文学/娯楽小説
日輪の遺産
浅田次郎
「知っておるかね。ダグラス・マッカーサーは親子二代にわたるフィリピンの軍事総督だ。実質的支配者といえる。二千億円の金塊は、マッカーサーが父の代から、フィリピン独立のために蓄えた財宝だった。山下将軍はマラカニアン宮殿の地下からそれを掘り出して、日本に送った。それが正解だ」
参謀総長の言葉は簡潔で、明晰だった。小泉はメガネをはずすと、軍衣の袖で瞼を拭った。 「なぜ、そんなことを」 「そんなこと?…役人には考えが及ばぬかね。もっとも君らがそこまで考える必要はあるまい。話は以上だ」(「3」より)
敗戦直前、軍の密令でマッカーサーの財宝を移送、隠匿した将校たちと20人の少女がたどる哀しい運命を描いた歴史ファンタジー。90年代前半にユーモア溢れる「プリズンホテル」「きんぴか」で人気作家の仲間入りをした著者は、本作を上梓したことで作家としての新たな境地を切り開くことになる。そして文庫版あとがきで著者自身が「若書き」と述べているように、シリアスな内容にも関わらず軽妙な表現が顔をのぞかせたり、「天切り松」や「壬生義士伝」に代表される、情景が眼前に立ち上る程の文章の緻密さ・美しさはまだ感じられないが、読み始めると止まらないストーリーテリングの才は、本作の時点で既に十分発揮されている。
似たような話は「M資金」「山下財宝」といった形で都市伝説として語られ、実際にも複数の財界人が詐欺に遭っているが、本作はまさにその都市伝説を補う外伝のようで、妙なリアリティを覚えてしまった。
「わかるか、エビさん。マッカーサーの財宝はいったんここに収納された。やつらはそれを山分けしたんだ。軍はそれをとっとと山に隠した。ところが作業能力のない官庁はどうすることもできずに敗戦を迎え、占領軍に見つかっちまった。どうだ、この推理は。ありうるだろう」
すべては闇の中であった。しかし、丹羽の推理は手帳の記述とどこも矛盾しない。彼は手さぐりで、少なくとも十分に説得力のある彼なりの結論を引き出したにちがいない。 「あるぞ、二百兆円は、あの山の中に埋まっている」(「17」より)
[2011年11月18日] この日の感想・書評へ→
犬
中勘助
聖者は悪夢から醒めたように我に返ってほっと息をついた。彼が毎夜ひそかに貪り見た女の肉体は今その上半を露出して膝の前に横わっている。彼は猿みたいな顔になってわくわくしながらその一個処から他の個処へと目をうつした。
「おお、このちち」
その絹のような肉の袋は迸り出ようとする生気ではちきれそうに張っている。彼はそのひとつをふっくらと掴んでみた。それは大きな手にあまってぶくぶくとはみだそうとする。いかにも女らしい肉と脂の感じである。(「犬」より)
お目当てだった「銀の匙」を読み終えた後、せっかくなので文庫本の残りの短編も読んでみたが、その中で「犬」という作品には何とも言いがたい衝撃を受けた。印度の町外れの森で苦行に勤しむバラモン僧が、異教徒に犯され子供を身ごもった若い娘に執心した末陵辱し、その揚句に自分共々犬の姿に変身させ淫欲を満たすというおぞましい話。特に後半は畜生道に落ちた僧犬が、娘犬に心理的圧迫を加えながら愛欲に耽る様が綴られるが、なまじ非凡な文才を持っている作者だけに、性的描写の丹念さと執拗さは相当なものである。
大正11年に発表された際、掲載誌「思想」は発禁となり、その2年後に単行本として岩波書店から出版された時も、伏字が四千字を大きく超えたとのこと。読み手を郷愁の世界へと引き込む「銀の匙」と同じ作者とは到底思えない、幻想的な狂気とエロティシズムの匂いを放つ妖しい名作である。
彼女はきゃんきゃんと、悲鳴をあげた。口から泡をふいた。神意によって結ばれた夫婦の交わりは邪教徒の陵辱よりも遥に醜悪、残酷、かつ狂暴であった。……僧犬はやっと背中からおりた。彼女はほっとした。が、その時彼女の尻は汚らしい肉鎖によって無慙に彼の尻と繋がれていた。彼女は自分の腹の中に僧犬の醜い肉の一部のあることを感じた。それは内蔵に烙鉄をあてるように感じられた。彼女は吐きそうな気になった。(「犬」より)
