、ワイドショーでの大仰な騒ぎぶりとその後の急速な話題の鎮静化を、どんな気持ちで眺めていたのだろう。
原発の是非については、厳密な意味での客観性が保証された情報が提示されない以上、ジャーナリズムが真っ向から「公正」「正義」を振りかざしても議論は噛み合ないし、結局は誰も救われない。世の風向きは原発廃止へと流れてはいるが、かといって原発を即時停止する(=日本の電気の大半を止める)という選択は、当面の被災地復興を考えただけでも非現実的である。
ではいろんな傷跡がまだ癒えない中、ジャーナリズムに求められるものは何か。それは「正義の論理」ではなく、(林香里が「〈オンナ・コドモ〉のジャーナリズム」という本で述べた)「ケアの倫理」だと著者は提起する。助けを必要とする取材対象と一体化し、個々人の生に寄り添いながら社会の歪みとその解決法を具体的に示してゆくことが、結果的に公益につながるのではないかと。無論「公正」を金科玉条とする正統派ジャーナリズム観とは相容れない姿勢だが、“首都圏の被害度”を基準にニュースバリューの大小を変えるような、現状のマスコミの報道姿勢よりはずっと世の中の為になると思う。
たとえばロールズは、『正義論』において、公平さこそ正義の基本原理としつつも、公平原則を崩すことにはなるが、最も虐げられているひとに多くを与えることは正義のバリエイションたりえると考えた。これは公平公正を金科玉条とする「正義の論理」ではなく、眼の前にいる弱者に寄り添い、共に解決策を探して行く「ケアの倫理」で動くジャーナリズムにこそ可能性をみた私たちの立場とも通じる。…(中略)…ジャーナリストやニュース・エディターは、「死体に涙する」感性を有しつつ、より力の小さな声を敢えて拾い上げる技と力を持った「反検索的報道家」になる必要がある。(第9章「マスメディアと反検索型ジャーナリズム」より)
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極私的メディア論
森達也
表現には自覚的な嘘もあれば自覚しない嘘もある。虚実は融解している。メディアの本質に付随する属性である「嘘」を見抜くことなど誰にもできない。
現象や事件は無限に多面的な構造だ。その無限の視点のうちのひとつを提供するのがメディアだ。それ以上でも以下でもない。「見抜く」とか「騙されない」とかの位相で語られるジャンルではない。「視点を変えれば違う位相が見えてくることを担保しながら接する」ことが、本来のメディア・リテラシーなのだと僕は考える。(「メディアの本質的な属性である『嘘』」より)
3.11から二ヶ月以上が経った。先の見えない中、不自由な暮らしを強いられている被災者の心情を思うと、ただただ胸が痛い。でもこのところ震災関連の報道は、専ら原発叩きや「菅おろし」にまつわる話題が主で、徐々に被災者の生の姿が見えなくなって来たように感じる。
思えば16年前神戸で被災した時、水道・ガスが通らず瓦礫と焼け跡に囲まれた自宅での暮らしと、勤務先の大阪での何不自由ない日常とのギャップに、日々軽い眩暈を感じたものだった。まして今回の被害規模は「阪神・淡路」の比ではない。津波・放射能汚染・風評被害など、被災の仕方一つ取っても多面的な構造をしているため、全く一筋縄ではいかない。
だからこそメディアの役割は重要である。「被災者の気持ちになって考えよう」という言葉をお題目にせず、状況を今より良くする力がメディアにはある。でも筆者は言う。「メディアをその気にさせることが難しい」。
メディアは常に利用される客体だ。メディアが情報を操作しているなどと口にする人は多いが、実のところ恣意的に操作することはほとんどない。無自覚なのだ。だから利用されやすい。その意味ではメディアは、歴史を通じて権力争いや戦争に利用されてきた天皇制に似ているのかもしれない。(「メディアは天皇制に似ている」より)
[2011年5月17日] この日の感想・書評へ→
衰退するジャーナリズム
岐路に立つマス・メディアの諸層
福永勝也
「松本サリン事件」に限らず、日本のメディアには公権力である警察や検察の発表を盲信する傾向がある。それが悪名高い「発表ジャーナリズム」となって、主体的であるべき報道の自由が侵害されているといっても過言ではない。…(中略)…元来、ジャーナリズムは警察発表を鵜呑みにするのではなく、自主取材によって真実を探求すべきものである。警察はあくまでも有力な情報源の一つであって、「報道責任」がメディア自身にあるのは自明の理なのである。(第8章「発表ジャーナリズムとメディア・スクラム」より)
丁寧なジャーナリズム論である。取り上げられているテーマは多種多彩で、メディア・スクラム、電子メディアと新聞の未来、政治権力の介入と報道の独立性、視聴率至上主義と職業倫理、報道の自由とプライバシー、選挙報道とポピュリズム、戦争報道とナショナリズム、アカデミズムとジャーナリズムの連携 etc.。300頁足らずの中に広く、かつそこそこの深度で論考が重ねられている。特にニュース番組の概念を変えたとされる久米宏の「ニュースステーション」については、二章を割いて詳細に考察。筑紫哲也及び「ニュース23」との比較論も的確で興味深い。
そして本書を特徴づけるのは、一歩踏み込んだ所感付きの注釈である。頻繁に大手四紙の社説を引用・要約して各社の見解の違いを浮き彫りにしたり、サイード、リップマン、チョムスキー等、現代を代表する思想家の論考を丁寧に引用することで、本文の論旨と著者の問題提起に対する説得力を深めることに成功している。
今日の社会ではジャーナリズムの衰退と歩調を合わせるかのように、「純粋知」の社会的後退が進行し、知の世界のパラダイムが劇的に変容する兆しを見せている。それは、コマーシャリズム(商業主義)に傾斜するメディアと、世俗的知識人たちによって形骸化しつつあるアカデミズムの歪な癒着の成せる業といえるかもしれない。(第12章「ジャーナリズムとアカデミズムは連携できるか」より)
[2011年3月24日] この日の感想・書評へ→
インタビューの教科書
原正紀
私がインタビューをして一番の成果だなと感じるのは、相手から触発されるという点。相手は著名人にかぎらず、一般企業の経営者でも、立派な経営をされている方の話をうかがうと、「自分もやらねば!」とやる気にさせてくれるものです。…(中略)…相手の生の声が聞けるインタビューは、私自身へのいい刺激となり、それが成長へとつながっていると実感しています。(「序文」より)
仕事柄インタビューをする機会は多く、昨年だけでも30人近くの方に取材をした。対象は企業のマネジメント層やベテラン技術者、ヒット商品の開発当事者、あるいは社内で一目置かれている中堅・若手の方々が中心だが、どれも自分自身にとっては有益な時間であった。マネジメント層からは「様々な経験が血肉となってその人の経営哲学を作り上げていく過程」を追体験することができるし、技術者からは「課題と真摯に向き合いコツコツ解決していく姿勢」を学び、やる気に満ちた若者達からは、文字通り「元気をもらえる」ことが多い。インタビューはまさに知恵の宝庫であり、自己研鑽と気づきに満ちた場である。その一期一会の場を活かすも殺すも聞き手次第。本書はその基本を振り返るには恰好のテキストである。
掘り下げていきたい場合、トヨタ自動車で有名な「5つのなぜ」のように、「なぜ?なぜ?」とくりかえすやり方があります。相手が1回目の「なぜ」に答えたら、その答えに対して2回目の「なぜ」をぶつけ、さらにその答えに3回目の「なぜ」をぶつけ、というのをくりかえして掘り下げるのです。なぜを5回くりかえすと本質に突き当たるそうです。(第3章「インタビュー本番編」より)
[2011年3月20日] この日の感想・書評へ→
マスコミは何を伝えないか
メディア社会の賢い生き方
下村健一
まず白状しておかなければならないことがあります。それは、私自身が“報道加害者”であるということです。…(中略)…この仕事を始めてから四半世紀、私の報道で傷つけられた人は、どれほどの数に上るのか分かりません。ですからこの章は、「私だけが理想的な報道をしていて、他の駄目な報道陣を断罪する」という立場で語るのではありません。むしろ、加害体験を重ねてきた者だからこそ分かる《報道被害発生のメカニズム》を、自責と自戒の念を込めて証言したいと思います。(第1章「報道被害はなぜなくならないのか?」より)
真実を伝えるのがジャーナリストの責務だと一般的には言われる。しかしテレビカメラを通じて報道されている真実は、ファインダーが切り取った一場面に過ぎない。そして取材対象の“印象”は、大衆に迎合する形で無意識に操作されてしまうことが多く、その中から様々な報道被害は生まれる。カメラを向ける側に何ら悪意はなくても、報道するという行為だけで相手を傷つける場合があることを、どれ程の取材者は自覚しているのだろう。
その意味で、自分も報道“加害者”の一人であるというスタンスから「報道被害」の問題を掘り下げ、具体的な対策までも提示しようとする著者の姿勢はフェアであり、その提言の中味にも肯けることが多い。また「イラン人質事件」や「世田谷事件」で実際に報道被害を受けた当事者へのインタビューからも、得られる所は少なくなかった。
「社会みんなで考えなければいけない」というコメントを吐く時に、そのコメンテーターは多くの場合、無意識のうちに自分を《社会》から外しています。…(中略)…「私自身はべつに、こうコメントしただけで、あとは考えませんけど」というスタンスですよね。宇宙人のように外側の立ち位置から「社会が」という言葉を吐いた瞬間、それはもう、自分は何も変えるつもりはないと宣言しているのと一緒だと思います。(第2章「マスコミ自身による解決の道」より)
[2010年11月19日] この日の感想・書評へ→
街場のメディア論
内田樹
メディアが急速に力を失っている理由は、決して巷間伝えられているように、インターネットに取って代わられたからだけではないと僕は思います。そうではなくて、固有名と、血の通った身体を持った個人の「どうしても言いたいこと」ではなく、「誰でも言いそうなこと」だけを選択的に語っているうちに、そのようなものなら存在しなくなっても誰も困らないという平明な事実に人々が気づいてしまった、そういうことではないかと思うのです。(第四講「『正義』の暴走」より)
近頃、厚労省から病院に「患者さま」と呼ぶようお達しがあり、律儀に実行した某病院では、一部入院患者が規則を守らなくなる、ナースに暴言を吐く、入院費を払わずに退院する…という顕著な変化が起きたそうな。また某小学校では「自分らは給食費を払っていて誰にも負債はない」という理由で、給食時に「いただきます」と言うことに抗議した親がいたそうな。
これらはいずれも、医療や教育を市場原理に当てはめる風潮をメディアが煽った結果、消費者的に振舞う患者や保護者が増殖したためであると著者は主張する。なるほど、そうか。「最低の代価で最高の商品を手に入れる」のが、市場原理下での賢い振舞いとされる以上、自己を消費者と定義づけてしまった患者や保護者は、上述の様な「自己利益を最大化する独善的行動」を当然の如く取るようになる訳だ。
というような形で、「マスメディアの劣化」を切り口に、就活・婚活・電子書籍etc.今日的テーマを平易に解説してくれる書。
電子書籍の、紙媒体に対する最大の弱点は、電子書籍は「書棚を空間的にかたちづくることができない」ということです。その前を歩いたり、こたつで昼寝をしていて、ふと目を覚ますと背表紙と目が合うというようなことが起こらないということです。「まだ読まれない書物」が日常的に切迫してこないなら、それは「理想我」としては機能できません。「私はこれらの本を読んでいる人間である」ということを人に誇示することもできないし、「私はこれらの本を(いずれ)読み終えるはずの人間である」と自分に言い聞かせて、自己教化の手がかりとすることもできない。(第六講「読者はどこにいるのか」より)
[2010年11月10日] この日の感想・書評へ→

