ミステリー/ハードボイルド
春嵐
ロバート・B・パーカー著/加賀山卓朗訳
「あんたは闘い方を知っている」彼が言った。
「そうだ」
「教えてほしい」
「酒をコントロールできないかぎり、時間の無駄だ」
「飲まずにもいられる」
「そうする理由がないだけで」私が言った。
「そうだ」彼が言った。(「12」より)
いよいよスペンサーシリーズともお別れ、正真正銘の最終作である。相棒ホークが前作(盗まれた貴婦人)に続いて登場しないままシリーズが終わったのはいかにも残念だが、当の著者自身が自らの急な死を予感してなかっただけに、今さら言っても詮無い事だ。
さて、なぜか「春嵐」と訳されているものの、原題は「sixkill」。その題名通りの名を持つ若者ゼブロン・シックスキル(通称Z)が、準主役として初登場する。このZが実に魅力的なキャラクターで、スペンサーは彼をさんざん打ちのめした後にその再生を引き受け、一人前の男となるべく心身共に鍛え上げてゆく。そしてクライマックスでは二人で死地へと乗り込み、命懸けの瞬間を共有するに至る。古くからのファンにとっては、シリーズでも人気の高い第7作「初秋」を思い起こさせる構成であり、恐らく著者も新たなキーマンとして、今後も引き続きZを登場させる心積もりでいたのだろう。
この先、Zとホークが初めて出会う場面を想像するだけでもワクワクさせられるが、残念ながら永遠にそのシーンを読むことはできない。
「Zは、あくまで限定的な私の視点から見て、日々あなたに似てきている」スーザンが言った。「私には、最初からかなりあなたに似ていたのではないかと思えるわ」
「大きくハンサムで、並はずれた体を持っている点で?」
「もちろん」スーザンが言った。「だから、そもそもあなたのところに来たのかもしれない」
「自分に似てたから?」
「どこか無意識のレベルで、自分に近いと感じたのかもしれない」(「48」より)
[2011年9月15日] この日の感想・書評へ→
チャイルド44
トム・ロブ・スミス著/田口俊樹訳
「薪を集めていただけだよ…」
と言いかけた彼のことばはそのままとぎれた。男は太い枝をかざして木々のあいだから突進してきた。男のすさまじい形相と狂った眼を見て、ようやくパーヴェルも悟った。男のめあては猫ではなかった。パーヴェル自身だった。
パーヴェルがまた口を開きかけたのと、太い枝が振り下ろされたのがほぼ同時だった。(「上巻」より)
デビュー作でいきなり2008年度のCWA賞(イギリス推理作家協会賞)を受賞、リドリー・スコット監督による映画化も決定し、日本でも「このミステリーがすごい!」2009年版の海外部門第1位。これで期待せずに読めという方が無理というものだが、何とまあ期待に違わぬ面白さであった。
舞台はスターリン政権下のソ連。主人公の国家保安省捜査官レオは、国内外の共産党の敵を摘発することを職務としている。あるスパイ容疑者の拘束に成功した際、彼を恨む副官の策略にはまり片田舎の民警へと左遷されるが、そこで遭遇した殺人事件は、かつて命令のままに事故として処理した殺人事件に酷似していた…。
こうして物語は44人の子供が被害者となった猟奇的な連続殺人事件へと結びついてゆくが、本書の読みどころはミステリーとしての謎解きよりも、主人公の再生にある。妄信的に国家に従い無実の人々を罪に問うてきた主人公が、職務を解かれ叛逆者として追われる過程の中で、家族とは何か、夫婦とは何か、良心とは何かという命題に直面し、人間性を取り戻していく。冒頭から陰鬱なトーンの描写が続き少々挫けそうになるが、中盤からは徐々に頁を捲るのがもどかしくなる程のスリリングな展開となる。作風の好き嫌いは別として、完成度の高さは相当なもの。デビュー作でここまでハードルを上げてしまって、この先大丈夫かなと余計な心配までしてしまった。
正義を求めたのに、彼がしたのはただ恐怖を世に放っただけのことだった。真犯人を突き止めようとしたのに、ただ百五十人の男たちの命を奪うことになってしまっただけだった。もちろん実際に処刑はされないだろう。それでも、彼らはさまざまなレヴェルで、さまざまなものをなくすことになる。家族を。家を。レオは肩を落とし、見るからに打ちひしがれた顔をしていた。夫のそんなさまを見て、ライーサは理解した。彼は何かを信じないでは何もできない人間であることを。(「下巻」より)
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リトル・シスター
レイモンド・チャンドラー著/村上春樹訳
私は自分のキャメルを一本取りだし、火をつけ、椅子をひとつ引いて腰を下ろした。手を前に出してそれを眺めた。親指が数秒ごとにぴくぴくと上下に震えていた。
スピンクの怒りに満ちた声が割り込んできた。「あのな、シェリーは暇人じゃないんだ」
「どんなことをして、彼は一日を過ごすのだろう?」と自分が尋ねている声が聞こえた。(「18」より)
著者のチャンドラーは語った。「これは自分が書いた本の中で唯一、積極的に嫌いなものだ」。それでも訳者の村上春樹は言う。「僕にとっては昔から一貫して『愛おしい』作品である」。
「ロング・グッドバイ」「さよなら、愛しい人」に続くチャンドラーの長編新訳第3弾。、半世紀近く昔、「かわいい女」のタイトルで清水俊二によって訳され、読み継がれてきた。二十代の頃に私も二度ばかり読んだが、ストーリーは全く頭に残っていない。そもそも本作を贔屓する村上春樹自身でさえ、「プロットに無理があり、誰が誰を殺したのかが極めて解りづらい作品」と訳者あとがきに書いた程だ。記憶に残らなくて当然かも知れない。ただマーロウの饒舌さと、キザな科白回しが他の作品以上に際立つ本書には、ストーリーの良否を超える引力があったように思う。(この本に影響され、煙草をキャメルに変えたのは私だけだろうか…?)
余談ながら、映画版「かわいい女」には若きブルース・リーが、マーロウを脅しつけて事務所で一暴れするチンピラ役で登場。ほんの数分だが華麗なアクションを披露している。但し跳び蹴りをかわされ、その勢いで窓から墜落するというおバカな結末だが…。
私は一匹のワニの鱗に向かって話しかけていた。そのワニの名前はマーロウという。我らの繁栄するささやかなるコミュニティーで私立探偵業を営んでいる。世界で一番頭が切れるというわけではないが、格安だ。最初は格安料金で始め、おしまいにはもっと格安になる。
私は屈み込んで、オールド・フォレスターの瓶を取り、デスクに置いた。(「33」より)
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ラットマン
道尾秀介
全員が、両目を見ひらいて凝然と姫川の顔を見ていた。姫川は四人の視線を順繰りに受け止めてから、ふたたび地面に顔を戻す。姫川のスウェードのショートブーツから、三角の顔だけをはみ出させて、カマキリは潰れていた。姫川はそっと足を上げる。ぺしゃんこになった緑色のカマキリ。そのそばで、ハリガネムシがまだ微かに身体の一端を揺らしていた。姫川はそこへ向かって、もう一度足を踏み下ろした。あああ、と四人の口から、今度は先ほどよりも小さく声が洩れた。(第一章「5」より)
立て続けの道尾作品。「このミステリーがすごい!2009」の第10位。今回は期待通りのどんでん返し系ミステリーであると同時に、心に闇を抱える主人公・姫川と亡き父親との相克を描いた人間ドラマでもある。
題名の「ラットマン」とは認知心理学のツールで、与えられた情報・先入観によって鼠にも人間にも見えるという、騙し絵の様なイラストのこと。そのタイトル通り、物語の前半から中盤にかけては、ありがちな展開に沿っていかにも犯人が明示されている様に見えるが、徐々に複数の人生が錯綜し始め、やがて最後の最後にそれまでのストーリーや心象風景が、全く異なる様相で読者の前に立ち上ってくる。どんでん返しの鮮やかさに加えて、きちんと人間の生き様と心情が描かれている所が、この作者の大きな魅力である。
人生は芸術作品の模倣である。
(中略)—ヒッチコックと仲良しだった、アメリカのある作家がね、そんなことを書いていたんだ— ストラト・ガイの待合いスペースで、野際は姫川にコーヒーを付き合いながら、独り言のように話していた。
—たしかにそうかもしれないよなあ。いつかどこかで観た映画とか、絵とか、耳にした音楽に憧れて、みんな真似をしながら生きてるのかもしれない。意識的にせよ、無意識にせよ—(第四章「1」より)
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ロードサイド・クロス
ジェフリー・ディーヴァー著/滝田真紀子訳
タミーの喉がごくりと鳴った。ストレス反応の否定の段階にあるのは明らかだった。身を低くし、周囲に防護壁を高く高く張り巡らせているようなものだ。
「あたしの知らない人でした。神様に誓ってもいい」
嘘を示唆する明確な旗の一つ−“誓ってもいい”。神を持ち出すのもそうだ。“いまあたしは嘘をついてます! ほんとのことを話したいのは山々だけど、怖くて話せません!”と叫んでいるも同然だった。(火曜日「5」より)
「スリーピング・ドール」に続く、“歩く嘘発見器”キャサリン・ダンスシリーズの第2弾。今回のテーマは、「ネット上の悪意に対する現実空間での復讐」である。物語は少女の殺人未遂事件で始まり、近くのハイウェイのロードサイド(路肩)には前日、まるで事件を予告するかのように十字架が置かれていた。程なく別の少女が襲われ瀕死の重傷を負うが、二人の共通点は、交通事故を起こしたある一人の少年に対し、ブログ上で悪意のあるコメントを書き込んでいた事にあった。やがてその少年は失踪、街では第三、第四の連続殺傷事件が…。
毎度のことだが、物語は一筋縄ではいかず、二転三転した末に思わぬ結末を迎える。また主人公の母親が、安楽死事件の重要容疑者として告発されるというサイドストーリーも展開。さらには彼女を取り巻く恋愛模様も同時進行するというおまけ付きで、ページを捲る手ももどかしい程だ。結局ラスト200頁は途中でやめることができず、読み終えた時には朝の6時半だった…。
“お願いやめて”ダンスの両手は震えていた。胸が苦しい。まるで電子データの集まりではなく、本物の人間同士のやりとりのようだった。ダンスは仮想世界に完全に入り込んでいた。
トラヴィスはストライカーを一歩前に進ませると、グリーンリーフの腹に剣を突き立てた。血が噴き出した。画面の左隅の体力ゲージは消え、代わりにメッセージが現われた−−“あなたは死にました”。(水曜日「24」より)
[2011年5月 2日] この日の感想・書評へ→
監禁
ジェフリー・ディーヴァー著/大倉貴子訳
実際、彼はこの数年間、セラピストとして生計を立ててきた。ひとにきかれたら、ハーヴァード大とコロンビア大で学位をとり、ニューヨーク病院のコーネル・メディカルセンターとベルヴュー病院に勤務した経験があると、なに食わぬ顔で言ってのける。彼の頭脳は明晰で、こういった話をわけもなくでっちあげ、だれになにを話したか、すべて記憶することができた。嘘をつかせたらアーロン・マシューズにかなう者はいないというのが、彼の信念だった。(「水曜日 初子6」より)
「ボーン・コレクター」で大ブレイクする2年前、「静寂の叫び」と同じ1995年に発表されたサスペンス長編。リンカーン・ライムシリーズには毎回、精神を病んだ恐るべき超頭脳犯が敵役で登場するが、本作のアーロン-相手の心理を見抜き巧みに操る狡猾な異常者-は、まさに後のディーヴァーワールドの原型とも言えるだろう。対する主人公の拠り所が鍛え抜かれた弁論術というのも、類い希な観察力と厖大な知識を武器に犯人を追い詰めるリンカーン・ライムに繋がる様で興味深い。
そして作品の面白さ以外に、俳優・児玉清の7ページにわたる巻末の解説が印象的。芸能界きっての読書家とは知っていたが、ディーヴァーの旧作紹介に始まり、本編の粗筋、主要作品と比較した本作の位置づけ、作者への個人的な思い入れ、そして再び本作のまとめへと展開していく解説文は、よくあるおざなりな“お追従解説”とは違って、プロの読み手としての知性と表現力、そして読書への熱情を感じた。
大学時代-反戦、反優等生、反学生軍事訓練部を唱えるのがはやっていたころ-、テイトはベルボトムと絞り染めには見向きもせず、スーツと細いネクタイと白いシャツを身につけた。現代の技術と論法と理論を磨きあげたのは、大学生のときだ。もし…ならば…となる。大前提、小前提、結論。身代わり戦法に勝ち、循環論法に勝ち、人身攻撃作戦にも勝った。ヴァージニア大学やジョージ・ワシントン大学、デューク大学、ノースカロライナ大学、ペンシルヴァニア大学、ジョーンズ・ホプキンス大学の生徒と弁論を競い、全勝した。(「水曜日 初子6」より)
[2011年4月 4日] この日の感想・書評へ→
暁に立つ
ロバート・B・パーカー著/山本博一訳
「ノッコ・モイニハンが射殺された夜、みんなは俺を見つけられなかった。家で酔っぱらって正体不明になっていたんだ」
サニーがうなずいた。
「何が原因かわかっているの?」
「俺はただの酔っぱらいなのかもしれない」
「あなたが何であれ、ジェッシィ」サニーが言った。「ただの酔っ払いなんてことはないわ」 ジェッシィが肩をすくめた。(「21」より)
ジェッシィ・ストーンシリーズの第9作。著者の死により図らずも最終作となってしまった。既に一年以上前から判っていたことではあるが、この先二度と新作が読めないのかと思うと残念で仕方がない。女性探偵サニー・ランドルとの恋の行方が、どうやらハッピーエンドに迄たどり着いたことがせめてもの救い。彼女が主役を張っていたもう一方のシリーズも、必然的にこれで同時終幕ということになる。パーカーと言えば三十年以上も続いたスペンサーシリーズが紛れもなく代表作だが、一匹狼の陽気なタフガイであるスペンサーに対し、ジェッシィは前妻の浮気に傷付いた揚げ句、酒に溺れて失職した経験の持ち主。そのくせ他の女性と活発に関係を持ちながらも、別れた妻をうじうじと思い続けている。訳者もあとがきで書いているが、主人公が毎回カウンセラーのお世話になるハードボイルドなど、他にはないだろう。シリーズもの以外でも、パーカーはマッチョな主人公を書きたがる傾向が強いが、案外このジェッシィこそがパーカー本人の実像に最も近いのかなと、勝手な想像をしたりする。
「たぶん、俺たち愛し合っているんだ」
「たぶんね」
「たぶん、愛し合っているという前提で先に進むべきだな」
「私もそう思うわ」
ジェッシィが片手を挙げた。サニーが彼にハイファイブした。
「次のステップは?」ジェッシィが言った。
「中華料理を注文すべきだと思うわ」サニーが言った。
「何て縁起のいいスタートだ」ジェッシィが言った。(「67」より)
[2011年3月12日] この日の感想・書評へ→
盗まれた貴婦人
ロバート・B・パーカー著/加賀山卓朗訳
「きみはおれの出自を知っている」私が言った。「おれが何をしてるかも、おれがいましてることを続けたければ、トラブルに際して警察を呼ぶ男であってはならない」
「ビジネスのためにならない?」スーザンが言った。
「ビジネスのためにならないというのはきわめて筋の通った答えだが、そういうわけではない」
「あなたのためにならない」スーザンが言った。
「ビンゴだ」(「25」より)
著者のロバート・B・パーカーが亡くなってから初めて訳された、スペンサーシリーズの第38作。これで終了かと思いきや、未訳の39作目がまだ残されていると知って少し安堵した。思えば二十代の頃からずっと読み続けており、これ程長きにわたって一冊も欠かさず付き合ったシリーズ物はこれしかない。次作の翻訳が待ち遠しいような、そうでないような…。
さて本作は、ホークをはじめとするおなじみの助っ人たちが一人も登場しない。スーザンとの饒舌な会話は相変わらずだが、ホロコーストや十七世紀の名画などを絡めつつ、いつもより深みを帯びたストーリーの進行自体は、シリーズの原点に戻ったかのようにハードボイルドなタッチとなっている。
カートはしばらく私の品定めをした。体格はほぼ同じだが、怯んでいる様子はなかった。こちらに銃を抜かせたいのだろう。そうすれば私を撃って、正当防衛を主張できる。どうでもいいことだ。銃を抜くつもりはない。私の苛立ちは飽和点に達しつつあった。誰かを殴る必要があり、カートは恰好の相手になりそうだった。
カートがすり足で近づいてきた。左足をまえに出し、両手を顔の横にゆったりと構えている。やるべきことは多少わかっているようだ。一方、私にもわかっているし、経験はこちらのほうが長い。(「50」より)
[2011年1月25日] この日の感想・書評へ→