[2011年10月29日] この日の感想・書評へ→
銀の匙
中勘助
ある晩私たちは肘かけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたっていた。そのときなにげなく窓から垂れている自分の腕をみたところ、我ながら見とれるほどに美しく、透きとおるように蒼白く見えた。それはお月様のほんの一時のいたずらであったが、もしこれがほんとならば、と頼もしいような気がして 「こら。こんなに綺麗にみえる」
といってお恵ちゃんのまえへ腕をだした。
「まあ」
そういいながら恋人は袖をまくって
「あたしだって」
といって見せた。しなやかな腕が蝋石みたいにみえる。二人はそれを不思議がって二の腕から脛、脛から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけていた。(前編四十八より)
ついひと月程前のことであろうか。全国有数の進学校である灘中に、教科書を使わず「銀の匙」の文庫本1冊だけを3年間熟読させ、生徒の国語力を飛躍的に伸ばした「伝説の国語教師」がいたとの記事を読んだ。「生涯心の糧となる様な教材で授業がしたい」というのがその元教諭・橋本武氏の想いだったそうだが、授業内容への興味もさる事ながら、かの文豪・夏目漱石が「文章が格別にきれいで細かい、文章に音楽的ともいうべき妙なる響きがある」と絶賛した「銀の匙」とは、一体どのような小説なのだろうかと無性に読んでみたくなった。
物語は大人になった「私」が、茶箪笥の引き出しから銀の小匙を見つけ、幼少の頃の思い出を回想する形で始まり、淡い恋心を抱いた友人の姉との別れで終わる、著者・中勘助の自伝風小説である。3年間には遥かに及ばないが、たっぷりと週末の2日間を費やして一語一語熟読した。100年近くも前に書かれたとは思えない、瑞々しい描写と季節感あふれる情景の連続である。見も知らぬ遥か昔の街並や自然が、幼なじみと遊んだ夕暮れ時の景色が、草花の匂いと共に眼前に立ち上ってくる様な気がした。声に出して読みたい衝動に駆られた文章など久々かも知れない。時を超えて読み継がれてほしい作品。
そこにはお手づくりの豆腐がふるえて、まっ白なはだに模様の藍がしみそうにみえる。姉様は柚子をおろしてくださる。浅い緑色の粉をほろほろとふりかけて、とろけそうなのを と とつゆにひたすと、濃い海老色がさっとかかる。それをそうっと舌にのせる。しずかな柚子の馨、きつい醤油の味、つめたく滑っこいはだざわりがする。それをころころと二三度ころがすうちにかすかな澱粉性の味をのこして溶けてしまう。他の皿にはませこけた小鯵が尻尾をならべてはねかえっている。ぜんごのあとが栗色に、背なかは青く、原野ほうはきらきらと光って、この魚に特有の温かい匂がする。よくしまった肉をもっさりとむしって汁にひたしてくえばこっとりした味が出る。(後編二十二より)
[2011年10月21日] この日の感想・書評へ→

沙高樓綺譚
浅田次郎
「沙高樓にようこそ。今宵もみなさまがご自分の名誉のために、また、ひとつしかないお命のために、あるいは世界の平和と秩序のためにけっして口になさることのできなかった貴重なご経験を、心ゆくまでお話し下さいまし。いつもどおり、前もってお断りしておきます—お話しになられる方は、誇張や飾りを申されますな。お聞きになった方は、夢に他言なさいますな。あるべきようを語り、巌のように胸に蔵うことが、この会合の掟なのです—」(「小鍛冶」より)
東京都内の、とある高層マンションの最上階。謎めいた女装の主人が主宰する秘密クラブ「沙高糧」に、各界で成功を収めた人々が集い、互いに誰にも話せない秘密の話を嘘偽りなく打ち明け合う…という設定の連作短編集。いわば現代の「百物語」である。各短編では日本刀の鑑定人、精神科医、映画カメラマン、庭師、ヤクザの大親分が語り手として登場。それぞれの話の中から浮かび上がってくる人間の怖さ、哀しさ、切なさ、心に潜む深い闇が読み手の胸に染み入ってくる。