ジャーナリズム崩壊
上杉隆
日本の記者は個人個人では極めて優秀だ。海外の記者と比較しても、勤勉であり、モラルを守る好人物が多い。権力や上司と対峙した時の勇気が少しばかり足りないように思うが、それでもその丁寧な仕事ぶりは世界のメディアの中でも際立っている。 ところが、これが集団になると一変してしまう。極めて閉鎖的で偏狭な集団に変貌し、横並びの護送船団方式を採用、ときにはそれがメディアスクラムといったような形で凶暴性を増す。(「プロローグ」より)
一人ひとりは極めて優秀なのに、集団に紛れ匿名性を帯びた途端思考が硬直化したり歪になったりする、というのはどんな組織でもよく聞く話。だから先日読んだ「報道現場」にも紹介されているように、日本にも気骨ある優秀なジャーナリストが大勢いるはずなのに、彼らが属している大新聞や放送局などの組織単位になると、時に信じられない程姑息で厚顔無恥な行動を厭わなくなるようだ。本書にはそんなお粗末なメディアの内情を暴露した逸話や、筆者自身の体験談が幾つも紹介されている。とりわけ記者クラブが抱える問題点に対しては、少々くどい位に舌鋒は鋭い。
結局志あるジャーナリストは、己の志を貫くためには組織を離れるしかないのだろうか。
日本の記者たちは、そろそろ政府の用意した安全な「遊園地」の門から外に出るべきではないか。世界のジャーナリストたちはすでに「遊園地」の外で戦っているのだ。
「記者クラブの開放」と「クラブ記者の解放」という夢が実現した時になって初めて、日本のジャーナリズムは世界の仲間入りが可能になるに違いない。(「エピローグ」より)
[2010年10月25日] この日の感想・書評へ→
報道現場
朝日新聞社ジャーナリスト学校・慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所編
大切なことはいつも現場にあります。つまり、患者さんの病床で声を直接聞いたかどうか。あとは新聞の持つ力を活用して的確に情報を伝えること。厚労省や国がごまかしている点をゆっくり説いて、丹念な取材をしなければいけない。企業の取材もそうです。そうしたことを積み上げていけば、「これはだれがどう考えてもおかしい」ということを示せます。(「アスベスト被害」より)
新聞は勿論、TVも見ない、FMも深夜放送も聴かない、雑誌も読まない若者が増えている。情報収集の手段は専らケータイだ。
時代に即した新しくて便利なメディアが、旧来型メディアに取って代わるのはある程度仕方がない。ただ、googleやmixiやケータイサイトのポータルにいくら最新のニュースが溢れていても、それは単なる安直な二次利用であり、真のジャーナリズムはそこには存在しない。決定的な違いはたった一つ、志の有無にある。
こうしたメディアの現状とジャーナリズムの将来を憂い、朝日新聞社は他紙や放送局の記者、ディレクターにも声をかけ、慶応大学への寄付講座の形で2009 年に「ジャーナリスト総合講座」を開講した。本書はその講義録であり、「アスベスト被害」「派遣切り」「医療事故」他今日的な題材を元に、それぞれの取材の舞台裏がいきいきと語られている。
路上暮らしの青年と共に野宿しながら、「ワーキングプア」の実態を世に問うたディレクター。施設に泊まり込んで、虐待された子供達の心を開く記者。殺人犯の弁護を担当してバッシングに遭った弁護士らの活動に焦点を合わせ、「視点を変えれば違う光景が見える」事を実証したTV取材班等、志あるジャーナリストたちの矜持と良心が伝わってくるようだ。
こういう時だからこそ、現場にいる若い記者やディレクターら取材者たちがどれだけ志を胸に秘めていられるか、きちんとものを見ていく目を持っているか、そして本当の取材力を持っているか、それが試されている時代なのだと思います。…(中略)
ジャーナリストをめざす人は、それぞれ一人ひとりが持っている個性や独自の視点を大事にしてほしいと思います。それは、そのジャーナリストでなければできない取材というものが必ずあるからです。(「NHKスペシャル『ワーキングプア』」より)
[2010年10月10日] この日の感想・書評へ→
娘と話すメディアってなに?
山中速人
教授 ・・・そして、ボードリヤールは、さらに考えを進めて、情報や知識の電子化が急速に進む現代社会では、人間の社会生活を支えている現実感自体が、このハイパーリアリティにとって変わられようとしているのではないかと考えたんだ。そして、その考え方をさらに進めて、現実とはシミュレーションの一つの形にすぎないのではないかと考えた。(第四回「メディアが現実をつくり出す?」より)
取っつきやすそうな書名で実際に文章も平易だが、ナチスのプロパガンダからジェンダー論まで中身はかなり幅広く、メディア論の基本を俯瞰するにはもってこいの本。ベンヤミンの複製芸術論をはじめ、ラザースフェルドの限定効果理論、リップマンの疑似環境の環境化、ノエル=ニューマンの沈黙の螺旋理論、プーアスティンの疑似イベント論、ボードリヤールのハイパーリアリティ、さらにはグレン・グールドの音楽やチョムスキーのメディア批評まで、メディアについて論ずる際にぜひとも押さえておきたい主要人物の知見や学説のポイントが、市民ラジオの放送局を舞台にした対話形式の流れの中で過不足なく紹介されている。
ナニ 疑問のないところにこそ、問題があるってわけね。
紺田 フランスの思想家でミシェル・フーコーという学者は、権力とは何かについて、こういう意見を主張している。権力は人びとを弾圧したり、無理矢理強制したりするところにだけ現れるんじゃない。むしろ、より強力な権力とは、人びとがそれに従うことが当然だと思いこんでいたり、疑うことのない真理だと合意したりしているところに存在しているのだと。(第六回「市民メディアはとまらない」より)
[2009年3月29日] この日の感想・書評へ→

マクルーハンの光景 メディア論がみえる
宮澤淳一
(ア)The medium is a message.(メディアは、メッセージである)
(イ)The medium is the message.(メディアこそが、ほかならぬメッセージである)
・・・(中略)・・・つまり、不定冠詞で未知の情報を提示する通常の「AはBである」という叙述ではなく、Bを既知の情報とし、その未知の情報であるAを示す。つまり「Bであるのは、ほかならぬAである」という強調の文なのです。(第2講「メッセージとメディア」より)
ユーミンの「やさしさに包まれたなら」の中に、「目にうつる全てのことは メッセージ」という一節がある。歌詞を知らない人に野暮な説明をするなら、目覚めた朝にカーテンを開いた主人公が、木漏れ日の中で目に映る全ての光景を「メッセージ」として受け止めた一瞬が描かれている。では「目にうつる全てのこと」がメッセージなら、その「内容」は何か?著者の答えは一言、「わかりません」。でも主人公はきっと、この状況や過去の生き様によって「目にうつる全てのこと」に自ら意味付けをして受け止めるだろうし、まさにこれが「メディアこそがメッセージである」なのだ、と。なるほど。マクルーハンの説明にユーミンを持ってくるとは、なかなかやるなあ。
知的な女性とお酒でも飲みながらマクルーハンについて語る機会があったら(あるのか?!)、ぜひとも使ってみたい一説だ。
結局、「メディアこそがメッセージである」という「プローブ」は、新しいメディアが登場すると、それが新しい環境を生み出し、私たちを取り込む。その環境とは「メディア」が伝える「内容」以上に力を及ぼすものであり、私たちはそれに対処しなくてはならない。そういう話です。(第2講「メッセージとメディア」より)
[2008年7月 1日] この日の感想・書評へ→