殺人の門
東野圭吾
青酸カリを手に入れたことで、私の中で眠っていた殺人への思いが蘇った。いつか使ってみたい、あれを飲んだ人間はどうなるのだろう、どのようにして死んでいくのだろう、小説でよくあるように血を吐いてしぬのか、アーモンド臭とはどういうものだろう。
拳銃を手にした人間と同様、自分が強くなったような錯覚に陥った。嫌なやつがいればこれを飲ませて殺してしまえばいい−。(「14」より)
人はどんなきっかけ又は心理状態に置かれた時に「殺人者となる門」をくぐるのか、というテーマを描こうとした(?)物語。
書名が醸し出す暗さ、二段組で四百頁を超える厚み、そして重苦しい文章のトーンから、あの「白夜行」を彷彿させる緻密で重厚な世界観を期待したが、お人好しで世間知らずのお坊ちゃんが、常に自分に災いをもたらす狡猾な友人に何度も騙され、その都度殺意を抱きながらも、結局は「捨て石」として利用され続けるパターンの繰り返し。長編を最後まで読ませる筆力はさすがという他ないが、結末も含め「殺人の門」という書名にはやや名前負けしたかな…という印象。感情移入できない登場人物ばかりというのも、読んでいて少々辛い。
無論小説としては十分楽しめたので、つい辛口になるのは、東野作品に対する此方の期待値が高すぎるせいだろう。
刑事は続けた。「何らかの引き金によって行動する者もいる。あなたの場合、何らかの引き金が必要なのかもしれませんね。それがないかぎり、殺人者となる門をくぐることはできないというわけです。いや、もちろん、そのほうがいいのですがね。そんな門は永久にくぐらないほうがいい」
「殺人者への門、ですか」(「38」より)
[2011年1月21日] この日の感想・書評へ→
ダイイング・アイ
東野圭吾
美菜絵の目は、真っ直ぐ前に向けられていた。彼女の身体を押し潰した車を運転している人間の顔に、だった。
許さない、恨み抜いてやる、たとえ肉体が滅びても…。
憎しみの最後の炎を燃やし、美菜絵は相手を睨み続けた。
ああ、だけど死にたくない。玲二さん、あたしを助けて。
死にたくない。
死にたく-。(「プロローグ」より)
大阪から東京へ向かう新幹線の中で読了。サスペンスホラーのようなミステリーのような、いや結局どっちつかずのような…。でもそれでいて一気に最後まで読ませるツボを押さえたテクニックは、やはりさすがと言うべきか。
交通事故・怨念・復讐・記憶喪失・謎の女・官能の一夜・監禁・死者と瓜二つのマネキン…というように、ややリアリティの薄いストーリーが、小さなどんでん返しの積み重ねによってスピーディーに展開されていく。全ての登場人物に今一つ人間的魅力が感じられないせいか、蠱惑的なタイトルの割に東野作品ならではの重厚感は乏しいが、この前読んだ「白銀ジャック」よりは面白かったかな。
慎介はブランデーとホワイトラム、それからキュラソー、レモンジュースをシェイクし、カクテルグラスに注いだ。飲む前に一度グラスを目の高さに持ち上げ、その琥珀色の輝きを味わってみる。
その時、視界の端に何かが入った。
心臓が大きく跳ねた。激しい鼓動を感じながら、彼はゆっくりと上体を回転させていった。
一番奥の席に、あの女が座っていた。(「16」より)
[2011年1月17日] この日の感想・書評へ→
カラスの親指
道尾秀介
炊飯器のスイッチを入れたとき、ポケットの携帯電話が電子音を鳴らした。画面に〈新着メールあり〉という表示が出ている。初メールだ。武沢はまひろに教わったばかりのやり方を思い出し、メールをひらいてみた。そして画面に表示された、そのほんの短い文章を読んだとき、思わず頬を弛めて小さく笑い声を洩らしてしまった。
〈ほんとは感謝してます。助けてくれて嬉しかったです〉(「CUCKOO」より)
先頃読んだ「鬼の跫音」がかなり良かったので、著者の代表作として名高い本書を手に取ってみた(第62回日本推理作家協会賞/2009「このミステリーがすごい」第9位etc.)。感想を一言で表すなら、「してやられた…」といったところ。山あり谷ありのストーリー自体が持つ引力にもぐいぐいと引き込まれたが、物語そのものを根底から覆す予想だにしなかった結末は、まさにお見事の一言。登場する小悪党達の人物設定も魅力的だし、浅田次郎風の泣かせる人情咄の要素も含まれていて、読んでいる間だけでなく読後の爽やかな余韻まで楽しめてしまう。
詐欺師を主役に据えたストーリーで最終的には読み手までもペテンにかけた、書き手の鮮やかなお手並みには素直に脱帽するしかない。
「楽しかったよ、なかなか」
自分の拳をしげしげと見下ろしながら、男が低い声を洩らした。「し」の音だけが、やけに耳についた。
「大仕事、お疲れさん」
それは別の声だった。男の後ろにもう一人いたのだ。烏賊のような目をした小柄な人物。
セイリヤは傍らの男の顔を見上げて訊ねた。
「ヒグチさん、とりあえずこいつらどうします?」(「ALBATROSS」より)
[2011年1月13日] この日の感想・書評へ→
白銀ジャック
東野圭吾
「誰も誘拐なんかはされてない。ただし、人質はいる」
瀬利千晶は眉間に皺を寄せた。「意味わかんないんだけど、誰が人質なの?」
それは、といって根津は彼女を指さした。「君たちだ」
えっ、と彼女は目を見張った。
「同時に、俺たちでもある」根津は親指を自分の胸に押しつけた。「このスキー場にいるすべての人々が人質なんだ。ゲレンデ全体が乗っ取られたんだよ」(「33」より)
出せばヒットの東野圭吾が、ハードカバーを経ずいきなり文庫で発売したという話題性もあって、10月5日の発売からわずか1ヶ月余りで百万部を突破。今もなお売れに売れている旬の本、ということでかなり期待して読み進めたが、残念ながら「二時間サスペンスの脚本としては上々…」という作品。これが他の作家なら十分なレベルだろうが、少なくとも今まで期待を裏切られた事がない東野作品なので、バカ売れしている現実とのギャップに戸惑うばかり。
謎の脅迫犯によってスキー場に爆弾が仕掛けられ…という発端は期待感を煽るし、ゲレンデ上の情景描写も映像的でスピード感はあるが、小説としてのディテールが意外な程粗っぽく、ミステリーとしても人間ドラマとしてもやや中途半端な印象である。同じように脅迫を筋立ての軸にした東野作品では、物語に骨太な社会性が感じられた「天空の蜂」の方が、エンターテインメントとしても数段上だろう。
「この斜面、かなり手強そうだけどね」そういうなり、千晶はスタートした。不規則に繋がっているコブの間を縫うように滑っていく。上半身は全く動かず、下半身だけがバネのように伸び縮みしている。スノーボードクロス選手の面目躍如といったところか。
根津も滑りだした。こちらは起伏など無視し、ひたすら直線的に攻めていく。大きな段差があったりすれば、ジャンプして越えてしまう。(「40」より)
[2010年12月10日] この日の感想・書評へ→
夜明けの街で
東野圭吾
不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた。快楽だけを求めて、せっかく手に入れた幸せな家庭を壊すなんて、大馬鹿野郎だ−。
その考えには今も変わりはない。僕は僕自身のことを馬鹿だと思う。
でも、一つだけ間違っていたことがある。不倫は快楽だけを求めているのではない、ということだ。元々はそうだったかもしれないが、ひとたび始まってしまえば、そんな生ぬるいことはいっていられない。(「6」より)
東野圭吾流、ミステリーの味付けを施した不倫小説。謎解きの展開でも興味を惹くが、何より不倫への予感を前に、期待と罪悪感に揺れる中年男の心理描写がやけにリアルだ。二人が一線を越える迄のプロセスも、「確かにこの流れだったら、こーなっちゃっても仕方ないな〜」という、男性心理を突いた状況設定がなされている。巧い。ついつい感情移入をしてしまった…。
そして本文中に主人公がサザンの「Love Affair」を歌うシーンが出てくるが、そういえば最初の歌詞の「夜明けの街で」はそのまま本のタイトルだし、「大黒埠頭で虹を見て」「ボウリング場でカッコつけて」と、歌詞通りのシーンが随所に登場する。この歌が題材だったのかと気づいた途端、読み終えるまで桑田佳祐の歌声が頭から離れなくなってしまった。
秋葉の髪の匂いを感じながら僕は目を閉じる。夢のような時間を振り返りながらも頭の隅で考えていることがある。明日は、大阪の葬儀会場で僕は受付をすることになっている。そのために有給休暇をとったのだ。受付が終わったら家に帰る−僕の家にだ。
僕の家族が待つ家だ。秋葉ではない女性と、彼女が産んだ僕の子供がいる。僕の本来の居場所だ。何も知らない彼女たちは、クリスマスイブをどんなふうに過ごしただろうか。(「12」より)
[2010年12月 6日] この日の感想・書評へ→
鬼の跫音
道尾秀介
「ご同行いただいてもよろしいですか?」
私は背後を振り返った。ひらいた窓の内側に、杏子と春也が並んで立っていた。二人とも、不思議そうな、少し不安そうな顔でこちらを見ている。
そのとき足下の虫籠で、先ほどの鈴虫が呟いた。
小さな、ほんの小さな声だった。
「わかってる……」
私は鈴虫に呟き返した。(「鈴虫」より)
物語に没頭しすぎて、つい電車を乗り過ごしそうになることがある。本書のせいで、続けざまに二度もそれを経験させられた。一度目は危うく駆け降りたが、二度目は見事に一駅乗り過ごした。気をつけていても頁を捲らざるを得ない。それ程の引力を本書は持っている。
全編にSというイニシャルを持つ人物が登場するが、独立した六話の短編集。ただ全てに共通して、ミステリーと怪談の狭間を浮遊する独特の空気感、不安感が醸し出されている。そして作者が言葉を吟味し尽くした故か、一行一行に緊張感が漲る。特に「冬の鬼」は、一月八日から一日まで日記を遡っていくという凝った形式であるが、最後の一行を読み終えた途端、全ての読み手はきっと余韻に浸る間もなく最初の一行へと立ち戻り、見えてきた「鬼」の正体に戦慄させられたことだろう。
「あの子は、ぜんぶ背負っちまったのかもしんねえな」
疲れ切ったような声で、おじいさんが言う。
「背負った……何をです?」
僕は訊いたが、おじいさんは顔を上げなかった。しかしそれでも、微かな声だけは返してくれた。
「犬の罪をよ」
犬の罪。
犬。母は犬。(「ケモノ」より)
[2010年11月22日] この日の感想・書評へ→
秘められた伝言
ロバート・ゴダート著/加地美知子訳
だが、ぼくはそのときの様子をはっきり憶えている。細かなことまですべて。なぜならそれが、ぼくの人生が静かで平穏で安全だった最後のときだったから。パブのドアがまさに開かれようとしていた。そして、普段どおりの正常な人生が窓からするりと抜けだそうとしていた。(上巻「サマセット」より)
「千尋の闇」「闇に浮かぶ絵」の頃の様な、重厚で深みのある歴史ミステリーが読みたくてゴダードを手にするのだけれど、ここのところ、なかなか“当たり”に出会えない。本作はロンドン− ベルリン−東京−京都−サンフランシスコと舞台が広がり、ゴダードが日本をどの様に描いているのかという別の興味もあったが、結局今回も“ハズレ”のゴダードだった。
いろいろ気を持たせてこねくり回した割には…というプロットや、人物造型の底の浅さもさることながら、読み通すのが苦痛な程古臭い直訳調の翻訳が“残念”の一言に尽きる。せめて会話文だけでも自然な日本語だったら、多少は読後感も変わっただろう。
「あなたの見たとおり、嵐山には大勢の人が押し寄せているからだ。すぐれた選択だと思うな。目につきたくなかったら、人混みのなかにいるのが安全だ」
「そりゃあ、彼女たちは目につきたくないさ。だがそうなると、彼女たちはたぶん偽名で投宿しているだろうね」
「そうだな。しかし、彼女たちは逃走ゲームの達人ではない。正体を暴露してるよ」(下巻「関西」より)
[2010年10月21日] この日の感想・書評へ→
静寂の叫び
ジェフリー・ディーヴァー著/飛田野裕子訳
人質解放交渉にあたって、戦略上、交渉担当者は問題にたいする解決法を提示することを避けなければならない。それを考える仕事は犯人に押しつけるのだ。問題解決のための方法を考えさせ、常に相手に精神的負担を与えておくのだ。
うんざりしたようなため息。「いいかげんにしてくれよ」
電話を切るだろうか?(上巻「午後四時四十分」より)
代表作「ボーンコレクター」の2年前1995年に発表され、ジェフリー・ディーヴァーの名を初めて世に知らしめるきっかけとなったのが本作。人質解放交渉の知られざる実態やテクニックを、リアルかつ綿密に描いたサスペンスであり、読み始めたら止まらない著者ならではのジェット・コースター的作風が、既にいかんなく発揮された作品となっている。
脱獄犯と交渉するFBIのベテランネゴシエーター・ポターと、犯人を怖れつつも自分との共通点に戸惑う人質女性メラニーの心の動きを中心に、犯人を含めた個性的な周辺人物の描写も絶妙。人質がほぼ全員聴覚障害を持つ少女という設定も、物語に独特の色合いと深みを与えている。発端の描写が少々冗漫でなかなか入り込めなかったのと、ラストの結末にちょっと無理を感じたことを除けば、寝不足必至の佳作。
犯人投降のときこそが、人質事件においてもっとも油断ならない最大の山場だ。
現場に突入する場合を除いては、事件の推移のなかで他のどの段階よりも、人命が失われる危険性が高くなるのが、このときだ。しかも、今回の事件の場合、なおいっそう状況は予断を許さないということが、ポターにはよくわかっていた。なぜなら、ハンディが降伏するということは、すなわち自分の支配権を手放したということになる。となれば、当然彼の心には復讐心が芽生えているはずなのだ。(下巻「午後十一時十八分」より)
[2010年10月17日] この日の感想・書評へ→
夜も昼も
ロバート・B・パーカー著/山本博訳
「私は、こういうの二杯が限度」
「わかってる。俺もマティーニを二杯以上飲むと、ろれつが回らなくなってくる」
「私の場合は、服を脱ぎ始める」
ジェッシィが、バーテンダーのほうに顔を向けた。
「ミズ・ランドルのをダブルにしてくれ」
二人とも笑った。(「49」より)
ジェッシィ・ストーンシリーズの邦訳最新作。警察署長として職務にはストイックだが、精神的な弱さを抱え下半身もチョイワルのジェッシィは、饒舌な自信家でマッチョで一穴主義のスペンサーより人間味があって魅力的だが、残念ながら作者が今年の1月18日に77歳で亡くなったため、シリーズも未訳の1冊を残すのみ。いかにも寂しい限りだ。
さて今作は、ストーリー自体スワッピングやのぞき魔騒動を軸にしたスケールの小さなもので、ミステリー性にも乏しい。クライマックス以外に華のある活劇シーンも少なく、単独の作品としては正直しんどい感がある。強いて言うなら、かつてロマンスが芽生えかけた女性探偵サニー・ランドルが再登場し、今後の二人の進展に含みを持たせたところ辺りが読みどころか。会話もいつものキレと味わいに欠ける気がしたが(訳文のせい?)、次回の最終作に期待したい。
「もうだめ?」
「終わったんだ、ジェン。俺たちは終わりだ。もうこんなことはしない」
「ジェッシィ、私のことをそんなに憎んでいるの?」
「憎んでなんかいないよ。ジェン。ただ俺の人生から出ていってもらいたいんだ」(「74」より)
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新参者
東野圭吾
「加賀さん、事件の捜査をしていたんじゃなかったんですか」
「捜査もしていますよ、もちろん。でも、刑事の仕事はそれだけじゃない。事件によって心が傷つけられた人がいるのなら、その人だって被害者だ。そういう被害者を救う手立てを探しだすのも、刑事の役目です」
多美子は俯いた。箸を握りしめた手に涙が落ちた。
頭上で風鈴が、ちりんと鳴った。(第六章「翻訳家の友」より)
ついに加賀恭一郎シリーズ最新作「新参者」へとたどり着いた。今回の舞台は下町情緒が残る東京・人形町。“新参者”としてこの町に赴任した加賀が、ある殺人事件の捜査過程で様々な人や家族と出会い、それぞれが抱える小さな“事件”や“物語”と関わっていく中で、いつしか殺人事件の全容解決へと物語が収斂されるという構成。独立した短編の人情話が、加賀を媒介にして一つの長編ミステリーへと撚り合わさっていく様なイメージであり、その手練れの技は見事という他ない。
そして、江戸情緒と人の温もりを感じさせる下町を舞台としたことで、「捜査だけが刑事の仕事ではない」という加賀の信条と姿勢が、今まで以上に色濃く滲み出た作品となっている。
上杉は加賀の前に戻りながら、「もう一つ、質問していいかな」といった。
「加賀さん、あんた、一体何者なんだ?」
すると加賀は傍らに置いてあった扇子を広げ、顔を扇ぎながら答えた。
「何者でもありません。この町では、ただの新参者です」(第九章「日本橋の刑事」より)
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赤い指
東野圭吾
「しっかり加賀君のやり方をみておくんだぞ。おまえはこれから、すごい状況に立ち会うことになるからな」
言葉の真意を考えて松宮が黙っていると、がんばれよ、といって電話は切れた。
松宮は加賀に訊いた。「どういうことなんだ」
「いずれ君にもわかる。だけどこれだけはいっておこう。刑事というのは、真相を解明すればいいというものではない。いつ解明するか、どのようにして解明するか、ということも大切なんだ」(「24」より)
加賀恭一郎シリーズの長編第6作。「容疑者Xの献身」による直木賞受賞後第一作でもある。読者挑戦型の「どちらかが彼女を殺した」や「私が彼を殺した」とは趣の異なる重い社会派ミステリーで、老人介護や教育等の今日的な社会問題を背景に、「親子とは何か?」を読み手に問いかける内容となっている。そのため物語の世界に引き込まれつつも、「故郷の老いた父親がもし今倒れたら…」とか、「我が子がまともに育ってくれて良かった…」とか、我が身に置き換えながら2時間強で一気に読んでしまった。
その他本筋以外にも、死期の迫った父・隆正を加賀が見舞わない理由や、従兄弟・松宮脩平を一人前に育てようとする加賀と古参刑事達の心配り、最後の頁で明かされる父子の最後の絆など、主人公・加賀の人間性にも初めて踏み込んでいる。
加賀はその駒を手に取った。「桂馬か」
「おとうさんはたぶん、将棋の相手をしているのが本当は誰なのか、御存じだったと思います」
金森登紀子の言葉に加賀は黙って頷いた。
「次は伯父さんの番だったのか」松宮は訊いた。
「ああ。で、おそらくここに置きたかったんだろう」加賀は将棋盤の上に駒を置いた。それから父親のほうを振り返り、こういって笑った。「見事に詰みだ。親父の勝ちだよ。よかったな」(「31」より)
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嘘をもうひとつだけ
東野圭吾
間もなく一人の男が部屋から出てきて、真智子に近づいてきた。背が高く、鋭い目つきをした男だった。自分と同い年か、もう少し上かもしれないと彼女は思った。彼女は今年、三十四になっていた。
男は手帳を出して名乗った。練馬警察署の加賀という刑事だった。低いが、よく響く声をしていた。(「第二の希望」より)
加賀恭一郎シリーズ初の短編集。読み手に対する周到な言葉の罠を随所に散りばめた長編とは違い、まさにシリーズのエッセンスだけを凝縮した感のある作品ばかり。全作共に登場人物を絞り込み、ほとんどが犯人vs.加賀恭一郎との直接対決で構成されている。そして全てにおいて「たぶんこいつが犯人だな」と早々に目星がつくようになっているが、限られた頁数の中、毎回意外な結末に感嘆させられてしまう。
空き時間に一作ずつちょこちょこ読もうと目論んでいたが、一作毎の余韻に浸る間もなくすぐに次作が読みたくなり、結局夜更かしした末に一日で読み終えてしまった。
奈央子は彼の顔を見つめた。刑事は一瞬訝しげな表情をし、次に不思議そうな目になった。そしてやがて、驚きの顔に変わった。
「これは……」
「ええ」彼女は頷いた。「刑事さんの想像とは違っていたでしょう?」
「どういうことですか」
「計算違いだったんです。何もかも」そういいながら彼女は視線を落とした。(「狂った計算」より)
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私が彼を殺した
東野圭吾
身体の中から沸き上がってくるものがある。それをどう発散していいかわからず、あたしはただ拳を握りしめた。
あたしは蘇った。穂高誠によって、心を殺された雪笹香織が、今日生き返ったのだ。
あたしはやったのだ。あたしが彼を殺したのだ−。(「雪笹香織の章2」より)
立て続けの加賀恭一郎シリーズ。今回も第3作の「どちらかが彼女を殺した」同様、作者が真犯人を明らかにしないまま終わる謎解きスタイルだ。但し今回の容疑者は3名。事件の鍵は自殺した女が復讐のために残した、毒入りカプセルの数とその行方にある。そして3名とも心のどこかで、それぞれ「私が彼を殺した」と思っている−−。
残念ながら今回は、何度注意深く読み返しても犯人が分からず、袋とじの「推理の手引き」の力を借りてようやく「どちらが彼女を殺した」のかを突き止めることができた。謎解きの手がかりは物語の中、それも前半までに全てオープンにされていたことが判り、悔しいが今度ばかりは完敗である。
これで1勝1敗。このスタイルでの続編があればぜひリベンジしたい。
俺の中に罪悪感はなかった。俺は、しなければならないことをしただけなのだ。
ガラスに映った猫の顔に浪岡準子の顔を重ね合わせ、心の中で呟いた。
準子、仇をとってやったぞ。
俺が穂高誠を殺してやったぞ−。(「駿河直之の章3」より)
[2010年9月 5日] この日の感想・書評へ→
悪意
東野圭吾
だが私は正直なところ、犯人は彼ではないかと疑っている。そのきっかけとなったのは、事件当日の夜に彼が発した、なんでもない一言だ。それを聞いた瞬間から、私は彼が犯人である可能性について検討を始めた。直感によって動くのがじつは極めて非効率的であることは承知しているが、今回ばかりは、それにこだわってみたわけだ。(「疑惑の章 加賀恭一郎の記録」より)
加賀恭一郎シリーズの第4作である本書のスタイルは、「Who done it?」ではなく「Why done it?」。殺しの「動機」が主体となったミステリーである。
物語はある男の手記と、加賀刑事の捜査記録を交互に読み進む形で進行し、いつものように加賀の鋭い観察力によって、手記の男が犯人であるという事実は早々と確定される。しかし本作の読みどころはまさにそこから。実は犯人の手記の中には読み手(それは加賀であり読者でもある)に対する言葉の罠が巧妙に仕掛けられており、物語が二転三転して真相が明らかになるにつれ、「悪意」というタイトルが持つ底暗さが二重構造となって読み手を包み込む…。
99%の事実に混ぜたわずか1%のウソが、人の印象や物事の様相をがらりと変えてしまう恐さを改めて教えてくれる作品。
じつに驚くべき発想だと思います。殺人を犯す前に、まず動機を用意するなんてことは、おそらく前代未聞ではないでしょうか。私は今でこそ確信を持ってしゃべっていますが、この結論に至るまでにはずいぶんと悩んだのです。まさかそんなことはあるはずがない、という具合に。(「真実の章 加賀恭一郎による解明」より)
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どちらかが彼女を殺した
東野圭吾
突き止めた後はどうするか。それについてもじつは康正はすでに決めていた。しかしまだそのことに思考を向ける段階ではないと思った。まずすべきことが山のようにある。
肝心なことは−。
警察に気づかれないことだった。特にあの加賀という刑事に、自分の狙いをかぎつけられてはならないと思った。(第二章「3」より)
「どちらかが彼女を殺した」。タイトル通り、二人の容疑者のうちどちらが真犯人か明示されないまま本書は終わる。真相追究は皆さんでどうぞ、という読み手への挑戦であり、作者は物語の中に、注意深く読めば真相に迫れるだけの材料をオープンにしている。一応巻末には、作品と独立する形で評論家・西上心太氏による「推理の手引き」が袋とじで提供されているが、ここは一丁、名刑事加賀恭一郎になったつもりで謎解きに挑戦せねばなるまい。
という訳で本文を読み終えた後、ある仮説の下に真相究明に繋がる一つの「言葉」を探して再読すること約30分。自説を裏付ける明確な「言葉」こそ見つからなかったものの、最終的に自説と袋とじの中身は同じ結論に達した。ちなみに私が探した「言葉」は単行本の発刊時には存在したが、文庫化の際に作者が削って難易度を高めたらしい。ということは単行本の時に読んでいれば、もっとすんなり謎が解けていたはずだなと、気分良く眠りに就いた次第。
佳世子は少し逡巡したようだが、最後には決心した。袋を破り、中の粉末を口に入れ、グラスの水を飲んだ。そして空き袋をそばのゴミ箱に捨てた。薔薇の模様の入った、奇麗なゴミ箱だ。
康正は、冷蔵庫の取っ手にかけてあるタオルを手に取った。(第五章「5」より)
[2010年8月30日] この日の感想・書評へ→
卒業・眠りの森
東野圭吾
「回答は出すわ」
沙都子が言った。「卒業までには必ず」
「卒業まで……か」
加賀はため息をついた。「まるで何かいいことでもあるみたいに思っているんだな。卒業したら過去が消えるとでも考えているのかい?」(「卒業」第四章7より)
先頃TVドラマ化された「新参者」が話題になったが、阿部寛が演じた主人公・加賀恭一郎が、まだ大学4年生の設定で初めて世に登場したのが第1弾の「卒業」。そして数年後に刑事として登場するのが第2弾「眠りの森」である。
普通の推理物だと、卓越した推理力や直感力、真相に迫る並外れたしつこさ、凶悪犯と渡り合う度胸や腕力、あるいは神業的拳銃扱いの巧さといった超人的能力を主人公に持たせるケースが多い。だが加賀恭一郎に関しては、観察力と論理的思考に優れた極めて優秀な刑事(「卒業」では大学生)ではあるが、読み手にカタルシスを感じさせる程ではない。全日本選手権を制した程の剣道の達人ではあるものの、事件の本筋であまり役立つこともない。秘めた情熱は感じさせるが、言動はどことなく冷めていて、優等生的だ。
そのため、「卒業」では主人公への感情移入がしづらく、殺人のトリックも図解が必要な程凝りすぎて「・・・・・」といった感じだったが、続けて「眠りの森」を読み進めていくうちに、超人でない分、血の通った人間としてのリアリティを加賀に感じ始めてきた。余韻の残るラストも印象的だし。
とりあえずは「新参者」まで付き合ってみよう。
「加賀さん…あたし、加賀さんの声を忘れません」
声が詰まった。その彼女の体を引きよせ、加賀は囁いた。
「大丈夫。耳のこともきっと何とかしてみせる」
彼はフロリナ姫の顔のままの未緒に、静かに口づけした。何かの目覚めを感じさせるような口づけだった。
「君が好きだから」
加賀は未緒の身体を強く抱きしめた。(「眠りの森」第四章8より)
[2010年8月12日] この日の感想・書評へ→
聖女の救済
東野圭吾
「草薙さんは」彼女は湯川の目を見つめて続けた。「恋をしています」
「えっ?」
湯川の目から、冷徹そうな光が消えた。迷子になった少年のように、焦点が曖昧になっている。
そのままの目で彼は薫を見た。(「9」より)
ガリレオシリーズの“長編”第2弾。第1弾の「容疑者Xの献身」でもそうだったが、読み終えた後ついついもう一度読み返し、作者が巧妙に打った布石の数々を感心しながら拾い集める羽目になった。
さて今回の読みどころは、理論的には考えられるが現実的にはありえない=「虚数解」の如き完全犯罪。即ち、方法としては実現可能だが、並の感性では考え及ばない殺害方法であり、湯川の言葉を借りるなら「驚くべき執念、おそるべき意志の強さ」がなければ成し得ないトリックが描かれている。犯人が誰か?を予め匂わせた上で、殺害方法の謎だけで最後まで読ませる職人技はお見事の一言。おまけに終盤にはただの謎解きだけではない、動機にまつわる犯人の悲哀もきちんと描かれている。
だからその分だけ、「“完全犯罪”にしなければならない意味」が疑問として残ったが、まあ、謎解きの面白さの前には大した問題ではないかな…。
「もしそのトリックが先生のいう虚数解でなければ、謎は解けるということですね」
だが湯川は頷かない。眼鏡を指先で押し上げ、それはどうかな、と呟いた。
「違うんですか」
「もし虚数解でなければ」彼は目に鋭い光を宿らせて続けた。「おそらく君たちは負ける。僕も勝てないだろう。これは完全犯罪だ」(「19より)
[2010年7月13日] この日の感想・書評へ→