またそれぞれの「語り」の面白さもさることながら、本作の巧さは全編に一本の芯を通すべく、たまたま沙高樓に招かれた一人の男の視点で話を展開した所にある。彼が感じる戸惑い、疑問は読み手のそれと等価であり、まるで自分もその現実離れした空間で、聴衆と共に話を聞いているような臨場感を与えてくれる。毎度のことながら、著者の引き出しの多さと職人芸の巧みさに感服させられた一冊。
「相手に不足はないはずやで。新選組局長近藤勇—」
えっ、と叫んで新兵衛は顔を上げた。自分の役回りの重要さをとっさに理解したのだろう、青黒いドーランを塗った顔はみるみる闘志に満ちた。
「拙者、身分こそ武士とは名ばかりの軽輩ではござるが、腕には多少覚えがあり申す。近藤勇と聞けばまこと相手にとって不足はござらぬ。尋常の立ち合いとあらば、必ずや打ち果たしてごらんに入れましょうぞ」(「立花新兵衛只今罷越候)
[2011年6月20日] この日の感想・書評へ→
球体の蛇
道尾秀介
—この雪だるま、可哀想だよね—
私の感想とはまったく違うことを、サヨは静かな声で言った。 —ずっと硝子の中にいなきゃいけないんだもんね—
スノードームの中を見つめているサヨの目は、どこか極端に遠い場所を見ているように、うっすらと靄がかかっていた。(「四」より)
幼少期に忘れえぬ体験をしたことで、心中に重石を抱えて生きている一人の男を主人公に据えた長編小説。語るべき言葉や真実を腹の中に抱え続けた末に人生を歪にしてしまったイメージを、自分よりも大きな生き物を丸飲みして醜く変形した「球体の蛇」になぞらえている(と思う)。
ミステリーの薫りが全編に漂ってはいるものの、主人公の心情や苦悩、若さ故の残酷さ、切なさ、虚無感を丹念に描いているという意味では純文学的な作品。「カラスの親指」の様なインパクトや面白さには欠けるが、後々になってじんわりと心の襞に染み入ってくる。
誰かが火を放って逃げたのか。
あの人がやったのかもしれない。—そんな思いが、胸の中で黒い頭をもたげはじめていた。あの人は家に火を放ち、白い自転車に乗って逃げ出した。そして漁港近くの露地に立ち、そっと事の成り行きを見守っていた。私が見たのは、そのときの彼女の姿だった。 私は何度もその考えを否定した。(「十三」より)
[2011年5月20日] この日の感想・書評へ→
三四郎
夏目漱石
「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言って、にやりと笑った。三四郎はプラットフォームの上へはじき出されたような心持ちがした。車の中へはいったら両方の耳がいっそうほてりだした。しばらくはじっと小さくなっていた。やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果から果まで響き渡った。列車は動きだす。三四郎はそっと窓から首を出した。女はとくの昔にどこかへ行ってしまった。(「一」より)
待望のiPadを入手したので、「青空文庫」の専用アプリを購入した。「青空文庫」とは、主に著作権が消滅した文学作品が自由に読めるネット上の電子図書館のこと。有志の手で日々名作達が電子化されているというから、頭が下がる思いだ。収録作は既に一万超、一度は聞いたことのある古今東西の名作がリストに並ぶ。
さて、記念すべき(?)電子書籍デビューで選んだのは「三四郎」。文章が読みやすそうというだけで、深い意味はない。本好きを広言する割に、実は漱石をまともに読んだのは「こころ」位のもの。予備知識も「『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ」と習った程度だ。読み終えて正直「面白い」という思いはないが、たぶん素養を積んで深堀りしていくと、全く違う味わいがあるのだろう。文学初心者としては、とりあえず「電子端末での読書も悪くないな〜」という、全く中味と関係ない感想のみ記しておくことにしよう。