テレビだョ!全員集合
自作自演の1970年代
長谷正人/太田省一 編著
『輝く!日本レコード大賞』を見て、『NHK紅白歌合戦』を見て、『ゆく年くる年』を見て年を越す。典型的な都市郊外の中流階層だった私も、少年時代はまさにこのパターンで年を越していた。日本人の全員がそうだったとは思わないが、この年越しがステレオタイプとしてのリアリティをもっていた時代が、長く続いたことは事実である。(第6章「テレビと大晦日」より)
70年代は「TVの時代」だった。流行りの音楽もファッションもスポーツもアートも遊びも言葉も、発信元はほとんどがTVだった。一億の国民はTVを通じて長嶋茂雄の引退に涙し、「また逢う日まで」や「喝采」や「UFO」を口ずさみ、「浅間山荘」の成り行きをじっと見守り、大晦日ごとに「レコ大」、「紅白」、「ゆく年くる年」をはしごした。個人的にも70年代は小学生、中学生、高校生と成長していく時代で、その時々の記憶は結局何らかの形でTVと結びついている様な気がする。
本書は「8時だョ!全員集合」「ザ・ベストテン」「時間ですよ」など70年代に一世を風靡した番組を読み解きながら、バラエティ・歌番組・ドキュメンタリー・ドラマ等のジャンル毎に当時のTV文化の実相を読み、現在のTV文化の起源を探るメディア論。オタク的盛り上がりとは一味違う、知的な研究として当時のTVを振り返りたい向きには最適である。
すべてのジャンルでテレビが執拗に「キャラ」を求めるようになった現代は、「女子アナ」という記号もまた一つの「キャラ」として消費されていく。いや、正確に言えば「テレビにおけるキャラ消費」の原形こそ、一九八〇年代に浮上した「女子アナ」だった。(第7章「『女子アナ』以降 あるいは"一九八〇年代/フジテレビ的なるもの"の下部構造」より)
[2008年5月11日] この日の感想・書評へ→

サイバージャーナリズム論
「それから」のマスメディア
歌川令三・湯川鶴章・佐々木俊尚・森健・スポンタ中村
ジャーナリズムの定義にとっても、「誰」が行ったかより、「何のために」行ったかが重要になってくるだろう。
それでは、何のためにジャーナリズムがあるのだろうか?
それはやはり「社会をよくするため」だと思う。「社会をよくしたい」という気持ちがベースにある言論活動は、すべてジャーナリズムと呼んでもいいのではなかろうか。(第二章「『プロの記事』はブログより価値があるか?」より)
ネットやブログの隆盛に絡めて語られる「ジャーナリズムの危機」というのは、詰まるところ「新聞社の優位性の危機」に過ぎないことが多い。でもジャーナリズムという言葉の本質から考えると、「新聞社の危機」即ちジャーナリズムの危機、というのはちょっと違う気がするし、これって何となく、「読売ジャイアンツ人気の衰退」を短絡的に「野球人気の衰退」と言いたがるゴーマンな感性と似ている様にも思える。
巨人戦しかTV中継されなかった一昔前とは違い、北海道にファイターズ、東北にイーグルスがあり、福岡ではホークスが300万人もの観客を動員している今日。相対的に巨人戦の視聴率が下がるのは仕方ない話であり、それを短絡的に野球“全般”の人気凋落へ敷衍しようとする論調に違和感を覚える野球ファンは多いはず。「ジャーナリズムの危機」についても同じ。元から新聞に影響されない人々にとっては、新聞の影が薄まったところで特に不都合はないし、さほど世の中が変わって見える訳でもないだろう。
ネット時代のジャーナリストの要件は、(1)自らの考えを発信し、そのことによって他者の共感を得ること、(2)共感の積み重ねによって、自分の記事以外のさまざまな情報の“鑑定人”として信頼を得ること、この二つを満たす人物であることだ。(第八章「『ネット』はいいこと尽くめではない」より)
[2008年1月30日] この日の感想・書評へ→
テレビアニメ魂
山崎敬之
「葛藤」を抱えた主人公、それを揺さぶる「太陽」、そしてその反対の性格を持つ「月」。この三つがそろえば、基本的な設定は終わりである。あとは必要に応じて、足りない要素を埋めていく。・・・(中略)・・・適切なキャラクター設定さえできれば、テレビアニメのシリーズでも一話ごとに誰に焦点を当てるかを変えていくだけで、苦労せず話を作っていける。(終章「シナリオには法則がある」より)
著者はアニメ制作会社「東京ムービー」で22年間シナリオ制作に携わった、フリーのアニメプロデューサー。「巨人の星」で飛雄馬が1球投げるのに30分かけさせた張本人であり、「アタックNo.1」の主題歌の作詞者でもある。視聴率が高くても、キャラクター商品が売れないという理由で番組が終了させられたり、スポンサーの社長夫人の鶴の一声でシナリオが変更されたりといった、赤裸々な制作現場の実態がいくつも紹介されており、「巨人の星」世代としては興味深い話題が満載だ。
またそうしたネタ話だけでなく、「シナリオ作りの法則」について書かれたわずか8ページの終章だけでも十分に価値があった。「すべての表現で大切なのは『空間』を作り出すことだ」との言葉は、まさにライティングの真髄でもあるから。そう言えば心に残る昭和の歌謡曲には、行間のドラマがあったよなあ。
おそらく詩も、アニメも、ほかのすべての表現でも大切なのは「空間」を作り出すことなのではないかと僕は思っている。一行一行が強く立っているからこそ、行と行の間をうんと離すことができるように、ひとりひとりのキャラクターがしっかり立っていればこそ、状況を説明しなくても伝わる豊かな情感が生まれる。ドラマとは、そうした「空間」にこそあるのではないだろうか。(終章「シナリオには法則がある」より)
[2008年1月21日] この日の感想・書評へ→

世界のしくみが見える「メディア論」
有馬哲夫
ちゃんと謝りさえすれば、メールだろうが、電話だろうが、手紙だろうが、直接の言葉だろうが変わりない。謝罪は謝罪だと考えます。・・・(中略)・・・コンテンツに気を取られると、メディアの違いによって生まれる細かい相違点に十分注意を払わず、同じものを取り上げているのだから同じだと、安易な結論に至ってしまうのです。
しかし、実際には同じだと思っているコンテンツはメディアによってかなり違うのです。(第一回講義「メディア研究とは何か」より)
なるほど。誰かに謝罪の意を伝える時に、直接出向いて頭を下げるのと、肉筆の手紙をしたためるのと、電話で詫びるのと、メールで済ませるのとでは、伝わり方は全く異なるだろう。それがたとえ、全て同じ「ゴメンナサイ」の6文字であっても、場合によっては全く逆の意思に取られかねない。まさに中身(コンテンツ)よりも「メディア(こそ)はメッセージ」。何でもない例え話だが、頭だけで理解していたマクルーハンの有名な箴言が、しっくりと腹に落ちた気がする。
また仕事柄、文字校正という作業は日常的に欠かせないが、経験上モニター画面よりも紙に出力した方がミスを発見しやすい。その訳も、マクルーハン理論の中の「反射光」と「透過光」によって明解に説明されている。
それまでは一方的にコメントや批評を述べ権威と見られていたメディア・エリートたちは、視聴者がインターネット(現在のところは掲示板)でコミュニケーションするようになった結果、自らもネット上における批判やコメントの的にされるようになり、彼らが持っていた権威は絶対性が薄れ、相対化されるようになっています。
いまや、視聴者は一億総評論家となって、メディア・エリートのコメントをネット掲示板の議論の材料としか見なくなりました。(第六回講義「電気メディアはどんな現代人を作り出したか」より)
[2008年1月 4日] この日の感想・書評へ→