ガリレオの苦悩
東野圭吾
「君は変わったな。昔は科学にしか興味がなかったはずなのに、一体いつの間に、人の心がわかるようになった」
湯川が微笑した。
「人の心も科学です。とてつもなく奥深い」(第二章「操縦る」より)
ガリレオこと湯川学が、科学の知識で事件の謎を解く短編集第3弾。初期の作品よりも湯川の内面が描かれる場面が増えており、「ガリレオの苦悩」という書名にもその点が表われている。ちなみに万博で湧く上海では、ちょうど今ドラマ版「ガリレオ」を夜のゴールデンタイムで放映中だ。先頃現地を訪れた際、流麗な中国語を喋る福山雅治(もちろん吹替え!)を見ていて妙な気分がしたもんだ。
なおドラマでは、柴崎コウ演ずる女刑事・内海薫が初回から登場しているが、実は原作での登場は、放映終了後の2008年10月に出た本書が初めて。そのためドラマでウケたキャラを原作が“逆輸入”したものと思ったが、巻末の記載を見ると、第一章「落下る」は初出が2006年9月。オンエア開始(2007年 10月)より先であった。つまり初期の原作(「探偵ガリレオ」「予知夢」)には存在しなかったキャラを、ドラマでは遡って登場させた訳である。この辺りはドラマ版スタッフの慧眼と言えるだろう。
「神秘的なものを否定するのが科学の目的じゃない。彼女は振り子によって、自分自身の心と対話をしている。迷いを振り切り、決断する手段として使っているにすぎない。振り子を動かしているのは彼女自身の良心だ。自分の良心が何を目指すのかを示す道具があるのなら、それは幸せなことだ。我々が口出しすべきことじゃない」 真面目な顔で語る湯川を見つめ、薫は口元を緩めた。(第四章「指標す」より)
[2010年7月 9日] この日の感想・書評へ→

幻の特装本
ジョン・ダニング著/宮脇孝雄訳
「あなたは時代遅れよ、ジェーンウェイ。優秀な警官だったかもしれないけど、五十年前の、規則も何もなかった時代に生きてればよかったんだわ」
「たしかに五十年前ならずっと暮らしやすかっただろうと思うがね」
「電話も、テレビも、コンピュータも嫌いなんでしょう?電話中の相手にキャッチホーンが入ってきたら、かっとするんじゃないかしら」(「11」より)
ベストセラー「死の蔵書」の続編。といっても主人公が同じというだけで、ストーリーに全く関連性はない。前作で刑事から古書店主に転身を果たしたクリフ・ジェーンウェイが、世に存在しない1969年限定版のエドガー・アラン・ポー作「大鴉」を盗んで逃走中の女を連れ戻してほしい、との依頼を受けた所から物語が始まる。
プロットの意外性も少なく、事件の鍵を握る人物達の描写が徹底していないため、ミステリーとしての出来映えと重厚感は残念ながら前作に及ばない。ただ、天才的な職人の手になる稀覯本を主題に、製本や装丁、活字と印刷の知識など、愛書家の心をくすぐるスノッブな空気が随所に充ち満ちており、「読む」行為自体の快楽は存分に味わわせてくれる。
本探しにはギャンブルと同じ興奮がある。幸運の女神を相手にした戯れ方も賭け事とよく似ている。熱くなっているときには素晴らしい本が次から次へと見つかって、留まるところを知らない。ついていないときには、義理の母親とピナクル(カードゲームの一種)でもやっているのと同じような状態になる。私は熱くなっていた。運が向いているときには、状況も偶然もみんな味方につけることができる。(「13」より)
[2010年6月 6日] この日の感想・書評へ→
ソウル・コレクター
ジェフリー・ディーヴァー著/池田真紀子訳
ライムは胸の高鳴りを覚えていた。捜査はどうやら一歩前進しかけている。「五二二号も、被害者に関する知識を使って警戒を解かせ、接近しているな。濡れ衣を着せる相手の生活も、自宅にあるのと同じ商品を使って偽の証拠をでっち上げられる程度まで知っている」
「それに」セリットーが付け加える。「事件発生当時、偽の犯人候補がどこにいるはずかまで、正確に把握している。アリバイが証明できないように」(第二部「トランザクション」14より)
リンカーン・ライムシリーズの最新作。今度の敵は、個人情報を操作し証拠を捏造して無実の他人に濡れ衣を着せ、自らは身を安全圏に置きながら快楽殺人を繰り返すという卑劣漢である。この“全知全能の邪神”の如き犯罪者を追い詰めてゆくメインストーリーに、前作で捕らえ損なった殺し屋「ウォッチメーカー」が暗躍する同時進行の事件や、知られざる青春時代のライムの記憶が絡み合い、頁を捲る暇さえもどかしい程の面白さで物語が展開される。
それにしても、住所、職歴、身体データ等の基本事項から、趣味・嗜好、交友関係、保有資産や購買履歴まで、自分に関する全情報を秘密裡に収集している組織があり、そのデータが悪用されて自分が破滅に追い込まれたとしたら…。生身の自分の人間性よりも、自分に関する無機的なデータの集積の方が真実味を帯びる怖さが心をよぎった。
伯父がいまも生きていたら、ライムのラボに悠然と入ってきて、甥の動かない体には一瞥もくれず、まっすぐにガスクロマトグラフの機会を指さして訊くだろう。 「こんな時間にまだ分析か?」そして証拠物件一覧表の前に腰を落ち着け、五二二号事件の捜査についてあれこれ質問を始めるだろう。
それはそうかもしれないな。しかし、この人物がそのような行為をしたと考えることに論理的な瑕疵はないか?(第二部「トランザクション」17より)
[2010年5月28日] この日の感想・書評へ→

さよなら、愛しい人
レイモンド・チャンドラー著/村上春樹訳
「ヴェルマにはもう八年も会ってない」と彼は切なげな深い声音で言った。「別れの言葉を口にしてから、八年もたっちまった。手紙も六年前に途絶えている。でもあいつにもそれなりのわけがあったんだろう。昔ここで働いていてね、かわいい女だった。二人で上に行こう」
「わかったよ」と私は叫んだ。「つきあってもいい。だから持ち上げて運ぶのはよしてくれ。自分の足で歩ける。どこも悪くない。一人で便所にだっていける。だから下ろしてくれないか」(「1」より)
「ロング・グッドバイ」に続く、チャンドラーの村上春樹訳第2弾。原題は「Farewell, My Lovely」。長年「さらば愛しき女よ」に馴染んで来たので、正直「さよなら、愛しい人」という“軽い”題名には違和感を覚えていた。どう考えても前者の方が、ハードボイルド小説には相応しいからだ。
しかし今回村上訳を読んで、初めて「なるほど、実はこういう事だったのか!」と腑に落ちた。これまで「さらば愛しき女よ」という題名の影響で、「Farewell, my lovely」はマロイ、あるいはマーロウの視点から女に向けられた言葉と決めてかかっていたが、実はその逆で、女から哀れな男へと向けられた皮肉な言葉だったのである。そう解釈したからこそ、あえて「さよなら、愛しい人」と訳したに違いない。
「今まで考えもしなかったが」と彼は静かな声で言った。「今思い当たった。お前が俺をサツに売ったんだな。お前が。かわいいヴェルマが」
私はクッションを投げつけた。しかしそのときはもう遅すぎた。彼女はマロイの腹に弾丸を五発撃ち込んだ。指を手袋に入れるときほどの音しか聞こえなかった。
それから銃を私に向けて撃った。しかし弾丸は切れていた。(「39」より)
[2010年3月10日] この日の感想・書評へ→

プロフェッショナル
ロバート・B・パーカー著/加賀山卓朗訳
「彼女はいまもおまえに金を払っているのか?」
「いや、それは…」口ごもった。「なんか言うのも照れくさいんだが、強請のことであんたと約束しただろ」
「だから彼女からは金はもらわない?」
「そう。ベスもだ。まあ、旦那が殺されるまでってことだが」
「しかしまだ彼女たちとセックスはしている」
「そう」彼が言った。「そこは約束に含まれてなかったと思う」
「おれは規律を守る男が好きだ」私が言った。(「47」より)
1998年頃のインタビューで、シリーズものを書く利点を尋ねられた著者のパーカーは、「主人公だけでなく、さまざまなキャラクターを操るチャンスが生まれる」と答えたという。
第一作「ゴッドウルフの行方」(1973年)で登場した私立探偵スペンサーは、フィリップ・マーロウに対するオマージュ的存在の、孤独で饒舌な一介のタフガイに過ぎず、恋人のスーザンはもちろん、相棒ホークさえ登場していなかった。やがてシリーズを重ねる毎に、スーザンやホークはもちろん、クワーク、ベルソン、モリス、マーカスといった脇役達にもすっかり血が通い、それぞれ誰が、どんな生き様と美学を持っているかさえ読者と共有できる程になった。
そして37作目となったこの「プロフェッショナル」では、セックスを武器にしたイケメンの強請屋が登場。「趣味を仕事にしただけ」と悪びれず語るその生き方に、意外な好感を抱くスペンサーの姿が描かれている。敵役に魅力があると、多少ストーリーに難があっても読み通せるという典型。
「おまえとは長いつき合いだ」クワークが言った。「おまえはおまえだ」 私は肩をすぼめた。
「だが、おまえが捜査を遅らせたせいで殺人犯が逃げたら」クワークが言った。「おれは全力で追及するぞ」
「それはそうとうな力だな」私が言った。
クワークはうなずいた。
「そのとおり」彼は立ち上がり、オフィスから出ていった。(「68」より)
[2010年1月16日] この日の感想・書評へ→