三四郎は画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい刹那に、捕虜にして動けなくしたようである。変らないところに、長い慰謝がある。しかるに原口さんが突然首をひねって、女にどうかしましたかと聞いた。その時三四郎は、少し恐ろしくなったくらいである。移りやすい美しさを、移さずにすえておく手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞こえたからである。(「一〇」より)[2011年4月20日] この日の感想・書評へ→
椿山課長の七日間
浅田次郎
不安げな女の声がした。自分が言おうとしたことを、闇の中の女が言った。
「落ちついて。騒がないで。おねがい」
そうじゃない。これは自分の声なのだ。
キャー、と再び金切り声を上げ、椿山は長い髪を両手で掴みながらバスルームに駆け込んだ。灯りをつける。鏡の中に佇んでいるのは、自分とは似ても似つかぬ妙齢の美女だった。(「現世到着」より)
接待中に脳溢血のため突然死した叩き上げのデパートマン椿山課長。しかしやり残した仕事、残した家族に未練がありすぎて死んでも死にきれない。そこで、あの世から三日間だけ現世に戻ることを許された椿山は、生前とは似ても似つかぬ美女(その名も椿!)の姿でこの世に甦った。そこで彼が知った思わぬ真実とは…。
先頃読んだ「地下鉄に乗って」と同様、「死」と「家族の絆」がテーマとなったファンタジーだが、作風はからりと明るく、ユーモアに富んで、しかもホロリとさせる科白が随所に散りばめられている。
己の人生も半ばを越え、「生」と「死」を意識させられる場面も何かと増えてきたが、この作品のおかげで、「死」というものが少し受け入れやすくなった気がする。
「弔い合戦?」
「そうだよ。僕らはみんな、椿山さんのことを尊敬していた。あの人は売場課長の鑑だったよ。僕も、三上部長も、女子店員たちも派遣の販売員も、メーカーの担当者たちもみんな、椿山課長が大好きだったんだ。だから、課長が命をかけたこの予算を、どうしても達成したいんだ。僕らにできることって、それだけだろう。デパートマンの供養なんで、それしかないんじゃないのか」
ありがとう、と一声呟いて、椿は顔を被ったまま後ずさった。(「邪淫の罪」より)
[2011年4月16日] この日の感想・書評へ→
月のしずく
浅田次郎
「じきそこなんだ。チョンガーだから誰にも気をつかわなくていいし。ほら、おぶってってやる」
肩ごしに振り返った。女はじっと辰夫の背中を見つめたまま立ちすくんでいた。
十五夜の満月が、射すくめるほどの真上に輝いていた。
「ほれ、遠慮するなって」
やがて女は、ためらいがちに身をまかせた。辰夫は月あかりの国道を歩き始めた。(「月のしずく」より)
不器用な男と女が織りなす、様々な愛情の形を綴ったアンソロジー。いわば、大人のメルヘン集である。全編にわたり、何とも言えないもの哀しさを漂わせているものの、悲しい物語は一つもなく、常にその先の希望を予感させる終わり方をしているのがうれしい。また一人の悪人も登場しないから、無駄にハラハラドキドキさせられることもない。そんな温かな空気感のせいだろうか、“心地良い切なさ”とでも言いたくなるような読後感が全てにあって、すぐに次の物語が読みたくなってしまう。
作者の手練手管を改めて再確認させられる、地味ながらも確かな輝きを放つ一冊。
「きょうは、特別な夜ですね」
男は目を細めて肯いた。
「はい。クリスマス・イブです」
「奇蹟、ですか?」
夫の問いに、男はしばらく湯気の中で考えるふうをし、他人事のように呟いた。
「いえ。奇蹟ではないと思いますけど。ただの偶然というやつでしょう」(「聖夜の肖像」より)
[2011年4月12日] この日の感想・書評へ→
地下鉄に乗って
浅田次郎
真次は自分が、どうにも説明のつかない空間のひずみに立っていることを知った。新中野駅の出口から差し入る月かげが、立ちすくむ半身を切り分けていた。
階段の上にはスーツケースが、置き去られた犬のように主人を待っている。そこに戻るには勇気がいる。もし夢ではないとしたら、自分はとうとう、どうかなってしまったのだから。(「4」より)