デジタルメディア・トレーニング
情報化時代の社会学的思考法
富田英典・南田勝也・辻泉編
ケータイは友人との「出会い」だけでなく「別れ」にも役立つ。これを社会学者の辻大介は「オンーオフの容易な関係」と呼ぶが、いわば友人との「出会い」と「別れ」が、「(連絡先の)交換・登録」と「切る・消す」になったのだ。(第2章「ケータイの現在」より)
ケータイやネット、ビデオゲームといったデジタルメディアについて、あえて「敵か味方か」という視点から社会学的に論じてみようというのが、トレーニングと名付けられた本書の趣旨。実際のところ「ネットは(ケータイは)敵か味方か」という二者択一自体ナンセンスではあるが、先月神戸の某高校で起きた、「裏学校サイト」が絡むいじめ自殺の様な事件が身近に起きると、たやすく人を傷付け得る「敵」としてのネットの一面を、否応なしに意識させられてしまう。
かといって「学校側がそうした裏サイトをきちんと監視すべきだ」等々、ピント外れな責任追及を掲げる識者の声を読まされると、問題はそこやあれへんで〜と突っ込みを入れつつ、ああ世間のネットに対する知識って所詮その程度なのよね、と改めて感じさせられる。
テクノロジーや情報環境に依存することは、多様な文化や音楽を許容するようでいて、じつは好む系統だけを選んでいるということになりかねない。それ以外の情報は排除する「文化的・社会的不寛容さ」が知らぬ間に進行しているかもしれないのである。そうならないために、私たちは、エゴを追求すると同時に、コモン (共有)を意識すべきと考える。(第11章「メディア文化の未来」より)
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テレビ標本箱
小田嶋隆
刑事の素行(タバコのポイ捨て、粗暴運転、警察車両の私的改造、歌舞伎町カジュアルなマル暴ファッション、署内の女性警官に対する無遠慮なセクハラ発言とお茶汲みの強要、組織的な新人イビリなどなど)を見るだけでもツッコミどころは山ほどあるわけなのだが、なにより容疑者の扱いがいくらなんでもひどい。(第4章2004.10.31「西武警察スペシャル」より)
ある調査によると、今年の新入社員のうち喫煙者はわずか1割にまで減ったそうな。確かに周りの若い男の子たちでタバコを吸う人は確実に減ったし、酒場でウイスキーを頼む奴を見かけることはない(ましてや日本酒など・・・)。自分たちの頃は、松田優作なんかが何気なくタバコを吸いウイスキーを飲むシーンを見て、「オレもあんな風に」なんて憧れたもんだが、昨今のドラマはそんな“不健康な”シーンを主人公に演じさせないから、[タバコ=大人のカッコよさ]的図式がなくなり、単なる不健康なオトナのおしゃぶりになってしまったようだ。
まあ、国民の健康という観点からは喜ばしいことだろうが、“一億総健康オタク”化していく世の中って、盛り場から路地裏が消えていく様な味気なさを覚える。
江川卓、桑田真澄、貴乃花光司、中田英寿・・・・メディアのおもちゃにされる中で、表情を失っていった過去の一〇代スターたちの顔を思い浮かべてみてくれ。彼らだって、はじめからハードボイルドだったわけではない。
こんな調子のメディアスクラムが続けば、斎藤クンも、早晩、あの中田ライクな(っていうか、ゴルゴ13みたいな)無表情を身につけることになる。(第5章2006.9.10「甲子園報道」より)
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ジャーナリズムと権力
大石裕
ジャーナリストが生み出すストーリーやプロットには、社会で共有されている物語が大きな影響を及ぼしている。そして、そうした過程を経て生み出されたニュースが、既存の物語を補強するうえで重要な役割を果たすことになる。言い換えれば、ニュースは現代における集合的記憶または「神話」を再生産し続けているのである。(第3章「ニュースの物語とジャーナリズム」より)
世の中では日々多種多様な出来事が起こる。その全ては厳密に言えば、発生した日時や場所、関係する人間、細かい事象等、どれ一つ“同じ出来事”はない。ただジャーナリズムによる報道を通じて、本来個別であるはずの出来事は、過去や同時期の類似した出来事と関連付けられ、一定の文脈が与えられてゆく。そして多くの人々はそうした物語的構造の助けを借りることで、初めて出来事の意味を理解することが可能になる。こうした出来事の“名付け・意味付け”はジャーナリズムの重要な役割の一つだが、同時に“名付け・意味付け”できる立場そのものが、一種の強大な“権力”であるとも言えるのだ。
通常「ジャーナリズムと権力」を論じる場合、権力の監視機関として、あるいは“第四の権力”としてのジャーナリズムがテーマにされることが多いが、実はニュースを“物語化”する力も権力になり得ることを、本書を通じて改めて認識することができた。
大多数の人々は、ジャーナリズムによって提供される情報をもとにして、自らの頭の中に「現実」を構築し、構成し、社会をイメージしている。それとは逆に、ジャーナリズムによって選択されず、報道されなかった出来事や問題・争点は、その当事者以外の人々にとっては、「現実」として認識されることはない。(第4章「世論調査という『権力』」より)
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ジャーナリズムの可能性
ジャーナリズムの条件4
野中章弘(責任編集)
ジャーナリズムは恋に似ている。伝えたくて伝えたくて仕方のないこの気持ち。世界の片隅でこんなにも理不尽な仕打ちを受けている人びとの苦悩と困難、怒りとかなしみ、それに打ち勝とうと挑戦していく人間の勇気と行動を、自分の愛する人に伝えたい。そんな誰もが持っている動機こそ、ジャーナリズムの原点だと私は思っている。(本田雅和「市民のための新聞へ」より)
いろいろな意味でマスメディアが閉塞状況にある今日、果たして既存メディアの再生は可能なのか、インターネットの新聞・放送,そしてビデオ・ジャーナリズムに現状を打破する力はあるのか.また大学等の場でジャーナリスト教育がいかに成されるべきかを、それぞれの現場から問題提起したのがこのシリーズ最終巻である。
一回の報道で数百万人単位の受け手に影響を及ぼせる既存メディアに対し、本書で紹介されている様なネット新聞・ネット放送が持つ個々の力はいかにも脆弱だ。ただその反面、彼らはネット空間上で一人ひとりの受け手とダイレクトに繋がり、国境を越えて拡張することができる。人々の価値観の多様化が進んでいく中で、新たな可能性を秘めたジャーナリズムの地平が、ここには確かに広がっているように思う。
「現場に神宿る」が新聞ジャーナリズムの基本であり、出発点だ。「魔法の情報箱」にも見えるパソコン、インターネット時代になればなるほど、記者が足と労を惜しまずにコツコツと現場を歩き、見て、聞いて、鮮度の高い事実、いわゆる「ナマもの」をつかむことの大切さがますます増している。そして、色も、音も、匂いも、形も、具体的に伝わるような言葉を編み出し、紡いで紙面に刻む。(新妻義輔「足で取材する現場記者の養成へ」より)
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メディアの権力性
ジャーナリズムの条件3
佐野眞一(責任編集)
靴底をすりへらして事実を追い求め、脳ミソに汗をかきながら淡々と筆を運ぶ。あるいは、冷静なまなざしでとらえた対象を、くもりなく写しとって定着させる。それを肩肘張らず、ユーモアすらもってこなす。平たくいえば、ウォームハートとクールヘッドこそ、ジャーナリストに求められる不可欠の条件である。(総論・佐野眞一「報道と権力をめぐる対峙と癒着」より)
マスコミが権力と一体化し不信にさらされる中、再度公権力とメディアとの距離を点検しようとの趣旨で編まれたのがこの第3巻。本来権力を監視すべきマスコミが権力そのものになりつつある中、特に本書の後半に稿を寄せているフリージャーナリスト達の、現場に身を置いて書くという“当たり前の”行為に自らの存在価値を賭ける愚直さにシンパシーを感じる。
そもそもニュースは客観的な視点で書かれなければならない、というのが一般的な“常識”である。ただ、ある事件の発生現場を前に、5W1Hに沿って眼前の事実を正確に、客観的に伝えるだけならジャーナリストは要らない。ちょっと気の利いた学生アルバイトがいれば十分だろう。
本来ニュース記事や論評を書くという行為は、書き手の見識や洞察力、物の考え方、社会と向き合う姿勢などを土台にした主観的行いであり、その意味でジャーナリストにとって、ニュース原稿とは自分自身と等価であるはずだし、またそうであって欲しいと思う。
何が正しく、何が間違っているかを書かないのなら、それは単に目の前で起きたことをそのまま伝えるリポーターに過ぎない。過去の取材体験、様々な知識、それらに基づいて「事件、事象、現象」をとらえることにより、初めて「真実」を描けるのだ。優れた記者の「主観的記事」こそが、最も真実に近付いているのである。(北村肇「新聞の『限界』と可能性」より)
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報道不信の構造
ジャーナリズムの条件2
徳山喜雄(責任編集)
もともとジャーナリストとは、場合によれば危険を覚悟しなければならない職業だ。警察官や消防士と同じである。暴漢を前に危険だからといって警察官が逃げ出し、火が次々と住宅に燃え広がっているなかで危険だからといって消防士が逃げ出したら、世の中の治安や安全はどうなるのか。ジャーナリストが危険だからといって歴史的な現場から逃げ出したら、民主主義はどうなるのか。(総論・徳山喜雄「公共性をめぐる倫理」より)
「本来市民の側に立っているはずのジャーナリズムが市民から指弾されるのはなぜなのか」という問題提起の下、様々なメディア・立場に身を置くジャーナリストたちが報道不信の原因と課題点をえぐり出し、克服への道を探るというのがこの第2巻のテーマである。
その象徴が、池田市児童殺傷事件の犠牲者の葬儀会場で、「遺族の意思」により会場に警官が張り付き、報道関係者が締め出されたという事実。本来なら「権力対マスコミ・市民」という構図であるはずが、被害者の家族(=市民)はメディアから身を守るため警察権力を頼り、またそれが当たり前の市民感覚となりつつある。事件の被害者であることに加え、報道被害によってプライバシーを晒され二重の苦しみを味わうことへの怖れから、市民にとってマスコミは権力以上に警戒すべき対象となったのかも知れない。
「新聞記者」は職業の名称だが、「ジャーナリスト」は記者の在り方だと思っている。・・・(中略)・・・発表文にちょいと手を加え記事に仕立てても記者は務まるが、ジャーナリストとはいえないだろう。取材を重ね、考え、自分なりの問題提起を記事にする、その不断のプロセスがジャーナリストを作る。(山田厚史「経済報道をわかりやすく」より)
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職業としてのジャーナリスト
ジャーナリズムの条件1
筑紫哲也(責任編集)
好奇心。ジャーナリストの条件、求められる資質について、いろいろなことが言えるだろうが、全てのことはそこから始まる。(中略)
よきジャーナリズム、よき市民社会を支えるのは究極のところ、一人ひとりのジャーナリスト、市民の資質であり、なかでも「志」だと私は思う。(総論・筑紫哲也「ジャーナリストとは何者か」より)
80余名のジャーナリストが,報道の現場からジャーナリズムの課題と可能性を問う全4巻シリーズの第1巻。ジャーナリストとは一体何者であり、何を成し得るのかを、新聞・テレビ・雑誌の現場で活躍する記者・ディレクター達が実体験を例に挙げながら、メディア再生への提言を自らの言葉で行っている。
「防衛庁リスト事件」「沖縄返還密約事件」「薬害エイズ問題」「水俣病問題」「豊島産廃報道」等、例示されている各事件の重み、そしてこれらと正面から向き合った執筆者達の苦闘の跡が、職業としてのジャーナリストが持つ社会的使命、志の大切さを浮き彫りにする。一方でサラリーマン向け夕刊紙が、権力への猜疑心と下世話な批判精神を論拠に、自らを「針小棒大ジャーリズム」と位置づけその存在意義を軽やかに主張した一章も興味深かった。
職業としてのジャーナリストに欠かせないのは、(1)何でも探求しようとする知的好奇心(2)公正で正義の社会をつくろうとする志(3)最底辺の弱者の視点(4)あきらめないで最後まで取材する執念(5)困難な事態でも何とかなるさという楽観性、の五点だと思う。
一本の記事が読者を感動させるし、つもりつもって世の中を変える。私はジャーナリストになって三〇年を越すが、虹を探して毎日ワクワクしている。(伊藤千尋「ジャーナリストは何を伝えるのか」より)
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検証日本の組織ジャーナリズム
NHKと朝日新聞
川崎泰資・柴田鉄治
川崎 常に使命感を持つことであり、権力の誘惑に屈しないこと。「権力に愛されるのはジャーナリストではない」「権力に憎まれることを恐れてはならない」という言葉を記者たちに贈りたい。 柴田 使命感と同時に、幅広い視野と見識を持ちたいものだ。(提言「これからどうすべきか」より)
高校の同級生であり、NHKと朝日新聞でそれぞれ幹部社員(会長室審議委員/論説主幹代理)だった二人のベテランジャーナリストが、それぞれの出身母体を中心とした組織ジャーナリズムの弱体化を憂い、辛辣な苦言を綴った論考集。全編にわたって、「新聞やテレビは一体何をしているのだ」という苛立ちに満ちている。
中でも印象に残ったのは、多くの新聞社が自社傘下の印刷所の空き時間に「聖教新聞」「公明新聞」の印刷を受託、事実上創価学会の“カネ縛り”にあっているという記述である。また経営が楽ではない地方のテレビ局にとっても、学会提供による宗教系PR番組が貴重な収益源となっているため、暗黙のうちに支配を受ける形になりつつあるとのこと。特定の宗教団体が、時の政府と密着しながら同時にマスメディアを浸食しつつある様は、何となく薄気味悪い。
ジャーナリズムの仕事は、日々の出来事の報道ではあるが、それは歴史に残るものであり、一過性のものと考えてはならない。常に過去の報道を検証し、過ちがあれば、それを正していく勇気が必要である。それが国民の信頼を得る道にもつながるのだ。(「あとがき」より)
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対論・日本のマスメディアと私たち
野田正彰・浅野健一
野田 本来、教育だとかジャーナリズムに携わる人は日々、社会認識が深くなっていかなければならないのに、その世界に長くいればいるほど、表層的になって、意味不明な人間になっていくというのは情けないことです。(第一章「新しいジャーナリズムを創るために」より)
「JR福知山線脱線事故」「北朝鮮拉致問題」「附属池田小事件」「イラク日本人拘束事件」等近年に起きた事件を具体例に挙げながら、マスメディアが内包する構造的弊害について、それぞれ精神科医と元共同通信記者の肩書きを持つ二人の論客(現大学教授)が分析。戦争にまつわるメディアの歴史や新聞記者の労働環境にも触れつつ、主に報道被害の問題に光を当てている。
例えばイラクで人質になった三人に対し、国内メディアのほとんどは大なり小なり政府の「自己責任論」に与した感があるが、海外メディアから見ると彼らへのバッシングぶりは相当異様に映ったという。確かに近頃は有名人・無名人に関わらず、“池に落ちた犬は叩け”的な風潮で煽られているなと感じる事件は少なくない。単に分かりやすいとか歯切れが良いというだけで、正論らしき強者の論理だけがまかり通る世の中って、結構危険な匂いがする。
浅野 別に広告主からの圧力とか、権力からの圧力とか、書いたら警察に捕まるということは全くないはずなのに、自己検閲、セルフセンサーシップ、悪い意味での自主規制が行われている。これはマスコミ幹部の責任がすごく大きいと思います。自分を大事にする世代の若い記者たちが、この状況をうまく変えて欲しいなと思います。(第一章「新しいジャーナリズムを創るために」より)
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メディアが市民の敵になる
さようなら読売新聞
山口正紀
私は入社直後から、「新聞記者であること」に悩んできた。市民の人権を守り、権力を監視する立場にあるマスメディアが、警察情報を鵜呑みにした犯人視・プライバシー侵害報道で市民を苦しめている。私は人権侵害をするために記者になったのではない。なんとかして報道のありようを変えたい−−(「はじめに」より)
新聞社在職中から自社を含むメディア批判を臆せず展開し、最終的には日朝首脳会談報道を巡る外的圧力で記者職を解かれ退社の道を選んだ、元新聞記者による “人権とメディア”に関する論考集。とりわけ、「権力のチェック機関」であるべきマスコミが政府・警察の公式発表に依存している現状、及び「知る権利」の名の下に実名報道による被害を受けた人々の問題に多くの誌面を割いている。
今日のマスコミが抱えている閉塞状況を打破するためにも、権力に立ち向かう強さと弱者への優しい視線を合わせ持つ、新世代のジャーナリストの登場に期待したいところ。昨今の安定志向の大学生には大手金融機関が人気のようだが、「踊る大捜査線」の物語構造を大新聞社に移し、自らの使命感と現実との間でもがき苦しむキムタク主演のドラマでも作られれば、ジャーナリズムに関心を持つ若者が増えるかも知れない。安直ではあるが、何事もきっかけだ。
「メディアを批判するなら、新聞社を辞めろ」と言うような記者は、内部告発をどんな姿勢で取材するのだろうか。告発者に「会社を辞めるべきだ」と言うのだろうか。いや、それ以前に内部告発者は、そんな会社主義の編集幹部に支配された新聞社を信頼し、情報を持ち込むだろうか。(03/2/14 「記者の『言論の自由』−新聞にも情報公開が必要だ」より)
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天声人語の七年
750字で考えた日々
白井健策
新聞にコラムを毎日書くということは、結局は自分自身を徹底的にさらけ出すことにほかならず、それは暴挙ともいうべきものである、ということがよくわかる。(「はじめに」より)
「毎日、休みなしに書いてます」というと、驚く人が多かった。だいたい、この欄は複数の記者が交代で書いていると思っている読者が多い。(第一章「とにかく毎日書く」より)
「天声人語」と言えば新聞コラムの代名詞、入試問題にも登場する“文章のお手本”的存在だ。休刊日を除く毎日ということで、当然複数の記者による当番制だと思い込んでいたが、本書によると基本的に書き手は一人。原稿用紙二枚程の字数で、来る日も来る日も手際よく旬な話題を採り上げていく技はまさに職人芸。森羅万象何を採り上げても全国にはその道の専門家がいるため、余程表現に気を配り慎重に下調べをして臨まないと、翌日には異論反論の手紙が山の様に届くというから大変だ。
中でも印象に残ったのは、今どき映画を見たことがない人はいないだろうが・・・と何気なく書き起こした一文に対し、視力障害者に毎日「天声人語」を読み聞かせているボランティアの人から、この日は彼らが可哀想で読んであげられなかったとの手紙が届き、頭をがーんと殴られた様な衝撃を受けたとの下り。読み聞かせの題材となる「天声人語」だからこそ、そこまでの配慮が必要になる訳だが、文章を生業にする者としては他山の石とすべき話だ。
ひとりで書いている、と聞くと、それは不合理だ、第一、疲れるでしょう、過重労働じゃありませんか、という人がいる。大変なのはたしかである。楽だとは言わない。だが、何年も担当していると、面白いもので、書き続けるうちに、ひとりで担当することにも意味がある、ということがだんだんとわかってくる。
ひとことで言うと、署名はないが、実質的には、これはごく個人的な欄なのだ、ということである。(第二章「『天声人語』とは」より)
[2007年5月 1日] この日の感想・書評へ→