死の蔵書
ジョン・ダニング著/宮脇孝雄訳
男は何もいわずそのゴールディングを買った。〈シールズ&ネフ〉宛てに小切手を書き、嬉しそうな顔をして帰っていった。
そのとき、私は不思議な高揚を感じ、説明のつかない自信が満ちあふれるのを意識した。その瞬間から、私の蔵書はすべて売り物になった。
「ジェーンウェイさん、あんたにはやっぱり本屋の素質があったんだ」ネフがいった。「あとは、店を構える場所と、最後の一跳びする勇気があればいい」(「18」より)
腕利きの“古本掘出し屋”が殺された事件を追う、古書マニアの刑事。事件の陰には“氷の女”の異名を持つ美しき古書蒐集家が。やがて刑事はその女と恋に落ちて…。本好き×ミステリー好きなら厭でもはまる設定で、1997年版「このミステリーがすごい!」海外部門1位に輝いた作品。
ストーリーそのものはまずまず、ラスト1行の謎解きも綺麗にオチが付いた感じだが、随所に挟まれる米国の古書事情、古書街と店の描写、コレクター達の心理とかけひき、そして何より主人公の台詞を借りて吐露される作者自身の古書観・作家観が興味深い。さらに主人公の刑事が、本編の挿話的な事件が原因で警察を辞職し、巻の半ばにして念願の古書店主へ転職するという設定も、本好きの潜在的欲求をくすぐる心憎さである。
ちなみに著者は元々作家だったが、出版社とのトラブルで一度引退、本書で無事復帰を果たした。引退中は本書の舞台でもあるデンバーで古書店を経営していたとのこと。なるほど古書マニアの心理に詳しい訳だ。
「あなたは暴力の臭いがぷんぷんするの。あなたの行くところには暴力がついてまわるの。書類鞄を携える人がいるように、あなたは暴力を携えている。二人でいても、三人目の人がいるのと同じ。ぞっとするわ」
私は彼女の息遣いに耳を傾けた。喉につっかえた梨は、グレープフルーツほどの大きさになっていた。
「それでも、あたしは、この人なら何でもできると思わせてくれる男の人に弱いの。大きな見返りさえあれば、何でもやるような男の人に」
私は意地の悪い笑い声を上げた。(「29」より)
[2009年12月24日] この日の感想・書評へ→

復讐はお好き?
カール・ハイアセン著/田村義進訳
とんでもない男と結婚してしまった。と思った瞬間、頭から海に突っこんでいた。
そのときの衝撃で、シルクのスカートも、ブラウスも、パンティーも、腕時計も、サンダルもみんな身体から剥ぎとられてしまった。でも、意識も判断力も残っている。そりゃそうよ。夫はすっかり忘れてしまっているようだけど、大学時代は水泳部の副キャプテンとして鳴らしたのだから。(「1」より)
結婚2周年を記念したクルーズの途上、突然夫の手で夜の海に突き落とされた美貌の妻が、自分を死んだと思わせ意地悪な仕返しを企むという軽妙なエンターテインメント小説。「このミステリーがすごい!2008年版」の2位、ということでかなり期待して読み始めたものの、正直「ふうん、こんなものか…」といったところ。550ページを退屈せずに読み進めることはできたが、果たしてこれをミステリーと位置づけて良いかどうかは大いに疑問である。また登場人物に関しても、どちらかと言えば敵役の夫(好色で、自分勝手で、卑怯で、小心者で、間抜けだが言い逃れの天才)、毛むくじゃらの用心棒(道路脇に立つ十字架の蒐集家で、尻に撃ち込まれた弾丸の痛みに始終苦しんでいる)、自宅で巨大な二匹の蛇を飼っている刑事など、どこかいびつで憎めない脇役達の方が魅力的に感じられた。
「どうしたの、ダーリン」
チャズは両てのひらをあげて、わけがわからないといった仕草をした。
「あら、まだわからないの」ジョーイは言った。「簡単よ。あなたはわたしを船から投げ捨てた。でも、わたしは溺れ死ななかった。それだけのことよ」
「どうしてそんなことが・・・・」
「水泳のおかげよ、チャズ。お金はどこにあるの」(「29」より)
[2009年11月18日] この日の感想・書評へ→

天空の蜂
東野圭吾
「子供が・・・・まさか」
「信じられんが本当らしい。警察庁のほうからも連絡があった」
あのヘリに子供が乗っている。しかも機体は犯人によって遠隔操作されている−−。
中塚は思考が混乱しそうだった。こうして電話で話していても、次に何をいうべきか考えがまとまらなかった。(「9」より)
自動操縦で乗っ取られた最新鋭の大型軍用ヘリが、高速増殖原型炉「新陽」の上空でホバリングを開始した。犯人は日本で稼動している全ての原子炉の停止を要求。受け入れられない場合はヘリを「新陽」に落下させると脅迫する。ヘリには大量の爆発物が積まれ、中には子供が閉じこめられていた・・・。という訳で、頁を捲らずにはいられない絶妙な設定で、物語は始まる。
といってもありがちな原発批判を内に忍ばせたり、テロリズムの危険性をシミュレートするだけのサスペンス大作ではない。漠然と原発を忌避しながらも正確な知識を持とうとはせず、さりとて遠く離れた場所でその恩恵だけは甘受している「サイレント・マジョリティ」、即ち大多数の「読者」に対する問題提起が根底に流れた、骨太の社会派小説である。また会話の随所で原発の仕組みが解説され、読み手を賢くなった気分にさせてくれるが、それらが蘊蓄の披瀝に終わらず、物語の進行に欠かせない要素として自然と組み込んであるのはさすがだ。
そして彼は思い出すのだった。いじめの有無を確認するために、かつてのクラスメートたちに会った時のことだ。彼等のあの仮面のような顔が瞼に蘇った。
あの顔は子供だけのものではないのだ、と気づいた。大人になってからも、多くの者はあの仮面を手放さない。やがて彼等は「沈黙する群衆」を形成する。
答えを得たと三島は思った。もはや疑いの余地はない。智弘は彼等に殺されたのだ。
本当の闘いはそれから始まった。(「49」より)
[2009年10月26日] この日の感想・書評へ→

湖中の女
レイモンド・チャンドラー著/清水俊二訳
誰も叫び声をあげなかった。誰もドアから走り出てこなかった。警笛を鳴らす警官もいなかった。何もかも静かで、晴ればれとして、平穏だった。興奮するようなことは何もなかった。マーロウがまた死体を一つ見つけただけのことだ。いままで、彼は大過なく過ごしている。“一日に殺人一つ”のマーロウとみんなが呼ぶ。彼が殺人事件に出っくわしたときのために救急車が彼についてまわる。(「11」より)
名作「長いお別れ」の10年前(1943)に発表された、チャンドラーにとっての長編第4作。大戦中に書かれたせいか、作品全体にどことなく重苦しい雰囲気が漂い、キザなセリフも控えめだが、評者によっては本作を最高傑作と見なす人も少なくない。
本作のデガーモ、「さらば愛しき女」の大鹿マロイ、「長いお別れ」のテリー・レノックスetc.…。マーロウが関わる事件にはいつも、彼の言葉を借りれば「男に輪をくぐらせることのできる」女に翻弄され、やむなく罪を犯す羽目に追い込まれる男たちが登場する。そして実は、そんな愚かな男たちに注ぐマーロウの視線は優しい。自分の中に潜む、「輪をくぐらされそうな」脆さを自覚しているのだろうか。かつて「男と女じゃ男が悪い。」というコピーがあったが、マーロウの世界の中ではどうやら、悪いのはいつも女、の様だ。
「君は大都会からやって来てる」と、彼はいった。「君たちはタフで、頭がよく働くと思っている。おあいにくだ。われわれは君たちに負けちゃいない。規模は小さいが、何もかもきちんとしてる。政治のかけ引きなんかひとつもない。まっ正直にとりくんで、むだな時間を使わない。われわれのことを心配しないでもらいたい」
「心配なんかしていない」と、私はいった。「何も心配することなんかないんだ。ただ、よごれたことをしたくないだけだ」(「21」より)
[2009年10月 6日] この日の感想・書評へ→

スリーピング・ドール
ジェフリー・ディーヴァー著/池田真紀子訳
まるで電灯のスイッチをぱちんと押したみたいだった。ウォーターズは一足飛びにストレスの「取引の段階」に進んだ。もうまもなく本当のことを打ち明けるのは間違いないが、いまはまだ罰を恐れて、真実をすべて話す覚悟ができていないということだ。この局面では、正面攻撃は切り上げて、被尋問者が面目を保ちつつ真実を告白する道を提示してやる必要がある。
尋問における敵は、嘘をついている人間ではない。嘘そのものだ。(「月曜日 11」より)
リンカーン・ライムシリーズの最新作「ウォッチメイカー」で脇役として登場、読者に強い印象を残した美貌の捜査官、キャサリン・ダンスを主役に据えた待望の作品。彼女の専門は、尋問を通じて人間の所作や表情を読み解くキネシクス分析で、言葉のニュアンスや声のトーンからウソや心理状態を見抜く“人間嘘発見器”である。そして敵役は、殺人カルト教祖で、他人をコントロールする天才ダニエル・ペル(あの「脱工業化社会」の著者と一字違い・・・)。冒頭で展開されるダンスvs.ペルの丁々発止のやりとりから、ぐいぐいと読み手を引き込んで放さない。ノートを取りつつ本書を読めば、下手な心理学の本を読むよりはるかに実用的だろう。読者サービスとしてほんのワンシーンだけ、ライムとサックスが電話越しに登場するのもうれしい。
それにしても、ウソを100%近く見破るこの様な美人が実際に現れたとして、恋人や奥さんにするには相当な勇気が必要だ・・・。
尋問やキネシクス分析では、話の内容より声のトーン−“言語の様態”−のほうが重要視される。これまで“子どもはいない”という言葉を数限りなく聞いてきた。そしてその声の調子に耳を澄ませば、子どもがいないという事実が発言者にとって大したことではないのか、自ら望んでした選択の結果なのか、いまも心残りに思っている事なのか推測がつく。
ケロッグの返事に、ダンスは何か見逃せないものを感じ取った。(「水曜日 38」より)
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超・殺人事件
推理作家の苦悩
東野圭吾
遠藤がぽつりと言った。「もう一つ、こないかな・・・・」
「えっ?」
「いや、何、つまりさ」誰に聞かれる心配もないにもかかわらず、遠藤は掌で口元を隠し、声を落としていった。「殺人事件がもう一つ起きないかなと思っただけだよ。しかも君の小説通りに」(「超予告小説殺人事件」より)
「白夜行」や「幻夜」「秘密」と同じ作家が書いたとは思えない、軽妙でユーモアたっぷりの連作集。但し一見お気楽に読める短編ばかりだが、全ての作品に何らかの形で“作中作”が盛り込まれており、どれを取っても一筋縄ではいかない技巧、企み、そして“毒”に満ちている。
例えば「超長編小説殺人事件」や「超理系殺人事件」は、巷の大長編ブームや理系小説ブームに対するアイロニーがモチーフであり、それは常々「作家たるもの、世の中に疑問や問題意識があるなら、生の声やエッセイではなく小説で表現すべきだ」と広言してきた、著者一流のプロ意識が基底となっている。深読みは野暮だが、込められた批評精神を素通りするのは勿体ない。
「単なる朗読マシンなんかをお勧めするために、わざわざお邪魔したりしません。ショヒョックスはですね、本を読んで、その内容を要約したり、感想を述べたり、書評を出力したりできるんです」
「えっ、まさか」
「と、お思いでしょうが、本当なんです。しかも読書に要する時間は、三百頁の本でも約十分で済みます」(「超読書機械殺人事件」より)
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探偵ガリレオ・予知夢
東野圭吾
突然彼の目が大きく見開かれた。と同時に、信じがたいことが起こった。
山下の後頭部から炎が上がったのだ。それは瞬く間に彼の東部全体を覆った。
山下は声をあげることもなく、そのままゆっくりと前方に倒れていった。まるで大木が燃えたまま倒れていくようだった。(探偵ガリレオ/第一章「燃える」より)
「容疑者Xの献身」がかなり面白かったので、今さらではあるがドラマ版の「ガリレオ」1,2話を初めてネット上で視聴し、ついでに原作にも手を出してみた。根っからの文系人間ゆえ、謎解きの“科学的”説明がどこまで正しいのか分からないが、著者は府立大の電気工学科出身ということなので、たぶんその辺はぬかりなく書かれているのだろう。個人的には、子供の頃に見たTVシリーズ「怪奇大作戦」をふと思い出してしまった。
なお本書の解説によると、元々作者は佐野史郎をイメージしてキャラクター設定をしたとのこと。確かにイケメン福山雅治よりは、小説のイメージと合うかも。
「ポルターガイストというのは、ドイツ語で『騒がしい霊』という意味だ。家具などが勝手に動き出したり、部屋全体が振動したりするのは、霊が騒いでいるせいだというわけだが、君のほうがよっぽど騒がしいな」
草薙は机に両手をついて力説した。「何度もいうが、あれは絶対に怪奇現象だ。あの後調べてみたが、あの日あの場所で地震が起きたという記録はない。俺の勘違いでも錯覚でもないぞ。何しろ、神崎弥生さんという証人がいるんだからな」(予知夢/第三章「騒霊ぐ」より)
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幻夜
東野圭吾
「ねえ、昼間の道を歩こうと思たらあかんよ」美冬がいった。深刻な口調だった。
意味がよくわからず雅也は彼女を見た。
「あたしらは夜の道を行くしかない。たとえ周りは昼のように明るくても、それは偽りの昼。そのことはもう諦めるしかない」(第四章「4」より)
「白夜行」の続編と言われているが、登場人物の名前も異なるし、「美しい悪女を主人公にしたノワール」としての類似性からそう位置づけたのだろうと勝手に想像していた。だから「白夜行」より若干切なさに欠けるなあ・・・なんて思いつつ読み終えた訳だが、巻末の解説で同一ヒロインである可能性を呈示され、それってどうよ?と思わず頁を捲り直した。で、私自身の結論は「確かにそう読めなくはない。でもそう思いたくない」といったところ。少々複雑な気分である。
作者自身はある取材で、「“続編”にはしたくなかった。ズバリ書くのは無粋。両方読んだ人同士で想像して盛り上がってくれれば」と曖昧にしているが、同一ヒロインの生き様として読めば確かに世界観は広がる。作者もその辺りを計算して、巧妙に匙加減をしたのだろう。どうやら第三部の構想も練っている様なので、いずれ読まねばなるまい。
この四年あまり、二人で様々な苦難を乗り越えてきた。そのためには手段を選ばなかった。二人はどちらも裏の顔を持っていた。本当の顔を見せるのは二人きりの時だけだった。暗い夜の中にこそ、お互いが本性をさらけだせたはずだ。
しかし彼女のほうは俺にも本当の顔を見せていなかったことになる。俺が彼女と過ごした夜は、全部幻だったのか−。(第九章「4」より)
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秘密
東野圭吾
「もしも何か特別な病気で、薬を飲んだり手術したりすれば藻奈美の意識が蘇るっていうなら、あたし、迷わずにそういう治療を受けるからね」彼女は、きっぱりといった。
「だけど、もしそういうことになったら、直子の意識のほうはどうなるんだ?」平介は訊いた。「今度は直子の意識が消えちゃうんじゃないのか」
「そうだとしてもかまわない」彼女はいった。「藻奈美が生き返るなら、喜んであたしはどこかへ行くから」(「5」より)
立て続けの東野圭吾。既に10年程前に映画化までされ、直子/藻奈美役を19歳の広末涼子が演じて話題になったらしいので、世間から10年以上も遅れている訳だ(ま、どーでもいいけど)。
どことなく重松清の「流星ワゴン」に通じる切ない系ファンタジーだが、最後の最後で、ああ、タイトルの「秘密」にはこういう深い意味があったのかと、「白夜行」の重さ、暗さとは全く違った意味で深い余韻が残る作品である。女性が読んでもあまり感動できないかも知れないが、日頃から妻と娘を(それなりにでも)愛おしく思っている中年男が読めば、ラストシーンは切なさ百倍といったところか。読み手の心情や立場次第で感想が180度異なりそうな作品。
「最後にもう一度ここへ連れてきてくれてありがとう」直子がいった。
平介は彼女のほうに身体を向けた。
「やっぱり・・・・最後なのか」
彼女は彼から目をそらさずに頷いた。
「どんなことにも終わりはあるのよ。あの事故の日、本当は終わるはずだった。それを今日まで引き延ばしただけ」そして小声で続けた。「引き延ばせたのはあなたのおかげよ」(「45」より)
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容疑者Xの献身
東野圭吾
「おまえ、何をそんなに苦しんでるんだ。なんで俺に打ち明けてくれないんだ。友達だろうが」
すると湯川は目を開け、厳しい顔のままいった。「友達であると同時に刑事だ」
草薙は言葉を失った。この長年の友人との間に、初めて壁の存在を感じた。(「17」より)
TVドラマ「ガリレオ」の存在や、福山雅治が主人公を演じていること、本書が少し前に映画化されたこと位は知っていたが、それ以上は何の予備知識もないまま、新神戸−東京間の約3時間で一気に読んだ。「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」同様、犯人を明らかにしてから謎を解く「倒叙法」スタイルだが、明かされたトリックには正直意表をつかれた。謎解きの後思わず細部を読み返したが、確かに全ての整合性が取れている。見事に一杯食わされた感じだ。
ちなみに映画版では堤真一が石神役を演じているとか。風采の上がらない数学教師の設定にやや合わない気もするが、ネット上では主役の福山クンを喰ったと評判らしい。映画自体の評価も高い様なので、機会があればぜひ観てみたい。
「このことをあなたに教えるのは、じつに心苦しい」彼は実際、苦痛そうに顔を歪めていった。
「石神がそのことを、絶対に望んでいないからです。何があっても、あなたにだけは真実を知られたくないと思っているでしょう。それは彼のためじゃない。あなたのためです。もし真相を知ったら、あなたは今以上の苦しみを背負って生きていくことになる。それでも僕はあなたに打ち明けずにはいられない・・・ (略)」(「18」より)
[2009年9月 6日] この日の感想・書評へ→

白夜行
東野圭吾
「俺の人生は、白夜の中を歩いてるようなものやからな」
「白夜?」
「いや、何でもない。」桐原はハイネケンを飲んだ後、友彦と弘恵の顔を交互に見た。(第八章より)
ずっと気になっていながらも、なかなか読む機会のなかった東野圭吾。どうせなら代表作と呼ばれているものをと思い、北国への出張に似合うタイトルの本作を選んだ。文庫で約850ページの大作だが、全体を流れる暗く重い通底音の様な空気感に絡め取られ、二日間で一気に通読。最後の一行を読み終え、しばらくの間何とも言えない余韻が重く残った。そして、巻末の馳星舟による解説を読んで初めて、そう言えば主人公二人の内面と動機が一切描かれてなかったと気付く。さらには犯行場面の描写さえなく、それでいて読み手には、事件の動機と全容が納得感のある真実として伝わっている。巷では賛否が分かれる小説らしいが、私は確実にはまった。
刑事たちが行動を起こし始めた。ある者は現場保存の段取りをし、またある者は店長の女から事情聴取をしようとした。そしてある者は笹垣の肩に手を置き、彼を死体から遠ざけようとした。
笹垣はふらふらと刑事たちの輪から離れた。見ると、雪穂がエスカレータを上がっていくところだった。その後ろ姿は白い影に見えた。
彼女は一度も振り返らなかった。(第十三章より)
[2009年8月27日] この日の感想・書評へ→