いつもの地下鉄を降りて、駅の階段を上ると、そこはオリンピックに沸く昭和39年の東京だった—。
泣かせるファンタジー小説、という触れ込みだけで何となく敬遠したくなるのだが、そこはさすがに稀代のストーリーテラー浅田次郎である。タイムスリップで戦前戦後の銀座界隈を往ったり来たり…という荒唐無稽な筋書きであるにも関わらず、妙にリアリティのある情景描写とストーリー展開でぐいぐいと読ませ、最後には予想もしない結末で、ちょいと切ない気持ちにさせられてしまった。
堤真一主演で既に映画化されているようだが、映像でこの小説世界を忠実に再現されると、昭和生まれの中年男なら確実に泣いてしまいそうだ。
「なんだつまらねえ。俺のめがね違いかよ−だったら礼なんぞいらねえから、ちょっと手を貸してくれねえか。わかるだろ。いきなりの預金封鎖で、こっちはてんてこまいなんだ。今日が一世一代の稼ぎときかもしらねえ」
ソフト帽の庇をつまみ上げて、アムールは不敵に笑った。浅黒い顔に、真っ白な歯が浮き上がる。何というたくましい笑顔だろう、と真次は思った。それはかつて多くの日本人が持ち、繁栄とともにことごとく失われてしまった、再生する民族の表情だった。(「11」より)
[2011年3月 6日] この日の感想・書評へ→
三銃士
アレクサンドル・デュマ著/生島遼一訳
「アトス!ボルトス!アラミス!」
さっき、我々の話に出て来た、この後の二つの名前をもった二人の銃士がただちにその中にいた人だかりを離れて、この居間の方に歩いて来た。二人が閾をまたぐと、すぐ扉はしめられた。入って来た二人の、全然落ちつきはらったとはいえないまでも、鷹揚で同時に服従の気持を見せた悠々迫らない態度はダルタニャンになかなか立派に見えた。(三「初の謁見」より)
古典らしからぬ面白さ、と噂に聞いていたので前々から気になっていた。予備知識がなく、「三銃士」という題名から勝手に「三国志」の劉備・関羽・張飛のような、無骨な武人達を描いた戦記活劇かと思っていたが、かなり趣が違った。「忠」と「義」に命を懸けるのが「三国志」なら、「三銃士」(実際は四銃士…) が命を懸けるのは「恋」と「友情」と「意地」。その軽さと洒脱さが何ともフランス文学っぽい。
そして完全に主役の銃士達を喰い、圧倒的な存在感で物語後半をぐいぐい引っ張るのが、敵役の美しき悪女ミレディ。類い稀な美貌と悪知恵を武器に主人公達を翻弄し、対等以上に渡り合う様が何とも蠱惑的であっただけに、結末が少々残念。峰不二子のようにしぶとく生き残り、物語に含みを持たせて欲しかった。
「なあに心配するな。神は偉大だ。マホメット教の信者が言うようにな。未来のことはまったく神の手の中にあるんだから」
そう言ってひと息に杯を干し、アトスは無造作に立ち上がった。それから手近の銃をとって銃眼の傍に行った。
ボルトス、アラミス、ダルタニャンもそのとおりにする。グリモーは後にさがって弾丸ごめする役を言い渡された。
一瞬後に、敵の姿が見えた。(四七「銃士の密談」より)
[2010年5月 8日] この日の感想・書評へ→

ことばの国
清水義範
政治関係の言葉で、私が近頃一番気にいらないのは、
“永田町の論理”
というやつである。(中略)
そういう正体不明の言葉でしか政治不信を表現できないのは、実は、国民に対し、本当に問題ある点について具体的には知らせないでおく、という結果を生んでしまうのである。だから勘ぐれば、政治家に勧められてその言葉を使っているんじゃないかと思えるほどだ。(「手垢のついた言いまわし」より)
日本が英・米・豪と開戦し英語が敵性語に、さらに中国とも開戦して漢字/漢語まで使用禁止となった時代の混乱を描く「言葉の戦争1・2」。ファッション用語のいい加減さにツッコミを入れる「ファッション用語の不思議」。"アベック""E電"等々の廃語を軽妙解説した「廃語辞典」。ありがちな結婚式のパターンを嗤う「スカートとスピーチは」他、言葉を題材にした12の短編集。中でも、新聞やTVで使われがちな慣用句をチクリと刺す「手垢のついた言いまわし」は、訳知り顔で使われる安易なレトリックが、発した本人は元より、受け手まで思考停止にさせてしまう事への風刺でもある。投書欄に投稿する老人や「青年の主張」をする中高生ならともかく、言葉で生計を立てるプロならきちんと自分なりの言葉を紡ぎ出せよと、笑いながら頭をガツンとやられた思いがする。