テレビは日本人を「バカ」にしたか?
大宅壮一と「一億総白痴化」の時代
北村充文
日本の大衆の知的レベルはそれほど低いものではないから、「これまでの商業放送は唯量主義(視聴率競争)であったが、もうそろそろ質の方へきりかえるべきである」と大宅は苦言を呈している。・・・ (略)・・・以来半世紀近く、これは日本の商業放送業界でつねに古くて新しい問題になった。(第三章「『マス・コミの白痴化』から『一億白痴化』まで」より)
「テレビは恐竜の卵のようなもの。今踏みつけたら簡単につぶれるが、孵化したら将来恐ろしい怪物になる」と、阪急電鉄総帥だった小林一三は言った。大宅壮一も「テレビこそ、二十世紀後半が生んだ文化的怪獣である。魔物であって、その正体をつかみにくい」との言葉を残した。実際昭和の後半はまさにテレビ時代であり、テレビが世論を左右し、人びとの価値観に影響を与え、多くの流行を生み出していた。テレビっ子だった私の思い出の多くも、かつて見た音楽番組やドラマ、スポーツ中継等と密接に結びついている。
しかし日本でテレビ放送が始まって54年。猛威を振るい続けてきた怪獣も、そろそろその勢いが衰えつつあるようだ。
来たる2011年7月24日、地上アナログ放送は停波になり、現行の古いテレビで地上波が視聴できなくなる。家電業界は買換需要に大きな期待を寄せているが、若い世代の中にはYouTube等の動画共有サイトで十分とばかり、新しいテレビを買わない選択をする人が多く現れるだろう。固定電話を設置しないのと同じ感覚で・・・。
〈見る文化〉のテレビ放送が半世紀を超えた現在、インターネットや携帯電話という新しい〈さわる文化〉の入り口にいる私たちにも、メディアに嘘をつかせない、メディアの嘘を見破るという覚悟が必要なのではないか。(第六章「私をアホにしないで」より)
[2007年4月28日] この日の感想・書評へ→

新聞記者という仕事
柴田鉄治
ジャーナリズムの原点は、権力に対するチェック機能であること。「言論の自由」とは権力者に耳の痛いことが言える自由という意味であること。ジャーナリズムは、大勢とは違う少数者の意見を大事にすべきこと。(第一章「新聞の輝き」より)
朝日新聞で論説委員、社会部長、出版局長等を歴任した著者が、
「日本の新聞はいま、戦後最大の危機に直面している」との認識の元、「ジャーナリスト精神」の衰退を嘆きつつ、「新聞よ、死ぬな」と警鐘を鳴らしている書。自ら関わった「南極観測」の思い出に始まり、「ロッキード事件」「リクルート事件」といった歴史に残る調査報道の事例、朝日vs.読売の「憲法対決」などを踏まえつつ、近年の新聞ジャーナリズムの歩みが平易な文章で簡潔に把握できる。
中でも「ジャーナリズムは個が支える」=ジャーナリズムの最後の拠り所は個々の記者の「志」に帰着するという強い信念の下、
「ジャーナリズムとは優れたスター記者が道を切り開いていく世界なのだ」と敢えて言い切っている点が、自らの職業に対する矜持を感じさせて小気味よい。そうそう、内側からの「使命感」や「志」に突き動かされてこそジャーナリストだよなあ〜と、ジャーナリストでもないくせにエラく共感してしまった。
モノが燃えるには、燃料と酸素と発火点以上の温度が必要であり、これを燃焼の三要素という。社会が燃え上がるにも、燃料(具体的な事実)と酸素(人々の関心)と発火点以上の温度(新聞の報道)が必要なのだ。(第一章「新聞の輝き」より)
[2007年4月21日] この日の感想・書評へ→