灰色の嵐
ロバート・B・パーカー著/加賀山卓朗訳
「私に危険を及ぼしたら、彼はあなたを殺すと思うの?」
「殺そうとするだろう」
スーザンが私を見た。
「そうするの?」
「おれはやりとげる」私が言った。
ルーガーが微笑みそうになった。(「27」より)
前作の「昔日」以来半年ぶりとなるシリーズ第36作。今回は第27作の「悪党」でスペンサーに重傷を負わせ、第32作の「冷たい銃声」では一転してスペンサーの助っ人を演じた冷徹な仕事人“グレイマン”が登場。冒頭ハリウッド映画ばりのド派手な活劇シーンでスーザンを人質に取るなど、今回は明らかに敵役に回ったことを印象づける。ただオープニングの割にストーリー展開自体はいつものペースで進み、勧善懲悪ではない“灰色の”決着で締めくくられる。
第1作「ゴッドウルフの行方」から何と35年以上も続くこのシリーズ。偉大なるマンネリ万歳といった感じだが、寅さんを観るような気持ちでこれからも付き合っていきたい。
「あなたたちふたりは手強いわ」スーザンが言った。
「でもそれはルーガーも同じ」私に向かって言った。「一度あなたを殺しかけたのよ」
「そのときにはおれがいなかった」ホークが言った。
「たしかに」
「いまはおれがいる」ホークが言った。
「そうね」
「やつとおれたちふたり?」ホークが言った。「おれたちのほうが分がいい」(「59」より)
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クリスマス・プレゼント
ジェフリー・ディーヴァー著/池田真紀子他訳
ビートは野ウサギを見て、ダグを見た。
「どうした、撃てよ」
そうだな、あんたがそう言うなら。
ピートは銃口を持ち上げると、一度だけ引き金を引いた。(「三角関係」より)
既訳のリンカーン・ライムシリーズは全て読破した。後は最新作「The Broken Window」(2008)の和訳を待つばかりだが、一話のみライムが登場する短編集があると知り、手に取ったのが本書である。
とはいえ、長編の名手が短編にも長けているとは限らない。期待を裏切られる事にならないかと一抹の不安もあったが、心配ご無用。「Twisted」の原題通り“捻り”の利いた16の短編は、設定も時代背景もプロットも変化に富んだ秀作ばかり。そもそも手練れの著者のこと、必ずアッと言わせる仕掛けが毎度待ち構えているに違いないと、こちらも身構えつつ全作読み進めたが、そんな読み手の警戒心をあざ笑うかの様な「三角関係」や「ひざまずく兵士」のラストには、思わず心中で「やられた!」と叫んでしまった。もちろんライムが登場する「クリスマス・プレゼント」も、シリーズのいつもの空気や世界観が短編の中にきっちり描かれていて満足度大だし、「この世はすべてひとつの舞台」ではシェイクスピアが登場、友人のために鮮やかな完全犯罪の脚本を書き上げ、配役の一人まで演じている。
既に二つ目の短編集「More Twisted」も刊行済(2006)とのこと。こちらの和訳も楽しみだ。
「それにしても、つらい体験でしたね。うるさくつきまとっていたモンスターから解放されて、いまはさぞほっとしているでしょう」
グウェンはふいに奇妙な笑い声を漏らすと、カメラをまっすぐに見据えて答えた。
「ええ、それはもう」(「ひざまずく兵士」より)
[2009年8月 7日] この日の感想・書評へ→

ウォッチメイカー
ジェフリー・ディーヴァー著/池田真紀子訳
科学捜査には興味はなかったが、それでもダンスは目の前で繰り広げられているドラマにいつしか魅了されていた。ライムとサックスがそろうと、常人とは思えぬ洞察が発揮される。さらに十分後、鑑識技術者のメル・クーパーがコンピューターのモニターから顔を上げ、「ホイールベースと茶色の繊維から車種を絞りこめたよ。おそらく二年か三年落ちのフォード・エクスプローラーだ」と宣言したときには、感嘆せずにはいられなかった。(第一部「火曜日 午前零時二分」より)
ついに既訳では最新作のリンカーン・ライムシリーズ第7弾へたどり着いた。今回の相手は、アンティークな置時計を毎回殺人現場に残していくヘンな奴。いつも通りどんでん返しの連続で読み手を飽きさせないが、敵役として「魔術師」を超える程の存在感はない。
それよりも今回の読ませ所は、容疑者との対話を通じて心理状態や嘘の有無を読み取る「キネクシス」のエキスパート、キャサリン・ダンスの活躍である。“歩く嘘発見器”とも言うべき彼女の恐るべき洞察力は、犯行現場の微細な慰留物から隠された真相を導き出すリンカーンの能力にひけを取らない。作者も読み手の反響に手応えを感じたのか、早速彼女を主役に据えた作品「スリーピング・ドール」を本作の後に上梓した。無論、いずれ読むことになるだろう。
「あ、いま二度まばたきをしたわね。キネクシスで言うストレス反応よ。本心ではないことを言った証拠だわ」
「きみは議論の相手としては難敵だな」ライムはスコッチを飲み干した。
「リンカーン、あなたのベースラインはもう把握してるの。私をだまそうったってそうはいかないわよ。でも心配しないで。秘密は守るから」(第一部「火曜日 午前零時二分」より)
[2009年7月22日] この日の感想・書評へ→

12番目のカード
ジェフリー・ディーヴァー著/池田真紀子訳
人を五分の三の人間にするのは、政治家でも、ほかの市民でも、故障した体でもない。自分を完全な人間と見てそのように生きるか、不完全な人間と見てそのように生きるか、それを決めるのは、自分自身だ。(第V部「解放奴隷の秘密」より)
「魔術師」があまりに面白かったので、立て続けのリンカーン・ライムシリーズ第6弾。目的達成のためには手段を選ばない“無感覚”な冷血魔が今回の相手。そこに共犯と思しき不気味な黒人の影と、南北戦争にまつわる歴史的な謎の解明が絡み合う。最新の科学技術と並外れた観察力を駆使する主人公が、約140年前の歴史の謎をどう解き明かすかが今回の見せ場だが、殺人者に付け狙われる華奢で利発な黒人少女ジェニーヴァの存在が魅力的。また第一作から脇を固めているベテラン刑事ロン・セリットーの“内なる闘い”も、絶妙なスパイスとなって作品に彩りを添えている。
それにしても、シリーズ第6作に至ってなお読者の期待を裏切らない(それどころか読み手の想像を飛び越え続ける)手腕は見事。こうなれば現時点での最新作「ウォッチメイカー」も読まない訳にはいかない。
小さな勝利の積み重ね−−ドクター・シャーマンはそう言っていた。小さな勝利か・・・・・それしか望めない場合もあるだろう。忍び寄る睡魔に降伏する前、ライムの心をふとそんな考えがよぎった。
だが、ときには、それさえあれば足りる場合だってあるのだ。(第V部「解放奴隷の秘密」より)
[2009年7月19日] この日の感想・書評へ→

魔術師
ジェフリー・ディーヴァー著/池田真紀子訳
焦燥感に胸が焼かれるようだった。この体で物理的に犯人を捕らえることはできないという事実は、とうの昔に受け入れている。しかし明晰な頭脳という強力な武器が、それを埋め合わせていた。椅子やベッドで身動き一つできずにいても、追跡中の犯人を知恵で出し抜くことができる。
ただエリック・ウィアーの場合は−−魔術師の場合は、それができなかった。今回の相手は、人を欺くために存在している人間だ。(第II部「メソッド」より)
リンカーン・ライムシリーズ第5弾。今回の相手「魔術師」は、イリュージョン・脱出マジック・早変わり・手品・腹話術・読心術・ピッキングの達人で、まさに「人を欺くために存在している人間」。十重二十重の心理的な罠と策略を次々と繰り出すたちの悪さは、過去最大の強敵と言っても過言ではなく、読み手のこちらまでが誰を信じていいのか判らなくなる程である。ストーリー展開の面白さは言うに及ばず、マジック、イリュージョンで用いられている多彩な心理的誤導のテクニックや、技術的トリックの裏側迄もたっぷりと楽しめる傑作。原題はThe Vanished Man(消された男)だが、訳題の方も悪くない。
魔術師の顔には驚愕があった。困惑も。犯罪学者は、その感覚を楽しんだ。どんなハンターも、獲物を探す行為こそ狩りのもっとも楽しい部分だと言う。しかし、ついに獲物を倒した瞬間に最高の喜びを感じないハンターは、真に偉大な狩人にはなれまい。
「どうしてわかった?」ぜいぜいと胸の鳴る音とともに魔術師が繰り返した。(第II部「種明かし」より)
[2009年7月16日] この日の感想・書評へ→

石の猿
ジェフリー・ディーヴァー著/池田真紀子訳
「つまり、私はこのままで調和が取れていると思うのかね?」ライムはうんざりしたように笑った。
「あんたがこうなったのは運命だよ、老板。何かの目的があってこうなったんだ。こうなったおかげで刑事の才能が最高に引き出されているのかもしれない。あんたの人生はいまのままでバランスが取れてるんだよ、老板」
ライムは笑うしかなかった。(第三部「生者と死者の名簿」より)
リンカーン・ライムシリーズ第4弾。いつもと趣向が違って、犯人の正体や狙われる標的を最初から明らかにしつつ物語は展開される。
スリリングで不気味な海中での証拠探し、中国人刑事との心の交流といった新機軸を堪能しつつも、過去3作を通じて主人公並の優れた洞察力を身に付けた (?)愛読者の私は、クライマックスで書名の「石の猿」が事件解決の鍵になる!と看破、ほぼ予想通りの展開で犯人逮捕に至った。ふむ、今回は作者の術中にはまらなかったわいと少々物足りなさも感じたが、ふと手元を見るとまだ70ページ以上も残っている。もしやもう一波乱あるのか?と気を引き締めて残りページを読み進めていくと・・・。やっぱやられちゃいました。
暗闇の奥で何か動く気配がする。何だろう。魚か。ウナギか。イカか。
このまま帰りたいわ、ライム。
しかしゴーストがチャン一家を探していることを思い出した。ポーイー、宝の子という名前の赤ん坊のことを思い出した。
暗闇のこと、閉所にいることは忘れ、そのことだけを考えよう。そのポーイーのために前に進むのだ。
アメリア・サックスは泳ぎ続けた。(第四部「悪鬼の尾を切る」より)
[2009年6月28日] この日の感想・書評へ→

エンプティー・チェア
ジェフリー・ディーヴァー著/池田真紀子訳
彼女にはライムのようにはなれなかった。おそらくそれは、自分のなかに同じ冷たさが存在することを知っているからだった。いざとなれば有能な現場鑑識官らしく、まるで電気のスイッチのように自在に現実と感情を切り離すことができることを知っているからだった。そして、いったんそのスイッチを切り替えたら、自分の心を二度と元どおりに修復できなくなるような気がして怖かった。(第一部「パコの北」5より)
「ホーン・コレクター」「コフィン・ダンサー」に続くリンカーン・ライムシリーズ第3弾。土地勘のない未知の環境で「陸に上がった魚」状態のライムと、ライムの指令を振り切って単独行動に走った美しき相棒(愛弟子)サックスとの頭脳戦が今回の読み所である。西部劇を思わせる舞台装置の下で繰り広げられる、息もつかせぬ追跡戦とどんでん返しの連続は、前2作に勝るとも劣らぬ面白さ。誰が敵で誰が味方か判然としないまま、最後の最後まで仕掛け満載だったせいか、読み終えた途端にもうお腹一杯といった感じだ。昆虫の生態や行動習性が問題解決の鍵になる辺りは、物語に知的な彩りを添える形となっていつもながら鮮やかなお手並み。一作毎に深まるライムとサックスの絆も、シリーズの展開に深みを与える重要なスパイスとなっている。
「もう一つ、あなたに知っておいてもらいたい、生き延びるための条件があるの」
「どんな?」
「すべての生物は、種を絶やさぬために努力する」
ライムは唸った。「新たな有罪答弁取引か?何かの取引なんだな?」
「ニューヨークに帰ってからゆっくり話し合いましょう」(第五部「子どものいない町」45より)
[2009年5月 4日] この日の感想・書評へ→

昔日
ロバート・B・パーカー著/加賀山卓朗訳
「このことに巻きこんですまなかった」私が言った。
「人前ではあまり認めたくないことだけど」スーザンが言った。「私はあなたといる。それにこういうことが含まれているとしても、いっしょにいる価値はあるわ」
私たちはしばらく見つめ合っていた。私はうなずいた。(「33」より)
「ドリームガール」以来のスペンサーシリーズ第35作目。浮気調査を発端とした殺人事件の中に、恋人スーザンとの「昔日」の別離を重ねてしまったことで、必要以上に事件に入れ込んでしまうスペンサーの姿が描かれている。「昔日」の別離の経緯は第10〜12作の「拡がる環」「告別」「キャッツキルの鷲」に詳しいが、読んだのはかれこれ二十年以上も昔の話なので、今さらそんな昔話を下地にされてもなあ、というのが正直なところ。ホーク、ヴィニィ、チョヨら脇役達の魅力に救われた感がある。
二人の「結婚問題」が次作以降のサブテーマとなりそうな気配だが、そこを掘り下げるよりは、ハードボイルド物の原点に戻って物語としての面白さを今一度追求してほしいものだ。
「結婚すると、きみはもっと幸せになるか?」
「いいえ・・・・」
「でも?」
「たぶんもっと・・・・完全になった感じがすると思う」
「たぶん」私が言った。「おれもそう感じるだろう」
私たちは黙っていた。(「39」より)
[2009年3月 1日] この日の感想・書評へ→

コフィン・ダンサー
ジェフリー・ディーヴァー著/池田真紀子訳
「彼の中に入れ」ライムが囁く。「どういう意味か、わかるね」
どういう意味か、ちゃんとわかっている。そして、サックスはそれを嫌っていた。だが、もちろん、ちゃんとわかっていた。優秀な科学捜査官の心には、ハンターと獲物の線引きが存在しない場所がある。手がかりを追う刑事としてではなく、犯罪者になりきって、犯罪者の欲求や欲望、不安を自分のものとして感じながら、犯行現場を見渡すことができるのだ。(10「残り四十三時間」より)
四股麻痺の科学捜査専門家リンカーン・ライムが活躍するシリーズ第2弾。犯行現場の微細な遺留品から犯罪者の行動を読み取る、独自の“科学捜査サスペンス”としての構成の妙に加え、ライムの手足となるうちにプロとして成長を重ねてきた美貌の科学捜査官サックス、偏屈だが有能なベテラン鑑識部員クーパー、気骨ある殺人課刑事セリットー、変幻自在の潜入捜査官デルレイ、人並み外れた射撃能力を持つ証人警護の専門家ベルなど、“チーム”としてライムを支えるメンバー個々のキャラがしっかりと立っていて、実に魅力的である。ストーリーも、互いに罠をかけ合うライムと殺し屋との息詰まる対決を軸に、終盤にあっと驚く予想外の展開が待ち受けるなど、前作「ボーン・コレクター」にひけを取らない面白さ。今のところ既にシリーズ第8作まで刊行されており、こりゃ〜もうとことん付き合うしかなさそうだ。
パーシーは続けた。「悪いけど、刑事さん、私とあなたの間にはこれっぽっちも違いがあるとは思えないわ。私もあなたも、二十世紀の科学の産物よ。そう、もし私に翼があったら、自力で空を飛ぶわ。でも翼はないし、永遠に生えてくることもない。私たちは二人とも、生きるためには・・・・・ほかのものに頼るしかないの」
「確かにそうだ・・・・」ライムは歪んだ笑みを浮かべた。(27「残り十八時間」より)
[2009年1月21日] この日の感想・書評へ→

風の影
カルロス・ルイス・サフォン著/木村裕美訳
「ここは神秘の場所なんだよ、ダニエル、聖域なんだ。おまえが見ている本の一冊一冊、一巻一巻に魂が宿っている。本を書いた人間の魂と、その本を読んで、その本と人生をともにしたり、それを夢見た人たちの魂だ。一冊の本が人の手から手にわたるたびに、そして誰かがページに目を走らせるたびに、その本の精神は育まれて、強くなっていくんだよ。・・・(後略)」(上巻「忘れられた本の墓場」より)
1945年のバルセロナ。古書店を営む父に連れられ足を踏み入れた「忘れられた本の墓場」で、10歳のダニエルは偶然一冊の本「風の影」と出会う。そしてこの運命的な出会いによって、少年は知らず知らず、幻の作家をめぐる数奇な過去の物語へと絡め取られていく。
本好きの心理をくすぐる絶妙な導入で読み手の心をつかみ、上下巻800頁を一気に読ませるだけの引力を持つ本書は、スペインの現代小説では空前のベストセラー記録を作り、37ヵ国で翻訳出版されたという話題のミステリーである。全編に漂う重厚感といい、過去と現在が輻輳する物語の緻密さといい、血の通った人物造型といい、あるいは街の空気が感じ取れる情景描写といい、あらゆる点で絶品本格ミステリーならではの風格を備え持つ。あとがきによると著者は三つ年下で、コピーライター出身らしい。
読書は個人的な儀式だ、鏡を見るのと同じで、ぼくらが本のなかに見つけるのは、すでにぼくらの内部にあるものでしかない。本を読むとき、人は自己の精神と魂を全開にする。(下巻「ドラマティス・ペルソナエ」より)
[2009年1月 2日] この日の感想・書評へ→

フロスト気質
R・D・ウィングフィールド著/芹澤恵訳
「全裸の若い娘に停車を求められたのに、停まらなかった?なんとまあ、おれなら半裸でも停まってやるのにーーいや、いや、たとえ服を着てたって、おっぱいの片っぽでもちらっとのぞかせてくれりゃ、もう即座に停まってるな」
「だろうな、ジャック、あんたは親切心が服を着て歩いてるようなもんだから」とウェルズは言った。
「ちんぽこが服を着て歩いてるようだ、という評判も立ってる」とフロストは言った。(第三章より)
粗野で卑猥な仕事中毒の中年刑事ジャック・フロストが主人公のシリーズ第4弾。「夜のフロスト」以来7年ぶりの邦訳版登場である。例によって次々と起きる難事件に振り回される中、直感頼りの場当たり捜査を繰り返し、数々のヘマをやらかしながらも、各事件の真相に近づいていく。もちろんお得意のエッチな妄想、お下劣ジョークは健在だ。
特に今回は、同僚刑事の愛娘がひき逃げされた過去の事件を通じて、フロストの硬派な一面が明かされる下りが一つの読み所。しっかり構成された全体のプロットと相まって、800頁以上を一気に読ませるだけの魅力が随所に溢れている。
残念なことに昨年7月末に著者が亡くなり、シリーズの未翻訳版も残るは2冊。本作も原作刊行から邦訳まで13年要しているが、次を早く読みたい様な、お楽しみをゆっくり取っておきたい様な・・・。
「・・・お巡りとしてやっていくには、ときには多少は横着で強引なこともせざるを得なくなってくる。容疑者を確実に刑務所送りにしてやるために、嘘のひとつやふたつ、つかなくちゃならないときもある。だから、今回のことでも、おまえのようなくそ生意気なふやけた若造をぶち込んでやるためにどうしても必要だってことになりゃ、嘘なんていくらでもついてやる。・・・」(第十九章より)
[2008年12月14日] この日の感想・書評へ→