実践的新聞ジャーナリズム入門
猪俣征一
今は、新聞社を志望する一方で金融業を受け、国家公務員試験受験も考える大学生に会うことはまれではない。ジャーナリストを目指すのではなくエリートを目指して入社する若者も出てきている。採用でジャーナリストにふさわしい素質を持っているかどうか、見極めることがいっそう重要になっている。(第1部第7章「地域から国・世界が見える」より)
信濃毎日新聞の元編集局長が、東大で行った半年間の講義「新聞論」の内容を元に、自らの経験を踏まえて書き起こした硬派なジャーナリズム論。前半で現代ジャーナリズムが抱える問題点を抉り、後半では記者志望の学生や駆け出しの記者に向け、実践的な取材技術や心構えを説く内容となっている。
前半のジャーナリズム論が中核ではあるが、ここでは敢えて後半の実践指南の部分から印象的なフレーズをいくつか:
・新聞記者は「人の嘘を見破る仕事」
・取材は正面からが基本。「後ろから斬りつけるような取材はすべきではない」
・「形容詞や副詞ではなく、事実の羅列で人の心を揺り動かす記事を目指すべき」
特に最後のフレーズは、広告コピーの大家が同じ趣旨のことを書いていたことがあり、改めて“書く”ことの基本を自戒した次第である。
ジャーナリストの一員であることは間違いないが、新聞社にいるから「新聞」記者なのだ。その結果、ジャーナリストの論理だけで行動できない面もある。記者を生きるということは、ジャーナリストとして生きることと新聞社の社員として生きることを、調和させることが必要になる。(第2部第1章「新聞記者の適性と行動規範」より)[2007年4月17日] この日の感想・書評へ→

新聞なんていらない?
記者たちの大学講義
朝日新聞社編
ジャーナリズムの基本として、「権力の監視」はよく言われます。もう一つが、「声なきものに声を」、声が出せない人たちの近くに行って話を聞くことですね。そういう二つの大きな役割があります。事件に関する報道をすそ野広く、視野を長く考えていけば、そこにはその重要な二つが両方含まれているのだと思います。(4「被害者と記者」より)
かつて「TV vs.新聞」という構図で比較されがちだったマスコミだが、ここ最近はそうした枠組みが大きく揺らぎ始めた感がある。早い話が「TVも新聞も見ない」若者が確実に増えているのだ。十代後半の我が家の子供達も、見たい番組の時しかTVをつけないし、新聞は番組欄をざっと眺める程度で、記事を読むことはまずない。ただ読書そのものは好きなので、要するに報道の主軸である社会全般への関心がまだ希薄なのだろう。やがて必要に迫られ社会への興味が頭をもたげた時、彼らが主に新聞を手に取るのか、TV画面に向かうのか、あるいはネットやケータイから情報を得ようとするのかは分からない。
本書は朝日新聞社の記者、営業、広告担当の社員及び元役員が、取材の裏話や新聞の読み方、販売店の現状、新聞広告を読み解く視点などを、それぞれの実体験を元に紹介した講義録。大学生に語りかける内容なので、新聞に携わる人々のホンネと新聞社の全体像を、内側の視点から分かりやすく掴むことができる。
僕は新聞は風だと思っているんだ、と中馬さんは答えた。風は自然現象だけれど、人は自分たちで風をつくり出している。風をつくることもできる。台風のように強く吹く時もあれば、ささやくように吹いたり、止まる時もある。風を起こす人間になれればとか、昔みたいにそんな気負いはないよね。情報を運ぶ、風としてできることは何かなと、早いころからそんな感じで考えてきたような気がする、と。(9「新聞の未来」より)
[2007年4月 9日] この日の感想・書評へ→

ご臨終メディア
森達也・森巣博
森 ・・・「ご遺族の心情は・・・・」式の報道は、言ってみればマニュアルだし、何よりもそんな報道で発露される情は、主体的な情ではありません。読者や視聴者という顔のないマスが抱くであろうと、伝える側が仮想する情なんです。
森巣 想像の情、そして、主語のない情。
森 はい。主語のない情など、そもそもは論理矛盾だし、とてつもなくグロテスクな存在です。(プロローグ「なぜ軸がずれるのか」より)
司法・立法・行政に次ぐ第4の権力として、マスコミが果たすべき社会的責任は重い。インターネットのプレゼンスが高まったとはいえ、マスコミ報道の影響力には太刀打ちできないのが現実だからだ。ただ本書を読み進めるうち、今日のメディアがどっぷりと組み込まれている「数字偏重主義」のシステムに、暗澹たる気分にさせられてしまった。数字が稼げる情報対象は“世間”が飽きるまで徹底的に消費され、数字が取れないものは即刻断頭台に送られる。いわばPOSデータの結果次第で、数多の新商品が発売から数日で棚から閉め出されるコンビニの売場と、ほぼ同次元の意識で情報の価値が量られている訳だ。そして言うまでもなく視聴率もPOSデータも、結局は生活者自身の視聴/購買行動が、そのまま正直に数字として反映されているに過ぎない。
森巣 ・・・報道すると影響を与える、プロパガンダになると思って、メディアが勝手に自粛する。確かに、大衆はバカじゃないかと思うことも多いのです。たとえば、バカじゃなかったら、なんで三〇〇万人の東京都民が「極右」のシンタローに投票するかと。これは間違いでしょうか。
森 その価値観としてはバカですね。(第三章「見せないメディア」より)[2007年1月28日] この日の感想・書評へ→

映像とは何だろうか
吉田直哉
〈映像化〉とは、割り符をつくり、その片方を所有してひとに示す作業なのではないか?
それは、現実というもう片方の存在を確かに予感させるときに、はじめて信頼できるものとなる。(15「〈映像化〉とは何だろうか」より)
テレビ草創期に、ドキュメンタリー作りの草分け的存在として冒険的かつ大胆な番組作りを重ねた、NHKの元看板ディレクターによる番組制作の回想記&映像論。録画用のカメラが手動(15秒に1回)のぜんまい式で動いていた時代の、本物の侠客による迫力満点の賭場の撮影や、インドの悲惨なハンセン氏病患者用集落のロケ、近年まで長崎に現存していた「隠れキリシタン」の取材、デビュー間もない緒形拳を起用した昭和30年代のNHK大河ドラマ「太閤記」「源義経」の思い出など、ふだんあまり見聞きすることのない珍しいネタが満載の本。古き良き時代の「活動写真屋」を彷彿させる、「テレビ屋」の意気地と気概が全編に漂っている。こういう気骨のある人が今でもテレビ界の現場で睨みをきかせていれば、今回の「あるある大事典」のような姑息な捏造事件は起こり得なかったのかも知れない。
映像は、実体がないかもしれない。しかし、映像には、内に秘めた火があるのだ。
映像が内包する火は、心に点灯する。
心から心へ、さらに多くの心へ連鎖反応をおこして、思いもかけないドミノ現象となるから、映像はふしぎなのだ。(16「心に火をつける」より)
[2007年1月25日] この日の感想・書評へ→

パンドラのメディア
稲増龍夫
新時代の受け手たちは、メディアに対するホットな思い入れとクールな相対化のまなざしを同時に持った存在であり、「送り手」の手の内を読んで「虚構」を「虚構」として楽しむという、いわば「遊びのための遊び」あるいは「自己目的化された遊び」を楽しむことができるようになったのだが、それがフィードバックする形で、番組のあり方も変わっていったのである。(第5章「テレビの解体」より)
子供の頃の大晦日と言えば、TVを付けっぱなしにして「輝け!日本レコード大賞」「紅白歌合戦」、全民放共通の「ゆく年くる年」を見ながら年越しをしていた。三が日の間も、(特にビデオデッキがまだなかった頃は)TV欄を見ながらどの特番にするか真剣に頭を悩ませつつ、「スターかくし芸大会」などの定番を家族で楽しんだものだった。自分の周囲も含めてTVを肴にまったり過ごす事が、昭和後期のごく一般的な年末年始の光景だったように思う。
ネットもケータイもHDレコーダーもゲーム機もない、ただTVだけが家庭内娯楽の中心だったあの頃。今にして思えば選択肢がないというのも、意外にシンプルで快適だったのかも知れない。
これは、言ってみればメディアにおける「自己責任」であり、ある面での苦痛を伴うものの、言いたい放題で何の責任も果たさない「怠惰な受け手」との決別を意味するのである。この様に、インターネットが「受け手の自立」を支援するとしたら、それは明らかに「メディアの進化」と言って過言ではない。(第5章「テレビの解体」より)
[2007年1月 4日] この日の感想・書評へ→

メディア文化を読み解く技法
阿部潔/難波功士
「異文化」を背景に持つ人が、たかだか1週間程度、「われわれ」のもとに滞在し、「われわれ」のことがわかった気になって、最後に感動の涙とともに去っていく。そのような映像を見せられたならば、多くはその程度で「理解」されることへの不快感や滑稽さを強く感じるのではないだろうか。だが、それは、まさに、われわれがテレビで「異文化」を眺めるなかで行為しているものなのである。(第3章「『異民族』〈博覧〉」より)
「おいしい生活」等80年代西武セゾングループの広告の変遷/美容整形とイメージとしての身体/「世界ウルルン滞在記」に描かれる異文化との交流って?/ アニメの表現世界/インターネットにおける現実モードと物語モード/ローカルな音声メディアに見るメディアの生涯/少年少女漫画における女子マネージャーの描かれ方の変遷/「高田延彦引退試合」に見る男同士の絆/以上8つのテーマを切り口にして、メディアと文化の相関関係について様々な角度から分かりやすく、興味深く解説している書。
エピローグにも書かれてあるが、頭脳に負荷をかけるウエイトトレーニングとして、誰もが自分の興味が赴くままに、アニメや広告やインターネットやスポーツなどを学術的なテーマとして研究したって構わないんだよ、と啓蒙している。
インターネットは、大小のメディアの集合体であり、ネットワークによって形作られている。個別に存在する〈メディアの生涯〉に、われわれは少なからず関わっているのである。(第6章「メディアの生涯」より)
[2006年12月31日] この日の感想・書評へ→

進化する紙メディア
赤羽紀久生
ポータルサイトのように自分の好みを価値観に沿ってリクエストして、その内容に応じて記事がまとめられて届けられれば、情報の無駄はなくなる。雑誌が対価を払う価値のある情報の集合体になれるのだ 。(4「今後考えられるビジネスモデルの提案」より)
大半の情報がネット経由で流通する世になり、紙の広報・宣伝販促物の数は確実に減ている。知りたい事はまずネットで検索・・・というスタイルが定着した今、こと情報収集の速度と効率性に関して紙は電子メディアに敵わない。誰もが手軽に発信者になれる点でも、双方向ですばやく情報交換できる点でも然り。グーテンベルク以来の大幅なパラダイム変換が、情報コミュニケーションの世界に確実に起こっている。
ただし一読書好きとしては、電子メディア主体の世の中にはまだ当分なって欲しくはない。それは紙の質感、温もり、手触り云々という次元の話ではなく、書物と向き合って過ごす時間と空間の“濃度”“質”の問題なのであろう。少なくとも書店や古本屋巡りをする時の、ワクワクするような書物との邂逅の悦楽を奪われたくはない。読書は単なる情報入手ではない、人生の楽しみそのものなのだから。
Webやデータベースを入り口として情報を集め、可変させたコンテンツを組み立てて印刷物を出口とすれば、新しい紙メディアを生むことができる。(4「今後考えられるビジネスモデルの提案」より)
[2006年12月18日] この日の感想・書評へ→

メディア社会
佐藤卓己
私たちはテレビやインターネットや携帯電話に囲まれたメディア社会の生活を自ら捨てることはできないだろう。その軽薄さを「古きよき里山」の基準から批判することは容易である。しかし、それは多くの大衆文化批判と同じく、リベラルそうに見えて傲慢である。その高貴な精神の背後には変化に対する怯懦と他者に対する不寛容が見えかくれしている。(「はじめに」より)
メディアと言えば、かつては単純にマスコミを指す場合がほとんどだったが、今や紙・電波・ネット・ケータイはもちろん、都市空間や人も全てがメディアと見なされる様な時代になった。もちろんテレビ・新聞といった巨大メディアの影響力は相変わらず甚大ではあるものの、茶の間という空間が家庭から失せてしまってからはかつて程の影響力は薄れ、その間隙を縫って大小様々なメディアが虚実不明の情報を垂れ流している。そうした状況下で誤った情報に踊らされないためには、自助努力で玉石混淆の中から事実を峻別する能力が求められるが、自分なりの基準や羅針盤を持たないままでいると、思わぬ情報の落とし穴にはまりこんでしまう危険性が格段に増えたのが、今日のメディア社会である。
私たちは普通、メディアは「ニュースを伝達してくれる装置」だと考えている。しかし、実際にはメディアは「情報を過剰に伝えないための装置」である。正確にいえば、情報を選別し、「不必要な」ニュースを排除するために報道機関は存在している。(第7章「メディアの文化変容」より)
[2006年9月22日] この日の感想・書評へ→

電子メディアを飼いならす
飯田卓・原知章
テレビ・メディアの場合、私たちが何を見せられ、何を見せられなかったかは、じつは私たちが何を見たいと思っており、何を見たくないと思っているかの、かなり正直な写し絵であることを肝に銘じなければならないのである。(「海外情報型クイズ番組と人類学」より)
映像は、デジタル技術で巧妙に改竄されたものでない限り、カメラの前に横たわる「事実」を映し出してはいる。ただそれは、必ずしも「真実」とは限らない。テレビの世界では、映像はニュース番組を含め全てが「作品」であり、ファインダーから捨象された枠外の風景を思い描く事は至難の業だ。加えて、BGMやナレーションのトーン一つで、同じ映像でも全く異なった印象を与えられるし、ある意図の下で恣意的に編集された映像は、時間軸や登場人物の人間関係をいとも簡単に誤認させることができる。無論それは「放送に耐えうる作品として成立させるため」にプロの技が最大限駆使された努力の成果でもあるが、リニア編集技術の発達によって誰もが手軽に映像作品を創り出せる昨今、電子メディアに“飼いならされて”来た受け手の立場ってのは本当に危ういもんだなあとつくづく思う。
映像の強みは写っているものが事実だと思い込ませることができることです。文字で書かれたものは事実かどうか判然としません・・・(中略)・・・でも映像に写っていれば逃げも隠れもできません。写っていること自体が事実なのです。
しかし、わたしには映像のワンカットは、象形文字のように思えます。(「テレビ・ドキュメンタリーの制作現場から」より)
[2006年7月13日] この日の感想・書評へ→

テレビの罠
香山リカ
つまり、政府がいくら冷酷な競争主義を強いていたとしても、国民の側が勝手にそこに「優しさ」の幻想を見てしまう可能性があるのだ。そして、「竹中さんは笑顔が優しい」「安倍さんはソフトで人柄も温かそうだ」などと人々が「優しさの幻想」を完成させるのは、テレビによって伝えられる映像によってなのである。(第5章「三島由紀夫の予言」より)
日本能率協会の調査(本書掲載)によると、「メディアの中で大変役立っているものは」という質問に、過半数の人(50.2%)がテレビと回答。そして「小泉劇場」と言われ、昨年自民党が大勝した衆議院選挙でも、「投票の決め手となった情報入手媒体は」という問いに、何と61.7%もの人がテレビと答えたそうだ。多メディア化と娯楽の多様化による地上波の影響力低下が囁かれてはいるが、やはり依然としてテレビは“民意”や“世論”を創り出す点で最も重要な役割を担っているようだ。
ただ気を付けなければいけないのは、生中継であれ編集済のコンテンツであれ、画面に映し出されている真実と虚構は表裏一体であり、図らずも出演者の心の内をリアルに暴き出す場合もあれば、それを真実らしく計算して行うことで多くの人の気持を掌握することもできる、ということ。
カメラがそこにあるだけで、人は視聴者が自分に求めているイメージを自然に演じ、それを視聴者やテレビ関係者が喜んで受け取り、演じてはさらに過剰に演じる・・・・。こういうテレビ的な「沈黙の螺旋」メカニズムが作動してしまうのだ。そこには何の検閲も批判も、加わる余地はない。(「おわりに」より)
[2006年7月 8日] この日の感想・書評へ→

誰がテレビをつまらなくしたのか
立元幸治
競争が過激になり、刺激的で視聴者を煽ったり迎合した番組が増え、特集や感動が日常化し、お祭りが日常化するとき、逆に「日常」や「平凡」が非日常として意味を持つようになります。そして、それが本来のテレビのあり方ではないでしょうか。(第5章「どっちを向いても『韓流』?」より)
昔のテレビ番組に比べて今日の番組の方が“つまらない”とは、一概には言えない。いわゆる低俗番組は昔からあったし、テレビのつまらなさを嘆く有識者はいつの時代にもいた。
ただ、この10年でテレビを取り巻く環境が大きく変わったのは事実である。BS、CS、ハイビジョン、CATV、さらにはケータイ、インターネット、ゲーム機などメディアの進化と多様化が進み、人々の興味の対象は分散の一途をたどっている。こうした時代にあっては、地上波放送のマインドシェアは低落して当然であり、全国紙や週刊誌の影響力低下も根は同じ。大人から子供までが口ずさめる大ヒット曲や、時代を象徴する広告コピーが登場しなくなったのも、紅白歌合戦の視聴率が下がり続けているのも、こうした流れと軌を一にしている。要するに、時代が変わったのだ。
M・マクルーハンは、人びとがメディアに囲まれ、それを無自覚、無批判に受け入れてしまう現実から、それを、「壁のない牢獄」と表現しました。私たちは、常に見えない壁に囲まれており、そこで、先にふれた「感性の鈍磨」という現象も起こっているのです。(第6章「テレビの『怖さ』とは何か」より)
[2006年6月20日] この日の感想・書評へ→
マクルーハンの贈り物
中田平
人間は自分を取り巻いているメディア環境からの影響を客観的に〜(中略)〜分析することができるほど自由ではないのです。つまり、メディアに閉じ込められているのです。(第1部「マクルーハン思想の骨格」より)
コミュニケーションメディアの変遷が歴史の動因となる、というのがマクルーハンの歴史観である。この“メディア史観”による時代区分を図式化すると[話し言葉(口誦)時代]→[写本時代]→[活版印刷時代]→[テレビ・コンピュータ時代]となり、本書によるとマルクス史観の[原始共産制]→[古代奴隷制] →[中世封建制]→[近代資本主義]という社会区分に重なる点が興味深い。
さてマクルーハンが亡くなった1980年当時、テレビはまだ家庭内娯楽の王者で、パソコンは8ビット機全盛、インターネットやケータイは存在すらなかった。あれから四半世紀、有名無名を問わず誰もが個人単位でブログやSNS、メール等のメディアを気軽に操る今日の状況を見たとして、彼は「メディア論」にどんなエピローグを書き加えるだろう。
光速のメディアでコミュニケートしている人間が感じるのは、普段の自然体で生きている自分ではなくて、そうした普段の自分というアイデンティティを喪失しているのではないかというのです。こうしてマクルーハンは、自然からの脱却とアイデンティティの喪失は現実感やリアリティの欠如につながると考えるのです。(第3部「ポスト・マクルーハン」より)
[2006年4月24日] この日の感想・書評へ→