容赦なき牙
ロバート・B・パーカー著/山本博訳
「あんたが何を信じようが、どうでもいいことだ」クロウが言った。「しかし、これは信じてもらっていい。俺は約束は守る」
ジェッシイがうなずいた。
「あんたも約束を守る」クロウが言った。
「そう思うか?」
「俺はあんたを知っているんだ、ストーン。あんたが俺を知ってるように。俺たちは、長いこと同じ音楽を聴いているからな」(「26」より)
前作「秘められた貌」から約1年ぶり、ジェッシイ・ストーンシリーズ第7作目の新作。今回は第2作「忍び寄る牙」で鮮烈な印象を残した「殺し屋クロウ」が待望の再登場である。スペンサーシリーズのホーク同様、恐ろしく腕が立ち、己の行動規範(例えば「女は殺さない」 etc.)のみに従い、敵に回すと危険極まりない男というキャラクターの魅力が全開。強さと脆さを併せ持つ主人公ジェッシイの人物造型がきっちり積み上げられて来た分、そのアンチヒーローとして、好敵手として、また心の奥底で響き合う理解者としてのクロウの存在が大いに光る作品となっている。
故・菊池光氏の没後、第5作「訣別の海」から引き継いだ山本氏の翻訳もすっかり板に付いた感じで、全く違和感を感じさせない。ただ本作の実質的主役クロウのイメージには、原題「Stranger In Paradise」の方が合っていたかも。翻訳者の責任ではないだろうが。
反撃の時間はかなり短くなるだろう。殺されるかもしれない。あるいは、無事かも。この不確かなところがゲームなのだ。
防潮壁に一人座り、たえず背中に風を感じながら、クロウは幸せそうに微笑んだ。死が選択肢の一つでなければ、戦士とはいえない。(「63」より)
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ボーン・コレクター
ジェフリー・ディーヴァー著/池田真紀子訳
人間の他人を見る目は、自身をどう見るかに左右される。事故以来、リンカーン・ライムが他の人々を肉体という観点からとらえることはまれになっていた。彼女のすらりと伸びた背、形のよい尻、燃えるような赤い髪はライムの目にも映っていた。他の男ならそういった要素に注目し、いい女じゃないかと考えただろう。しかしライムの心にはそんな言葉は浮かばなかった。ライムに強烈な印象を与えたのは、彼女の目に浮かんだ表情だった。(第1部「一日王」5より)
かつて日本でもオンエアされていた米国のTVドラマの中に、「鬼警部アイアンサイド」という車椅子の警部が活躍する人気ドラマがあったが、本書の主人公はその設定を遥かに超えている。何と第四頸椎損傷による四股麻痺、動くのは左手の薬指だけ、という救いようのないハンディを背負っているのだ。ではこの酷い設定下の主人公(映画版ではデンゼル・ワシントン)を活躍させるのに、作者はどの様な能力を与えたのか。それは、犯行現場に残るどんな些細な物証も見逃さない、森羅万象に関する膨大な知識と洞察力、及び冷酷とも映る「証拠」への執着心であった。
そして常に安楽死への願望が頭から離れない彼の前に、心に傷を抱えた美人巡査(映画版ではアンジェリーナ・ジョリー)が登場し・・・。てな訳で、頁を捲る手がもどかしくなる程のスピード感で、推理とサスペンスたっぷりの謎解きが展開されていく。食事前に読みたくない様なグロいシーンもいくつか登場するが、文句なしに面白い。
死を決意した最大の理由は彼女なのだと、どう説明したらわかってもらえるだろう。その朝、目を覚ましたとき、隣で眠る彼女を見て、彼女はじきにこのベッドを下り、服を着て、あのドアから出て行くのだと−−彼女の生活に、元通りの生活に戻っていくのだと、彼は悲しみとともに痛感した。そう、二人の恋の行方はわかりきっている−−図々しくも二人を恋人同士と考えたとしても。(第5部「走ってさえいれば振り切れる」37より)
[2008年11月16日] この日の感想・書評へ→

還らざる日々
ロバート・ゴダード著/越前敏弥訳
「夢にも思わなかったよな。おれたちふたりがまた〈ポット〉へ来るなんて」チップチェイスは疲れた笑みを漂わせた。「お互い、ここで何パイントも飲んだもんだ」
「おれはビールをつぐほうもやったよ。あんたとジャッキーがスペインへ逃げたから、カウンターの奥で働くしかなかった」(下巻・33より)
「蒼穹のかなたへ」「日輪の果て」に続き、“骨のあるダメ男”ハリーを主役に据えた第3作。といっても前作同様各作品は物語上何の関連もない。何しろ「蒼穹・・・」で初登場の時点で既に53 歳だったハリーは、59歳だった「日輪・・・」を経て、今回は何と69歳。それも前作の後にドナという若い学者と結婚、娘まで生まれてカナダで幸せに暮らしているという意外な設定なのだ。若妻に養われている点では相変わらずの“ダメ男”かも知れないが、還暦を過ぎて子供を作った辺りはある意味男の鑑と言えそうだ。
さてそんな老人ハリーが、若い頃に一杯食わされた悪友バリーと共に無実の罪に問われ、嫌疑を晴らすべく二人で英国中を飛び回る・・・というのが大枠の筋書き。読物としては前作を凌駕していたが、ハリー&バリーの会話があまりに粋でテンポが良く、老人同士の会話にはとても思えなかったのが最後まで気になった。
「ちょっとばかり計画変更だ。ハリーよ」テーブルの反対側からチップチェイスが身を乗り出した。「消化器はおまえがとれ。操舵室への戸口の上に掛かってる。見落とすことはないさ。思いっきりマークをぶちのめすんだ。フランクはおれが引き受ける」
「なぜいまさら相手を替える?」
「おまえは夫であり、父親だからさ。おれはどっちでもない。だから、もしだれかが弾を食らうなら・・・・」(下巻・55より)
[2008年9月21日] この日の感想・書評へ→

殺意のコイン
ロバート・B・パーカー著/奥村章子訳
「すべてを賭けてもいいか?」
鼓動が速まって息が浅くなるのがわかった。喉を絞められたような息苦しさも覚えた。
レストランにいるほかの客にはなんの変化もなく、それまでどおりに食事をしたり酒を飲んだり、話をしながら嬉しそうな顔をしたり困ったような顔をしたりしている。けれども、わたしたちのテーブルだけは時間の流れが遅くなって、まわりの世界から孤立していた。(「23」より)
女性探偵「サニー・ランドルシリーズ」の最新作。ジェッシイ・ストーンとの関係はどうやら終わりを迎えた様で本作には登場しないが、五作目を迎えていよいよ著者も乗ってきた感があり、本筋のストーリー設定の面白さではシリーズ中ベストの出来だろう。
二十年前にボストンを震撼させた連続殺人鬼“物乞いキラー”が犯行を再開。かつて捜査責任者として指揮を執っていたサニーの父親フィルが顧問として捜査に参加することとなり、娘に協力を依頼するところから物語は始まる。自ら囮となって容疑者と接触するサニーの安全を気遣いつつ、警部時代の実力の片鱗をさりげなく感じさせる父親の人物造型が魅力的だ。
「降りるつもりはないのか?」と、父が訊いた。
「父さん、わたしはプロよ」
「わかってるよ。だから、おれの考えを押しつけずにたずねてるんじゃないか」
「降りるつもりはないわ。わたしは拳銃を持ってて、撃ち方も知ってるし、以前は警官をしていて、いまは私立探偵よ。危険だからって、家に帰って隠れてたんじゃ仕事にならないでしょ」(「26」より)
[2008年7月 9日] この日の感想・書評へ→

虚栄
ロバート・B・パーカー著/奥村章子訳
署長がこっちに歩いてきた。背はそれほど高くないが、体つきががっしりしているのも、動作に無理や無駄がないのも、リッチーに似ている。それに、たくましい手をしているのも、物静かな感じがするのも。
「あなたは?」と署長がわたしにたずねた。
「私立探偵のサニー・ランドルです」
署長が笑みを浮かべた。
「ジェッシイ・ストーンだ」(「7」より)
ジェッシイ・ストーンシリーズ最新作「秘められた貌」をきっかけにサニー・ランドルシリーズを一から読み始めて、ようやくジェッシイとサニーの初共演作であるこの「虚栄」へとたどり着いた。どちらも別れた妻や夫に未練があり、精神科医のカウンセリングを受けていて、性的な抑制心が弱いという共通点を持つ似た者同士。確かにくっつけてみれば結構お似合いのカップルである。作者があらかじめサニーとジェッシイの出会いを想定して類似した人物設定にしたのか、各シリーズを書き連ねるうちにふと「そういえばこの二人なら・・・」と閃いたのかは定かでないが、まさか高級ブティックの試着室で二人にS○Xさせるとは思ってもみなかった・・・。
全身を密着させていたので、ジェッシイが静かに笑っているのがわかった。わたしも声を立てずに笑った。ドレスが売れるのを期待して店員が扉の向こうで待っているというのに、わたしは立ったまま鏡に背中を押しつけて腰を動かし、ほかの誰とも分かち合ったことのない親密感を味わいながら、ジェッシイとともに声を殺して笑った。(「47」より)
[2008年6月11日] この日の感想・書評へ→

おそらくは夢を
ロバート・B・パーカー著/石田善彦訳
「この事件から手をひく気はないんだな、マーロウ?」
「これがわたしの仕事なんだ、警部。依頼人は、警察のやらないこと、あるいはやる気のないことをさせるためにわたしを雇う。このまま手をひくようなことをすれば、仕事はあがったりだ。わたしのセールス・ポイントは仕事にしがみつき、最後までやりとげることだ」(「11」より)
原題は「PERCHANCE TO DREAM」。パーカーが、敬愛するチャンドラーの処女長編「大いなる眠り」の続編として1991年に書き上げた、“パーカーによるフィリップ・マーロウ物語”である。その二年前にチャンドラーの遺稿を引き継ぐ形で「プードル・スプリングス物語」(1989)を完成させた著者であったが、世間の評価は思わしくなく(私もかつて読んだが印象に残っていない)、本人にとっても満足のいく作品とならず忸怩たる思いがあったのかも知れない。今回はプロローグに「大いなる眠り」のラストシーンを配するなど、随所に前作の名場面を挿入しながら、今度こそとばかりに“パーカーのマーロウ”をいきいきと活躍させている。こうした作品はえてしてオリジナルの熱心な“信者”からは非難と批判を以て迎えられがちだが、些細なあら探しに与せず素直に受け容れれば、少なくとも私はチャンドラーのマーロウと比べて特段違和感なく楽しむことができた。
「あなたはほんとうに嫌みな人ね、マーロウ」
「おれは私立探偵なんだ、奥さん。前にもいったように。遊びじゃない。これがおれの仕事なんだ。フランクリン街の薄汚いアパートメント、カフェンガ通りの狭苦しいオフィスに似合った人間だ。自分の流儀で金をつかい、なすべきことをして、侮辱されることを許さない。つまらない仕事だが、これがおれの仕事なんだ。あたえられた頭脳と度胸と筋肉をつかって、仕事をする。そして、金を稼ぐ」(「36」より)
[2008年5月17日] この日の感想・書評へ→

束縛/メランコリー・ベイビー
ロバート・B・パーカー著/奥村章子訳
「あんたが危ない目にあうのを黙って見てるわけにはいかないんだ。例の熊に頼んだらどうだ?」
「スパイクのことですか?」
「そうだ」
「自分の手には負えないってことをまだ認めたくないんです。これからもこの仕事を続けていくつもりなら、危ない目にあいそうだからといって、男の人に助けてもらってばかりいるわけにはいかないので」(束縛「52」より)
サニー・ランドルシリーズの第三作と第四作。正直なところ、マッチョな世界を書き続けてきたパーカーが女性探偵を主役に据えるってどうよ?と、本シリーズを敬遠していたファンも少なくないだろう(自分がそうだ)。そしてジェッシイ・ストーンシリーズ「秘められた貌」に登場したサニーに惹かれ、結果的に本シリーズにはまったという人も同数いるだろう(自分がそうだ)。マッチョなパーカーが描く“自立を目指す女性”が、どこまで現実世界で“自立した”女性達の共感を得られるのか疑問だが、強く賢くセクシーでありながら、葛藤しつつも己の限界点で周囲の男性の力に頼るサニーは、男の自尊心を満たす存在としては可愛く魅力的だ。
さらに、スペンサーシリーズで毎度情熱的に主人公と愛を交わしているスーザンが、サニーのかかりつけの精神医というクールな「表」の顔で登場しているのも、著者のファンにとっては心憎い人物配置である。
ドクター・シルヴァマンは、小さな診察券に曜日と時間を書き込んで差し出した。わたしはそれを受け取って、拳銃の入ったバッグにしまった。
「彼と離婚して五年になるんです」とわたしがいった。「その間、おたがいにほかの人と付き合ったこともあるんですよ。なのに、なぜこんなにつらいんですか?」
「その理由を一緒に探って行きましょう」ドクター・シルヴァマンはそういって立ち上がり、わたちを戸口へうながした。(メランコリー・ベイビー「5」より)
[2008年5月14日] この日の感想・書評へ→

家族の名誉/二度目の破滅
ロバート・B・パーカー著/奥村章子訳
「外に出て、倉庫にいた西部のならず者みたいなふたりを監視しててくれないか}と、スパイクがわたしにいった。
「助けてくれ」とモートが叫んだ。
スパイクはモートに顔を近づけてなにやらささやいた。
まるで催眠術をかけられたかのようにモートが抵抗するのをやめた。わたしは事務所を出てドアを閉めた。(二度目の破滅「38」より)
ロバート・B・パーカーによる女性探偵サニー・ランドルシリーズの第一作と第二作。先頃読んだジェッシイ・ストーンシリーズの最新作「秘められた貌」にサニーが登場したことが、このシリーズに興味を持ったきっかけであり、このまま読み進めれば、いずれ第五作の「虚栄」にジェッシイが登場することになる。まんまと作者のマーケティングにはめられた様で悔しい気もするが、まあ仕方がない。
作者自身が離婚の危機を経験したことが各作品に色濃く投影され、サニーもジェッシイもそれぞれが別れた配偶者を忘れられず、未練たっぷりに微妙な男女関係を続ける設定になっている。常にそこでは「自立と束縛」が命題となっており、スペンサーとスーザンも一時はその葛藤が元で距離を置いた(「拡がる輪」「告別」)。ちなみに現実のパーカー夫妻の方は離婚の危機を回避し、同じ家の上階と下階に別れて暮らすという解決方法を見出したことで、現在もその“友好的な家庭内別居”を続けているそうな。
「前にも訊いたはずだけど、おれたちはどうして離婚したんだ?」とリッチーがいった。
「あなたが結婚を理想化しすぎたせいで、現実とのギャップに失望ばかりしたからよ」
「なんだ、やっぱり理由があったんだ」
「でも、別れてからはうまくいってるわ」(二度目の破滅「44」より)
[2008年5月 4日] この日の感想・書評へ→

ダブルプレー
ロバート・B・パーカー 著/菊池光 訳
間もなく秘書がオフィスのドアを開け、グレイのスーツに黒いニット・タイを締めたロビンソンが入ってきた。鋼鉄のバネを原動力にしているような動き方だった。彼は淡褐色ではない、とバークは思った。濃い黒だ。それに、そのことを卑下している様子はない。リッキーが二人を紹介した。
「とにかく、ボディガード向きの体格だ」ロビンソンが言った。(「17」より)
1947年、一人の男がメジャーリーグの歴史を変えた。黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソン。歴代大統領の名前は言えなくても、ジャッキー・ロビンソンの名を知らないアメリカ人はいない、とまで言われる程の人物だ。ドジャースの二塁手として10年間活躍し、新人王、MVP、首位打者、盗塁王を獲得。オールスターにも6度選出された。1972年に心臓病のため53歳の若さで亡くなったが、昨年からはその背番号「42」が、全てのメジャーチームの永久欠番となっている。
さて本作はそのジャッキーがデビューした年に、ボディーガードとして身を挺して彼の命を守った白人ジョゼフ・パークと、ジャッキーとの強い絆と友情を描いたハードボイルドだ。といっても全くの架空の話。設定にも無理がなく、実在の人物であるジャッキーのキャラクターがきっちりとディテールまで描かれているため、リアリティある話として違和感なく楽しめた。
「おれは」ジャッキーがバークに言った、「あんたなしでは、やり通せなかったよ」
「おれもそうだ」バークが言った。
ローレンはなにも言わなかった。バークの肩に頭をもたせかけ、右腕を彼の腕にまわしていた。三人の下のほうでスケーターたちが旋回している間、彼女は左腕をロビンソンの腕にまわした。(「52」より)
[2008年4月28日] この日の感想・書評へ→

秘められた貌/ドリームガール
ロバート・B・パーカー
ジェンが泣き始めた。サニーは、銃をしまい、ジェンが座っているところに行って、椅子の肘に腰をかけ、ジェンの肩に腕を回した。ジェンは、ちょっと向きを変えると、顔をサニーの胸郭に押しつけ、さらに激しく泣いた。サニーが、彼女をそっと叩いた。
「大丈夫よ」彼女が言った。「わたしたち、一緒にちゃんとやっていかれるわ」
ジェッシィは、自分が二人の邪魔をしているような気がした。バーのスツールに座り、黙って空のグラスを手の中で回していた。(秘められた貌「14」より)
パーカーには「スペンサー」「ジェッシイ・ストーン」の両人気シリーズの他に、「女性探偵サニー・ランドル」というシリーズが5作も刊行されている。ただ女探偵という設定に食指がそそられず、今までは読む気になれなかった。そのサニーがジェッシイと恋仲にある女性として、「秘められた貌」にいきなりの登場である。まるでデビルマンの恋人として、突如キューティーハニーが現れた様なものだ。あとがきによると、本書より先に刊行された「サニー・ランドル」シリーズの新作「虚栄」で一足先にジェッシイが登場、二人の間にいろいろあったらしい。おまけにスペンサーの恋人スーザンまでが、サニーのかかりつけの精神科医として登場しているらしいので、そちらのシリーズの方も少し気になってきた。近いうちに読んでみよう。
そして一方の「ドリームガール」。長いマンネリズムの罠にはまっていたスペンサーシリーズも、前回の「スクール・デイズ」から長いスランプを脱した様で、二作続けて中身の濃い、ある意味重い読後感が残る作品となった。
エイプリルはどう反応すべきかわからないようだった。
「彼はふざけてるんだ」私が言った。「中国に侵攻されるのでないかぎり、ホークひとりで充分だ」
「中国相手では充分でないと思ってるのか?」ホークが言った。
私はそっけなく手を振った。
「そのときにはおれの援護が必要になるかもしれない」(ドリームガール「3」より)
[2008年4月22日] この日の感想・書評へ→

訣別の海/スクール・デイズ
ロバート・B・パーカー
「俺は、一度彼に出くわしてないかな?」ジェッシイが言った。「パラダイスで何かの捜査をしているときに?」
「そうだと思うわ」リタが言った。
「彼と、恐ろしい黒人の男がいた」
「あなたは恐ろしいと言うかもしれないけど」リタが言った。「魅力的とも言えるわ」(訣別の海「53」より)
ジェッシイ・ストーンシリーズの5作目とスペンサーシリーズの33作目を立て続けに読破。長年にわたってパーカーの作品を訳してきた菊池光氏が2006年 6月に亡くなられたため、訳者がそれぞれ山本博氏、加賀山卓朗氏に変わった。翻訳の巧拙次第で作品のイメージや世界観はがらりと変わってしまうため、長年続くシリーズを引き継ぐ訳者には、それなりに重圧がかかっていたものと察せられる。各書のあとがきにも「菊池さんの名訳の後を汚さなかったかだけが心配である」(山本)、「半可通なものまねは読者にも氏にも失礼になると考え、ここぞというところ以外は自分の流儀でいくことにした」(加賀山)と、各氏各様の思いが記されていたが、長年読み続けている私にしてみれば、どちらも違和感なく楽しむことができたので、正直ひと安心といったところ。
「救いが必要な人間は何千といる」私は言った。「おれは全員を救うことはできない。それどころか、救おうとした人間の半分も救えない」
「だから偶然にまかせるの?」リタは言った。「誰かに雇われるという偶然に」
「偶然と選択だ」私は言った。「すべてを引き受けるわけではない」
「どうやって決めるの?」リタは言った。
「さあ」私は言った。「これというものは、たいがい見ればわかる」(スクールデイズ「62」より)
[2008年4月19日] この日の感想・書評へ→

邪魅の雫
京極夏彦
「家族や友人と云うのはお気に入りの鞄なんだよ」
関口は能く判らない喩えを反復した。
「もう、片時も手放せない程に好きな鞄なのさ。好きだから、いつも持ち歩いている。使い道もあるから感謝もするさ。でも、どんなに好きな鞄でも、四六時中ずっと持っていれば疲れるだろう。出先から帰ったなら、鞄は置きたくなるだろう」(「15」より)
京極堂シリーズの最新作。とはいえ初版が2006年9月なので一年半遅れだ。短編も含めて全作読破しているファン(?)としては、五年のブランクを経て出された前作「陰摩羅鬼の瑕」(2003年)が少々物足りなかったので、さしもの京極夏彦もそろそろガス欠かと心配していたが、本作で少し盛り返したかなという感じ。読み物として素直に楽しめた。書名の「邪魅の雫」自体が、物語の重要な鍵をまともに表現しているのも初のケースか。
ただ、本シリーズにおける“妖怪”とは常に“人の心に棲み付いた妄念”の象徴であり、毎回その“憑き物”を京極堂が人間離れした博識と長口舌で鮮やかに “落とす”所が見せ場となっていたが、今回は人ではなく、心を持たない「雫」(それも化学的な発明品)が妖怪に見立てられたため、これまでシリーズ全編に漂っていた“妖気”が弱まっていた。そのぶん普通の推理小説っぽくなってしまい、クライマックスの京極堂の演説が、“憑き物落とし”ではなく単なる謎解きに終わった印象がある。
榎木津は余り見せない不可解な表情になって関口を見据えた。
「何をーー云い出すんだ」
「何をって、そりゃ僕はこんなだが、それでも昨日今日の付き合いじゃないだろう。その僕にまで隠し事をすることはないと云っているんだ」
「せ、関口さんーー」
益田は何だか本当に調子が狂ってしまった。
こんな関口は見た事がない。あの関口巽が榎木津と対等に渡り合っているーーように見える。(「27」より)
[2008年4月 4日] この日の感想・書評へ→

湖水に消える・影に潜む
ロバート・B・パーカー著/菊池光訳
「それで、どうしてパラダイスに来ることになったの?」
「おれはロスで警察官をやっていた。アル中ということでクビになった。それに、結婚生活が破綻を来した。それで、ロスからできるだけ離れたところでやり直そう、と考えた」(「湖水に消える」第10章より)
前回のスペンサーシリーズ同様、ジェッシイ・ストーンシリーズも2作続けて読破。スーザン以外の女性に指一本触れない堅物スペンサーとは対照的に、パラダイス警察の署長ストーンの女性遍歴は絶好調。別れた妻といまだにベッドを共にする傍ら、周りに現れる才色兼備の美女達ともあっさり関係を結んでいく。いわばベッドシーンの合間に事件を解決しているかのよう。また古典的な一人称のスペンサーシリーズとは違い、三人称で書かれている分プロットの展開にも広がりを持たせられるため、著者のパーカーもきっと、こちらのシリーズを書いている時の方が楽しいに違いない。スペンサーシリーズと共通の脇役が毎回何人か登場するのも読みどころの一つ。
バアへ持って行って、氷をたくさん入れたスコッチのソーダ割りを作り、カウンターに坐ってちびちび飲んだ。最初の一杯に優るものはない。最初の一杯の気分は、後でトラブルが起きてもかまわないだけの価値がある。酒の感触が体中に広がるのに任せておいた。ますますいい。自分は、感じているほどに孤独でないのが判っていた。(「影に潜む」第58章より)
[2007年9月 6日] この日の感想・書評へ→

背信・冷たい銃声
ロバート・B・パーカー著/菊池光訳
「いずれにしても、彼は見えない」私が言った。「長髪の尾行を終えるまで、彼を見ることはないと思う」
「それで、彼があそこにいると、どうして判るの?」
「そこにいる、と彼が言った」
「でも・・・・・」
「ホークは、そうでないことは絶対に言わない」ヴィニイが言った。(「背信」第50章より)
久々のスペンサーシリーズ。31作目「背信」と32作目「冷たい銃声」を立て続けに読んだ。偉大なるマンネリズムに少しでも刺激を与えるべく、「背信」では初めて経済犯罪をテーマに選び、「冷たい銃声」では不死身の相棒ホークが背中から撃たれ瀕死の重傷を負う、という設定から物語をスタートさせた。かつて 24作目の「悪党」(1997)では、物語の後半でスペンサー自らが撃たれ、リハビリから復帰に至る過程までを克明に描いて見せたが、その時以来の思い切った設定である。そして殺害された依頼人の遺児のため、自らの誇りと生き方を守るため、いつもよりほんの少し饒舌なホークが、スペンサーの手を借りながら冷静に復讐を遂げていく。まさにホークファンのための待望の一冊、といった感じ。
「おれは背中を撃たれるようなことがあってはならないんだ」
「冗談じゃないわ」リタが言った。「あなたはほかの男たちと同じように人間よ。傷付くことがあるわ。殺される可能性があるのよ」
「ほかの男たちと同じであってはならないんだ」
リタはしばらく彼を見ていた。
「驚いたわね」彼女が言った。「あなたであるのは、容易なことでないにちがいない」(「冷たい銃声」第35章より)
[2007年9月 2日] この日の感想・書評へ→

ロング・グッドバイ
レイモンド・チャンドラー著/村上春樹訳
「アルコールは恋に似ている」と彼は言った。「最初のキスは魔法のようだ。二度目で心を通わせる。そして三度目は決まりごとになる。あとはただ相手の服を脱がせるだけだ」
「どこがいけない?」と私は尋ねてみた。(第4章より)
清水俊二訳の「長いお別れ」を過去3度読んだことがあるが、今回の村上春樹バージョン、そして巻末の43ページにもわたる長大な「あとがき」を読んで、初めてこの作品の文学的な味わい方を知ることができたような気がする。「グレート・ギャツビー」との類似点等、素人には思いもよらぬ読み方があるもんだと感心した。プロットを既に知っている人であれば、まず先にこのあとがきをしっかり読み込んだ後に、「マーロウという一対の目を通して眺める世界」を一文一文賞翫することを勧めたい。
ただ、現代に合わせた新訳の割に、清水氏の訳よりも古めかしい表現が随所に用いられているのが気になったのと、1940年代のペーパーバックの表紙を現代風にアレンジしたというチップ・キッドの装丁も、狙い過ぎた揚げ句大幅に外したんじゃないの〜と個人的には思う。
彼は手を伸ばして、サングラスを外した。瞳の色を変えることまではできない。
「ギムレットを飲むには少し早すぎるね」と彼は言った。(第52章より)
[2007年8月15日] この日の感想・書評へ→

鉄の絆
ロバート・ゴダード著/越前敏弥訳
「あなたがどんな命令を受けているかはわかっています。だれに雇われたのかも。理由も知っていますが、おそらくあなたにはーー」
突然、時が尽きた。奇跡の利は失われた。彼は階段から彼女のもとへと一気に駆け寄り、手から懐中電灯をもぎとった。(上巻第一部1より)
二週続きのゴダード。1999年刊行の旧作で、現代を舞台に、1930年代のスペイン内戦を絡ませながら繰り広げられる、ロマンスあり、アクションあり、ミステリーありの佳作。
プロットの面白さもさることながら、登場人物一人ひとりのキャラが立っており、特に後半の鍵を握るフランクという爺さんがGOOD。人間嫌いで扱いにくい偏屈老人だが、内戦時に友を殺した相手への復讐心を胸に秘めつつ、かつて愛した女性からの最後の願い事と、自分自身が定めた規範に従って行動する所がまさにハードボイルド。銃や車の扱いも手慣れたもので、何度も命のやりとりを重ねてきたせいか、ここ一番の腹の据わり方が筋金入りでカッコイイ!のである。
「その男をいますぐ放せ。さもないと撃つ」その瞬間、全員の動きが凍りついた。フランクはつづけた。「こけおどしではない。わたしはこれまで何人も殺してきた。ほとんどがスペイン人だ。あとひとり殺しても痛くもかゆくもない。はっきり言って、殺すのが楽しみだ。ぐずぐずされると、誘惑に勝てなくなる」(下巻第四部19より)
[2006年3月 7日] この日の感想・書評へ→

最期の喝采
ロバート・ゴダード著/加地美知子訳
きょうの午後、列車から降りたときにわたしを襲った感覚は、わたしが予期していたものではなかった。十二月の日曜日に旅をするとなれば、きっとそうにちがいないと思ったとおり、長くて気の滅入る道中だった。(「日曜日」より)
稀代のストーリーテラーと呼ばれるゴダードの、十六作目に当たる邦訳最新作。昔の出来事と今の事件の間にある隠された繋がりを、現在と過去を行き来しながら解き明かす重厚な歴史ミステリを自家薬籠中のものとする著者にしては、これまでにない異色作と言えよう。物語の舞台はイギリスのブライトンという街の中だけ。それも2002年12月のとある8日間という、極めて短い時間の出来事が時系列で描かれている。
周到に練り上げられたプロットの下、過去と現代が絡み合った物語が解き明かされるというゴダードならではの醍醐味は少ないが、その分凝縮されたストーリー展開の面白さが堪能できる作品である。
わたしが崖の縁にたどり着いたとき、二人はまだいっしょだった。わたしはあえぎながらがくっと膝をつき、そのあとの数秒、彼らが落ちていくのを見守った。
彼らは崖の根元にぶつかり、浜辺に転がって離れた。波が彼らをつつみこんだ。そして、真っ赤に泡立ちながら退いていった。(「土曜日」より)[2006年3月 2日] この日の感想・書評へ→

世界の名探偵コレクション10 フィリップ・マーロウ
レイモンド・チャンドラー
「ぼくの名はフィリップ・マーロウ」とわたしはいった。「僕は顔に血がついてるのが好きなんだ。きみはこんな事件にまきぞえにされるのは迷惑にちがいない。ぼくはきみの名なんか、ひとことも出さないよ」
「わたしは孤児よ、一人きりで住んでいるの。そんなお心づかいはぜんぜん必要ないわ」と、彼女はいった。(「碧い玉2 お客をしくじる」より)
チャンドラーがフィリップ・マーロウを初登場させた「大いなる眠り」で長編デビューする前の、1930年代半ば頃の作品を3点集めた中編集。本書収録作を含めたこの時期の中編においては、主人公の探偵の名はジョン・マロリー、ジョン・ダルマス、カーマディなどとなっていたが、後日刊行された随想集で作者自身が「これらはみなマーロウの若き日を描いたもの」と述べているため、そうした趣旨での編集となっている。正直ストーリー展開は少々分かりづらく、かつご都合主義的。血なまぐさいアクションも多く、マーロウもまだまだ“若い”せいか、お得意の気の利いたセリフも出ない。
「事件はぼくがもちこんだんです」と、わたしはいった。「つまり、その一部をね。あとはひとりでに発展しちまったんです。イザベル・スネアという娘がサン・アンジェロの自宅をとびだしたきり行方がしれず、最近になって、彼女の飼い犬のすがたをここで見かけたものがいるんです。ぼくは犬を発見したんですが、その犬を連れていた連中が、ぼくの口を封じるために一騒動おこしましてね」(「犬が好きだった男 6」より)
[2006年2月18日] この日の感想・書評へ→

日輪の果て
ロバート・ゴダード著/成川裕子訳
「じゃあ、誰が電話したんだ?」
「わからない。そのことは、ディヴィッドとわたししか知らないのよ、ハリー。問題はそこなの」
「知らないっていうのは、ぼくがディヴィッドの父親だってことをか?」
長い沈黙があったが、ハリーは断固として口を開かなかった。やがて、アイリスが言った。「そう」 (上巻/第4章より)
「蒼穹のかなたへ」の主人公、くたびれた中年男のハリー・バーネットを再度主人公に据えた作品。といっても続編ではなく、作品自体に何のつながりもないし、前作を読もうが読むまいが作品鑑賞には全く影響はない。
そして残念ながら、面白さや作品の質、レベルは前作より格段に落ちる。コダードならではの重厚で、精緻で、凝りに凝ったいつもの作風とは違い、設定もプロットも結論も、全てにおいて「・・・・」といった感じ。同じ作家の、同じ主人公を据えた作品とは思えない程の落差を感じた。期待が大きい分だけ、外した時の落胆は大きい。
ハリーはそこに長いこと坐り、ビールをすすり、煙草を吸いながら、不毛に羅列された文字を見つめていた。これらは何を意味するのだろう。いったい、結局はどういうことになるのだろう。ハリーは煙草の煙を見、暗闇を見、まわりのほのぐらい明かりを見た。窓に映った自分の顔を、背後のバーで動いている人々を見た。見て、見て、なおも見たが、何も見えてはこなかった。(下巻/第58章より)
[2005年8月 1日] この日の感想・書評へ→

Cの福音
楡周平著
喉の奥で、粘液と息がわずかに混じり合う濁った音が聞こえた。
恭介は男の腹部に深く突き刺さったナイフのグリップをあらためて握り直すと、それを時計まわりに、刃が九時の方向を向くまで捻った。
まるで蛙を踏み潰したかのような肉と血が入り交じった音を腹の底から発すると、男はその場に崩れ落ち、動かなくなった。(第2章「CADETー息子」より)
古本屋の100円コーナーで見かけて、前々から何となく評判の良さを耳にしていたので購入した。冷静沈着な悪のヒーローが主役ということで、勝手に高い期待を持って読み始めたのだが、手の込んだコカインの密輸方法に「まあ、よく考えたもんだ・・・」と感じた以外は、特に見るべきものはなし。微妙にイケてないレトリックと心理描写、悪党のくせに妙に好青年っぽい主人公の台詞回しが、読んでて違和感を感じた。小説的技巧は無しにして、ストーリー展開だけで読者をぐいぐい引っ張ってくれた方が潔かったかも。
第二作以降も100円コーナーで売られていたが、何となく食指は進まず。まあ今の若い世代の読者にとっては、ハードボイルドの文章に格調など求めないのだろうなあ。
黒いシルエットはすべて消え、それに代わって五つの黒い物体が床に転がっているのが分かった。恭介は周囲を窺った。この男たちの仲間がまだ闇の中に潜んでいるかも知れないと思ったからである。
気配はなかった。
運河の水面に消えてゆく雨の音だけが、静かに恭介を包んだ。(第8章「COMBATー戦闘」より)
[2005年3月 2日] この日の感想・書評へ→

緋色の記憶
トマス・H・クック著/鴻巣友季子訳
父は深く考えこみ、ほかにいうべき言葉を探しているようだった。「人生とはままならぬものだ、ヘンリー」父はいたくおごそかな目でわたしを見て、ようやく言った。「せいぜい真心を交わすしかないこともある」(第四部第22章より)
1997年アメリカ探偵作家クラブ賞・最優秀長編賞受賞作。家庭を持つことを拒んで老境を迎えた主人公が、少年期に図らずも関わりを持ってしまい、結果的に人生の重荷を背負うに至った“ある事件”を回想しながら、徐々にその謎(というより悲劇が起きた真の原因)が明らかになるというスタイル。
厳格な父親に敷かれた平坦な人生のレールへの反発、将来への漠たる希望と閉塞感、年上の美しい女性への憧憬等、本格ミステリーというよりは、ミステリー的要素を軸にした暗い青春文学という感じ。
なお原題は「Chatham School Affair」(直訳すると「チャタム校での出来事」)。思い切って「緋色の記憶」と邦題を付けた点に、翻訳者の力量とプロとしての矜持を感じる。
憧れてやまなかったチャニングの文言ーー“人生は愚に瀕してこそ、このうえなくうるわしい”ーーがふいに思い出された。これまでいかに軽はずみで浅はかな嘘を数々耳にしてきたにせよ、この言葉ほど罪深く、人を破滅にみちびく邪意にみちたものはない。そんな気がした。(第五部第30章より)
[2005年2月17日] この日の感想・書評へ→