新聞ジャーナリズム
ピート・ハミル著/武田徹訳
このエッセイは客観的なものではない。冷静に中立の立場を取るものでもない。描かれている主題はあまりに深く私の人生と絡み合っているので、書き始めると筆が熱を帯びてしまう。突き放したように書くことができないのだ。分かりやすい表現を使うなら、私は、新聞と新聞作りに関わる男たち、女たちを愛してしまった。(「はじめに」より)
高倉健主演の「幸せの黄色いハンカチ」の原作となった短編や、ハードボイルド小説、あるいは社会派コラムの書き手として知られるピート・ハミル。元々は約40年のキャリアを持つ新聞畑のジャーナリストであるが、そんな彼が「理想の新聞」を語ったのが本書だ。原題は「News is a Verb」(ニュースは動詞だ)。今まさに社会で起こっていること=「動詞」の中身を明らかにするのがジャーナリズムの使命だ、という彼の信条が表現されており、有名人の名前=名詞を散りばめた昨今の安易な紙面作りに警鐘を鳴らしている。
要するに「くだらない芸能ネタを追い回すのはやめて、ジャーナリストとしての良識に基づき、きちんと練り上げた情報を伝えようぜ!」という硬派なメッセージがぎっしり詰まった書。
すべての新聞に明るい未来はある、私はそう信じたい。もしも新聞が姿を消したら、国家もまた存亡の危機を迎える。新聞がなくなることの損失は大きく、その傷は深くまで及ぶ。その結果、繁栄していた国家が地獄に堕ちるだろう。(第6章「祖国を愛し、正義をも愛することができれば」より)
[2006年2月 3日] この日の感想・書評へ→

メディアの予言者−マクルーハン再発見
服部桂
マクルーハンによれば、メディアはわれわれ自身を拡張するのと同時に、それが作り出す環境の中にわれわれを包み込んで麻痺させてしまうという。・・・(中略)・・・あるメディアによって自分の意識や身体性を拡張した人間も、ナルシサスと同じようにその拡張に魅入られて麻痺してしまう。(第一章「メディアのパラドックス」より)
マクルーハンは「メディアはメッセージである」という警句を通じて、メディアが伝えるコンテンツではなくメディア自体の本質こそがメッセージの形成を左右すると主張した。インターネットが一般化した今日、この警句がスーッと腹に落ちてくる感覚を持つ人は多いだろう。
これまでの主要メディアは、TV・ラジオにしても新聞・書籍にしても、基本的には庶民にとって“受動的に情報を受容するもの”であり、これらを主体的に利用して情報を発信できる者はごく一部だった。しかしケータイを含めたネットの普及により、全ての人はバーチャルなデータベースの中から情報を能動的・選択的に入手しつつ、自身も情報の発信側に回れるようになった。情報の受発信を日常化・多元化した点で従来のメディアとは本質的な差異があり、今後ネットというメディアの性質がメッセージ自体に及ぼす影響を、これまで以上に広い視野で、注意深く観察していく必要があるだろう。
インターネット上のコンテンツは、結局はメディアによって拡張された人間の感覚で、それを可能にしているのは個人の存在だ。人間の脳を外在化したコンピュータと、神経を拡張したネットワークを結び付けたインターネットは、こうした個人の存在を直接的に表現するメディアにもなっている。(第三章「グローバル・ビレッジの未来」より)
[2006年1月 6日] この日の感想・書評へ→

メディア文化論
吉見俊哉
当時の多くの日本人の意識にとって、テレビが「買う」ものではなく、むしろ「やって来る」ものであったという点です。1982年に日本民間放送連盟が「私とテレビジョン」思い出の出会いについて一般視聴者から454題に及ぶ投書を集めていますが、その主なものには、テレビがそれぞれの家庭に「いかにやって来たが」が生き生きと記されています。(第11話「テレビが家にやって来た」より)
物心ついた子供の頃から学生時代までは、テレビと深夜ラジオが自分のコミュニティにおける共通の情報源であり、ヒット曲や世間の話題を知るきっかけであった。マスメディアという“大通り”を歩きながら世の中の動きを知り、会話を成立させながら、自分の立ち位置を確認していた。
しかしインターネットとケータイが登場してからは、人間と社会との付き合い方、人間同士のつながり方の意識も確実に変貌を遂げたようだ。何かが知りたければ(多少怪しいモノも含め)いつでも情報が得られるし、どこにいても誰かと“つながっている”のだから、あえて“大通り”を歩かなくてもさして不都合はない。そして何よりも大きな違いは、誰もが発信者となって自己を拡張し、世の中へ向けて自己を表現できるメディアを手に入れたこと。即ちそれは、誰もがその気になれば新たな付加価値を生み出す創造者にもなれるし、社会に毒をまき散らす破壊者にもなれるということである。
マクルーハンはかつて「テレビが先に登場していたら、そもそもヒットラーなど存在しなかったろう」(メディア論 1964)と言ったが、ネットやケータイの進化によっては、もっと始末の悪い“怪物”が世の中を徘徊することになりそうだ。
[2005年12月20日] この日の感想・書評へ→

メディアコントロール-正義なき民主主義と国際社会
ノーム・チョムスキー著/鈴木主税訳
「そして民主主義社会のもう一つの概念は、一般の人びとを彼ら自身の問題に決してかかわらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間のあいだだけで厳重に管理しておかなければならないとするものだ。 そんな民主主義社会があるかと思われるかもしれないが、実のところ、優勢なのはこちらのほうだと理解しておくべきだろう。」(「メディアの役割」より)
米国の外交政策や政治行動を率直かつ激烈に批判することで知られるチョムスキー。あの9・11以降からは特にその発言が注目され、この人のインタビューや講演会を中心に構成したドキュメンタリー映画まで出来た程。76歳にして舌鋒衰えずといった感じだ。
本書では、冒頭に提示された二つの「民主主義社会」の概念が興味を惹く。一つは人々が自分達の問題を自分達で考え、その決定に一応の影響を及ぼせる手段を持ち、情報へのアクセスが開かれた教科書通りの民主主義社会、そしてもう一つが上に引用した統制的な民主主義社会だ。一昔前の共産主義国家の様なイメージだが、実際今回のイラク戦争にしても、少し前の湾岸戦争にしても、常に情報は一般大衆から遠ざけられ、世論はメディアを通じて巧妙にコントロールされた印象がなくはない。自由に人々がものを言っていながら、実は巧みに気分や空気が一つの方向に流れる様誘導されている世の中って、何とも薄気味悪い気がする。
「人びとをコントロールする最良の方法は恐怖を利用することです。だから、もしも我々を滅ぼそうとしている『悪の枢軸』が存在するならば、人びとは恐怖に怯えて四の五のいわず、指導者のいうがままになり、指導者が人びとにしていることにいちいち神経を尖らせることはあるまい、とこのように考えているのです。」(「インタビュー 根源的な反戦・平和を語る」より)
[2004年7月 4日] この日の感想・書評へ→

マクルーハン理論 電子メディアの可能性
M.マクルーハン+E.カーペンター編著
/大前正臣・後藤和彦訳
「およそ新しい環境が古い環境のまわりに登場すると、古い環境は芸術形式となる。馬車のランプ、馬車の車輪、T型フォード、なんでもそうである。・・・(中略)・・・いつでも新しい環境が現われると、それは堕落であり、極悪非道のものであると非難され、それまで堕落であり極悪非道とされてきていた古い環境の方が芸術になるのである。」(「テレビとは何か」より)
インターネットの急速な普及によって、メディア同士の力関係や役割、あるいは人々のメディア観が劇的に変容しつつある中、M.マクルーハンが残した「メディアはメッセージである」という言葉に、これまで以上の重みとリアリティを感じ始めている人は少なくないだろう。
何しろこれまで受け身一辺倒だった全ての一般ピープルが、自由に情報を発信し自らを表現できる汎用的なメディアを手に入れたのだ。これからはネット上で様々に発信されるメッセージが世の中に影響を与えるだけでなく、まさにインターネットそれ自体が、人々の意識や知覚を拡張させ、価値観を変容させていくに違いない。
「いまやわれわれは、新しいメディアは幻の世界をつくり出すただのトリックなのではなく、新しい、独自の表現力をもった新しい言語であることに気づきはじめている。」(「壁のない教室」より)
[2004年5月 3日] この日の感想・書評へ→


テレビは余命7年
指南役
一昔前、「S社のテレビは7年で故障する」などと巷で囁かれたので、タイトルを見て、様々な物品や流行の栄枯盛衰をテーマにした本だと勝手に予想していたが、実際はテレビ界の危機的現状に一石を投じる真っ当な警告の書である。余程丁寧に調べ上げたか内部事情に詳しいのだろう、随所にテレビに関する知られざる事実や興味深い内輪話がてんこ盛りだ。「ローカル局はキー局から番組の供給を受けた上で巨額の電波料も受け取っている」「1社提供のスポンサー企業が払う1億円のうち制作会社の取り分は860万円」「日本初の街頭テレビの実験は戦前の1940年だった」「携帯電話会社が国に納める電波利用料はテレビ局の 10倍強である」「テレビ局の収益の8割が広告収入」「日本では倒産したテレビ局は一つもない」「BS放送の広告収入は地上波の100分の1」etc.。さらにはNHKの“違法すれすれの”収益構造の実態や、米国のテレビ番組事情にまで話題が及び、最後まで飽きさせることがない。知ったところで日常役に立たない雑学のようなものだが、テレビ好きやメディアに関心のある人には大いにお勧めである。
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[2012年2月 1日] この日の感想・書評へ→