陰摩羅鬼の瑕・百器徒然袋 風
京極夏彦
お会い出来て光栄ですと云って、京極堂は折り目正しく礼をした。伯爵は明らかに戸惑い、それから頭をお上げくださいと云った。
「貴方はーー」
「僕は憑物落としの拝み屋ですーーと、京極堂は低く通る声で言った。(陰摩羅鬼の瑕「12」)
出張続きで、分厚い京極堂シリーズを読むには絶好の状況だったため、2作を連続読破。「陰摩羅鬼の瑕」はシリーズ本編の最新作で、例によって役に立たない蘊蓄のオンパレード。今回は儒教と林羅山の話題がたっぷり語られている。ストーリーはシリーズ中で最もシンプルだが、読後感は軽くない。但し論理的にこいつ以外に殺人は犯せない、という登場人物が結局犯人なので、ミステリーとしてはちょっと・・・。謎解きは二の次、純粋に登場人物たちの活躍に浸りつつ、分厚い頁を読破する快感に浸るのが正しい愉しみ方だ。「百器ー」の方は短編3つによるシリーズ番外編。最後の最後に人間味ある榎さんの“本性”と、それを十分理解している京極堂のセリフが興味深い。
なおこの7月に、シリーズ第一作の「姑獲鳥の夏」が、中禅寺秋彦(京極堂)ー堤真一、榎木津礼二郎ー阿部寛、関口巽ー永瀬正敏etc.の配役で映画化される。まさに“掟破りの”ミステリーがどう映像化されるのか、こちらも楽しみだ。
探偵ーー榎木津礼二郎。
眉目秀麗にして腕力最強。上流にして高学歴。破天荒にして非常識。豪放磊落にして天衣無縫。世の中の常識が十割通じない、怖いものなどひとつもない、他人の名前を覚えない、他人を見たら下僕と思うーー調査も操作も推理もしない、天下無敵の薔薇十字探偵。
彼への賛辞ーー悪罵ではないーーは、枚挙に暇がない。(百器徒然袋 風「2」)
[2005年1月23日] この日の感想・書評へ→

理由
宮部みゆき
磁石が砂鉄を集めるように、「事件」は多くの人びとを吸い寄せる。爆心地にいる被害者と加害者を除く、周囲の人びとすべてーーそれぞれの家族、友人知人、近隣の住人、学校や会社などの同僚、さらには目撃者、警察から聞き込みを受けた人びと、事件現場に出入りしていた集金人、新聞配達、出前持ちーー数え上げれば、ひとつの事件にいかに大勢の人びとが関わっているのか、今さらのように驚かされるほどだ。(3「片倉ハウス」より)
昨年のGWに大林宣彦監督によるWOWOWオリジナルムービーとしてTV放映された後、昨年末に映画としてロードショー公開されたらしい。「荒川区・一家四人殺し」を描いたノンフィクション形式ではあるが、事件自体は架空のもの。但し虚構でありながら、30人以上にわたる老若男女の生き様や会話をリアルに描き出す筆力には誠に畏れ入るばかり。
ただ個人的には、極めて巧く書き込まれたノンフィクション“風”の小説であるからこそ、読んでる最中にふと「でもこれって、実際の事件じゃないんよね・・」と、何度か白けた気分にさせられたのは否めない。まあ、優れた力量を持つ売れっ子の“小説家”だからこそ成り立つ方法論なのかな。
砂川信夫以外の三人、生身の三人の身元が不明のままである一方で、「一家四人殺し」をどうにかして自分の人生のなかのトピックとして残そうとする大勢の実在の人間の試みが、無数の根拠のない「記憶」を生み、「今になってみればあのときのあれはー」という推測を生み、「そういえばあのとき見たあの人はー」という追想を呼ぶ。こうして幽霊が歩き回ることになる。(16「不在の人びと」より)
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クリスマスのフロスト
R.D.ウィングフィールド著/芹澤 恵訳
「わかるんじゃない。感じるんだよ」
クライヴは鼻を鳴らした。「お得意の直感ってやつですか?」
「そうさ、坊や。おれのお得意の、根拠もへったくれもない直感だよ・・・」(「火曜日3」より)
何かの書評で少し前に紹介されていたので気にかかっていたところ、復活書房で3作まとめて480円だったので即座に購入した。「クリスマスのフロスト」「フロスト日和」と一気に読破し、只今「夜のフロスト」を読んでいる最中である。
刑事コロンボを下品で、お喋りで、分裂症にしたような、冴えないが味のあるジャック・フロスト警部が主人公。そして脇を固める登場人物が揃いも揃って俗物ばかり、カッコいい登場人物が一人もいないのが妙にリアルだ。
複数の事件が時間差攻撃のように次々と発生し、それを刑事が追いかけていく小説をモジュラー型警察小説と呼ぶらしいが、輻輳する物語に混乱させられることなくスムーズに読み進められるのは、現役の脚本家でもある著者の力量がなせる技だろうか。本国イギリスではTVドラマ化される程の人気で、日本語の字幕入DVDも出ているようなので、機会があれば見てみたい。
フロストは吸いかけの煙草を車の灰皿で揉み消し、天井を見上げた。「でもって、何を言いたいかというとだ、おれがへまをするのは、女房の死を悼んで悲しみにくれてるからじゃないってことだ。おれは生まれつきへまな人間で、このへまさ加減は死んでも直りそうにないってことだ」(「水曜日4」より)
[2004年12月 4日] この日の感想・書評へ→

大いなる眠り
レイモンド・チャンドラー著/双葉十三郎訳
「急ぐことはないさ。これは前からきまっていたことなんだ。ラジオのプロみたいに一秒間の狂いもなくけいこしてあったことなんだ。急がないでいい。キスしてくれ。銀髪(シルヴァ・ウイグ)」 私の口の舌にある彼女の顔は氷みたいだった。両手をあげ、私の頭を抱くと、くちびるに、彼女は接吻した。くちびるも、氷みたいだった。(第28章より)
「長いお別れ」に続くチャンドラーの再読であるが、こちらは1939年に書かれた記念すべき長編第一作。作中でマーロウはまだ三十三歳と若い。そのせいか、口にするセリフも心なしか含蓄が少なく、ストーリー自体もインパクトが少ない。仮に今、何の予備知識もなくこの作品で初めてチャンドラーと出会ったとすれば、以後の作品に手が伸びなかったかもしれないなあ。
ちなみに本作はハンフリー・ボガート主演で映画化されているが、邦題はなぜか「三つ数えろ」(このタイトルはあんまりでしょう・・・)。機会があれば観てみたいが、ストーリーは原作とかなり違うらしい。
死んだあと、どこへ埋められようと、当人の知ったことではない。きたない溜桶の中だろうと、高い丘の上の大理石の塔の中だろうと、当人は気づかない。君は死んでしまった。大いなる眠りをむさぼっているのだ。そんなことでわずらわされるわけがない。油でも水でも、君にとっては空気や風と同じことだ。君はただ、大いなる眠りをむさぼるのだ。(第32章より)
[2004年11月15日] この日の感想・書評へ→

長いお別れ
レイモンド・チャンドラー著/清水俊二訳
「ぼくは店をあけたばかりのバーが好きなんだ。店の中の空気がまだきれいで、冷たくて、何もかもぴかぴかに光っていて、バーテンが鏡に向かって、ネクタイがまがっていないか、髪が乱れていないかを確かめている。酒のびんがきれいにならび、グラスが美しく光って、客を待っているバーテンがその晩の最初の一杯をふって、きれいなマットの上におき、折りたたんだ小さなナプキンをそえる。それをゆっくり味わう。静かなバーでの最初の静かな一杯-こんなすばらしいものはないぜ」(第4章より)
しばらくぶりにチャンドラー畢生の傑作と呼ばれる本書を読み返した。初めて読んだのは20代前半の頃。当時、バーへ行けば必ずギムレットを注文したものだった。CAMELを吸い始めたのも、バーボンを飲み始めたのも、すべては主人公フィリップマーロウがきっかけ。
ただ今回は、自分自身がマーロウと同い年になった分、これほど味わい深いセリフが多い本だったのかと改めて気づかされた。日常生活でうっかり使えば鳥肌が立ちそうな気障な言葉が多いものの、それがまた、ハードボイルド小説を読む魅力の一つでもある。
ちなみに本書でのギムレットのレシピは、
「ジンとローズのライム・ジュースを半分ずつ、ほかには何も入れない」ということになっているが、この通りに作るとかなり甘めのギムレットになるらしい。今度行きつけのバーで試してみようか。
彼は手を顔にあげて、色眼鏡をはずした。人間の眼の色はだれにも変えることができない。
「ギムレットにはまだ早すぎるね」と、彼はいった。(第52章より)
*レイモンド・チャンドラーのその他の本:「大いなる眠り」
[2004年11月 2日] この日の感想・書評へ→

闇に浮かぶ絵
ロバート・ゴダード著/加地美知子訳
予想だにしなかった状況のなかに投げこまれたウィリアム・トレンチャードが、あの外見上はなんら異常のなかったセント・ジョンズ・ウッドの日曜の午後に端を発した事件について、手記を書きはじめたのはそれから六週間後だった。そうした手記を書いた理由は、それによって真実を暴露できると信じたからであり、それと同時に、彼自身書かずにはいられない気持ちに駆りたてられたからだった。(第一章より)
つい先日東京から大阪へ戻る途中、新幹線が台風の影響で立ち往生し、約9時間半にわたって缶詰にされてしまった。ニュース等で何度も見聞きしていた他人事の災難が、とうとう自らに降りかかってきたわけだ。
もう二度とこんな目には遭いたくないが、唯一良かったことと言えば、じっくりとこの上下巻の長編が読み通せたこと。これまでの人生で最大の繁忙期を過ごしている昨今を考えると、仕事ができないあの軟禁状態はある意味天恵だったかも知れない。
さて内容は、19世紀のロンドンを舞台に、自殺したはずの准男爵家の跡継ぎが11年の時を経て戻ってきた・・・。ゴダードならではの卓越したプロットが冴えわたる、ゴシック・ミステリーの傑作である。ただ個人的感想としては、この前読んだ「千尋の闇」の方が上かな。
彼の言ったとおりだった。彼のせいですべてを失った。私が失うものはもう何も残っていなかった。その同じ瞬間に、私たちはたがいに相手の心を読んだにちがいない。彼が私のほうへ足を踏みだすと同時に、私が引きがねを引いていたから。(第十一章より)
[2004年10月23日] この日の感想・書評へ→

千尋の闇
ロバート・ゴダード著/幸田敦子訳
わたしにはできそうにない。正解のない学問に馴らされ、雇われて他人のために働き、みずから行動したことのないわたしには。しかしそれは、思考以前の、まさに刹那の行動だった。とうのむかしにこの世を去ったまだ見ぬ真の友のため、生涯この一度きり、だが二度と覆されることなく、わたしは形勢を逆転させた。(下巻「第9章」より)
ゴダードは、二月に読んだ「蒼穹のかなたへ」以来2冊目。読み出すと頁を捲るのも待ちきれない程で、まさにやめられない止まらない状態。そう言えば、かつてスコット・トゥローの「推定無罪」を読んだ時もこんな感じだったよなあ、なんて思い出す。それにしても、これほどに重厚な面白さを持つ小説がデビュー作とは、ただ驚くばかりである。
「蒼穹のかなたへ」同様、本作もどこか敗残者の影を帯びた主人公が、謎に導かれ、また翻弄されながらより大きな謎を呼び起こし、結果的に自らの人生を購っていく物語。過去と現在の二重構造となった複雑なプロットながら、読み手を混乱させず一気に結末まで引き込む筆力はさすがと言うしかない。こりゃ、他の作品も読まねば・・・。
まずは、この本を閉じねばならない。あなたとわたしのこの本を閉じ、それとともに、時を越えた知己たちの世界をも閉じねばならない。外では、夕闇が手招きしている。あのなかへ踏み込んでゆくことは、冒険であるにちがいない。あなたならどうするだろう?いや、答える必要はない。もはや、決めるのはわたしだ。(下巻「第10章」より)
[2004年9月15日] この日の感想・書評へ→

忍び寄る牙
ロバート・B・パーカー著/菊池 光訳
「いちばん楽しみを味わえるのは酔う前だ。最初に一杯を飲み、まだあとがあるとはっきり判っている時は、今の自分の生活に感謝の念を抱く。二杯目を飲み終わった後は魔術が消えて、やがて常用癖になる。」(第14章より)
スペンサーシリーズでおなじみロバート・B・パーカーが生んだ新シリーズの第2作。全くの個人的想像だが、私立探偵というアウトローでありながら、己の規範に厳しく、恋人スーザン以外とは頑なに関係を持たず、肉体を鍛えるのが趣味のマッチョなスペンサーを描き続けるのに、パーカー自身が少々息苦しさを覚えているのではないだろうか。その点本シリーズの主人公ジェッシイは、警察署長という社会的要職にありながら元来アルコール依存症で、別れた妻ジェンに未練たっぷりで家の前で見張ったり、それでいて周りにいる複数の女性とあっさり関係を持ってしまう様な、私生活面では少々ユルめの男。まさにスペンサーのアンチテーゼ的存在と言える。
但しいざ職務を果たす段になると、スペンサー同様絶対に妥協はせず、信念と誇りを持って事に当たるタフガイとなる。パーカーの作風に惹かれる読者の嗜好は、この点では決して裏切られることはない。
そしてスペンサーシリーズにおけるホークのように、凄みのある悪党クロウがハードボイルドないい味を出している。ぜひ次作以降でも登場してほしいものだ。
「おれが立派にこなせる職は一つしかなくて、これがそれだ。この仕事をやっていなかったら、おれはいったい何なんだ?酒の問題を抱えていて、結婚をまともに解決できない男に過ぎない」(第37章より)
[2004年4月18日] この日の感想・書評へ→

蒼穹のかなたへ
ロバート・ゴダード著/加地美知子訳
「自分が曲がりなりにも真実への道をたどっているのはたしかであり、とことん追求せずにはいられない頑固な性格からしても、自分はけっしてこれを途中で投げだしたりはしないだろう。」(上巻第12章より)
いろんな書評を通じて「ゴダードはいい」とインプットされていたが、複雑なプロットや重厚なトーンの物語を読み進むだけのココロの余裕がなく、気にはなりつつも遠巻きに背表紙を眺めていた。今回手に取る気になったのは、出張の移動で6~7時間のヒマが見込めたから。これだけあれば上下巻とも一気に読み切れるだろうと・・・。
半ば世捨て人的心境にあった一人の中年男が、己の意地をかけて一人の女性の失踪の謎を追っていくうちに、人生の偶然と皮肉に気付かされていくお話。ハードボイルドにありがちなテーマではあるが、謎解きそのものよりは事件を巡る因果が、結果的に最大の読みどころとなった。
ふむ。確かに巧い、面白い。が、一応他の作品も読んでみて様子を見ることにしよっと。
「・・・今度の件ではわたしたちみんながなんらかのかたちで、裏切り行為に屈従するか誘いこまれるか巻きこまれるかして、結局は誰ひとりそれで利益をえなかった。きみの言ったとおりだ。わたしたちはみんな、当然の報いを受けたんだよ」 「だから?」 「だからその痛手のごくわずかでも埋め合わせたいんだ、めちゃめちゃになったなかから救いだせるものがあるのなら」 「それがわたしを助けること?」 「そうだ」(下巻第65章より)
[2004年2月12日] この日の感想・書評へ→

真相
ロバート・B・パーカー著/菊池光訳
「『おれがお前の頭を殴ることにしたら、ここにいる誰かがお前を助けてくれる、と思うか?』・・・(中略) 『答えは二つ』私がマッキャンに言った。『一つ、おれは手助けを必要としない。そして、二つ、彼が助ける』 私はホークのほうへ首を倒した。マッキャンが目をホークに向けた。 『そうするのか?』 『答えは二つ。』ホークが言った。『一つ、おれは助ける。そして、二つ、おれが助ける必要はない』」(第12章より)
スペンサーシリーズの節目となる三十作目であり、作者パーカーにとって作家生活三十周年を飾る作品でもある。新刊が出るたびにありがたくも貸して下さる知人のおかげで全作を読破しているが、初期の作品以外はタイトルと内容が結び付かない、というかよく覚えてない。でも、これでいいのだ。年に1回おなじみのメンバーにお目にかかれればそれでオッケ~である。
さて今回は、パーカーの別シリーズで主役を張るジェッシィ・ストーンがゲスト出演(?)しているのが、ちょいとしたアクセント。まあ、「水戸黄門」に「遠山の金さん」が友情出演したけど、主役に気兼ねして諸肌までは脱がなかったゾって感じ。
「この仕事は時には人助けになる。しかし、今回は誰の助けになっているのだ?・・・(中略)・・・この仕事をやっているのは、自分にできるからだ。それに、ことによると、ほかの仕事はなにもできないからかもしれない。もともと自分は、人の下で働くのは得意ではなかった。少なくとも、この仕事で、自分の思いのままに生きてゆくことができる。」(第56章より)
[2004年1月12日] この日の感想・書評へ→

笑う未亡人
ロバート・B・パーカー著/菊池光訳
「私はヘヴィ・バッグに寄り掛かって、ホークがスピード・バッグを打つのを見ていた。彼の顔は無表情で、いつものように面白がっているような感じがかすかに浮かんでいた。片手でバッグを打ち、次に両手で打った。肘を使った。筋肉が完全にほぐれていて、バッグの音楽と動きに楽しく集中しているようだった。」(第20章/p.105)
探偵スペンサーシリーズも、1973年に発表された「ゴッドウルフの行方」からこれで通算29作目。ありがたいことに以前勤めていた会社の先輩が、新作が出るたびに回してくれるおかげで全作読み通している。ただ近頃はストーリーへの興味というより、年に1回旧友に会うような気分でこのシリーズと接している感じだ。
特に魅力的なのが相棒のホーク。男なら、主人公のスペンサーより彼に魅かれるファンのほうが多いだろう。顔色一つ変えずに頼まれた仕事を確実にこなす姿は今回も健在である。
さて、今夏には記念すべき30作目が刊行されるはずのこのシリーズ、スペンサーは、スーザンは、そしてホークはいったいいくつになったんだ?(→第30作「真相」へ)
[2003年5月11日] この日の感想・書評へ→



分身
東野圭吾
北海道と東京を舞台に、それぞれの母の死をきっかけに、自らの出生の秘密を探ることになった瓜二つの“他人”、鞠子と双葉。不可解な出来事や危機が迫る中、禁断の医療技術と20年前の愛憎劇が浮き彫りになっていく…。医学技術の進歩が直面する「法」や「倫理観」との摩擦をテーマにした1993年の旧作で、長澤まさみ主演による今年2月のTVドラマ化が先頃発表されている。真に迫るリアリティには欠けるが、古さを感じさせないテンポの良い展開に惹かれ、 4時間で読み終えてしまった。
クローン技術は、両性の関わりなしに子を生み出すことを理論上可能にしたが、そのことは新たに、生殖における両性の存在意義や人間の尊厳、家族観への影響 etc.生命倫理上の問題を提起した。クローン羊「ドリー」の誕生が世界中で話題になったのは、本作発表の3年後に当たる1996年のこと。15年後の今年4月には、ヒト遺伝子を移植し、成牛になれば「人間の母乳と同様の乳を出すようになる」クローン乳牛がアルゼンチンで誕生した。思えば本作は、そうした一連の流れをいち早く先取りした科学サスペンスと言えるかも知れない。
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[2012年1月 5日] この日の感想・書評へ→