なぜ、…といえる、と書かないで、…といっても間違いではあるまい、と書くのだろうか。そこには、…といえる、と書き切ってしまうほど自信はないのだが、ちょっと語調を弱めることによって、なんとなく納得させちまえ、という策謀があるのである。
“戦後日本の教育制度が、今の荒廃した社会を生み出した、といってもあながち間違いとはいえまい。”
こういう文章には、本当に注意しなければならない。(「手垢のついた言いまわし」より)
[2010年1月19日] この日の感想・書評へ→

転落・追放と王国
カミュ著/大久保敏彦・窪田啓作訳
わたしが自分を糾弾すればするほど、わたしがあなたを裁く権利は大きくなるのです。さらにいいことに、わたしはあなたが自分を裁くよう唆すことになり、それだけわたしはほっとするのです。ああ!われわれはね、あなた、奇妙で、見すぼらしい人間なんですよ。そしてわれわれが、たとえ少しでも、自分の生活を振り返ってみれば、自分に呆れたり、自分に眉を顰めるような場合が少なくはありません。試しにやってご覧なさい。必ず聞いてあげますよ、あなた自身の告白を。(「転落」より)
先だって読んだ沢木耕太郎「旅する力」の中に、若い頃カミュを読みふけった時期があったと書かれていたので、手に取った。
「転落」は、昔パリで弁護士だった男が、あるきっかけで自らの欺瞞性、偽善性に苛まれた揚げ句、自ら進んで「転落」への道を選び、その生き様を読み手に延々数日間にわたって独白するという構成。一見自分を裁き、悔い改めている様でありながら、実は読み手に「あなたも同じ穴のムジナでしょう」と突きつけているという、しんどくて陰鬱な小説である。そしてもう一編の「追放と王国」は、閉塞感漂う6編から成る、カミュの最初で最後の短編集。残念ながら、これら一連の作品から何かを読み取るだけの文学的素養がないため、正直なところ何と表現すれば良いのか解らない。「異邦人」を読んだ時には、辛うじてついて行けたのだけれど…。
しばらく経って、教室の窓べに突っ立ったまま、教師は、高原の縁一面に、黄色の光が空からさっと躍り出るのを、見るとはなしに眺めていた。彼の背後の黒板には、フランスの大河のうねりくねりのあいだに、下手くそな筆跡の、白墨で書かれた文字がならんでいた。それはこう読まれた。「お前は己の兄弟を引き渡した。必ず報いがあるぞ」ダリュは空を眺め、高原を眺め、さらに、そのかなた海までのびている目に見える土地を眺めていた。これほど愛していたこの広い国に、彼はひとりぼっちでいた。(追放と王国「客」より)
[2010年1月11日] この日の感想・書評へ→

天国までの百マイル
浅田次郎
男が落ちぶれて行く過程を知っているのだろうか。まず金がなくなる。有価証券や不動産が消えて行く。女に逃げられる。家庭が崩壊する。いよいよ目先の金に困ると、身につけている金目の物は消えて行くが、背広は残る。
「なるほど、よれよれのアルマーニか−。しかし何だな、男と好みもいろいろあるけど、くすぶった男が好きだっていうのは珍しい。どこがいいんだ」
「哀愁」(「4」より)
帰省ラッシュで混み合う新大阪−東京間の150分。まさに一編の良質な日本映画を観たかの様に、一気呵成に読み終えた。「さあて、どなた様もハンカチをご用意あれ」と、手ぐすね引いて待っているかの様な作者の手管にハマる程こちらも甘くはないが、「己の存在を賭けた、うらぶれた中年男の再生の物語」という設定だけで、同じ中年男の涙腺は今にも決壊寸前になる。ましてやそこに、苦労をかけ通しだった老いた母親の生命が明日をも知れず…となると、ついつい頁を捲らずにはいられない。毎度のことながら、浅田次郎というのはあざとくも巧い書き手だ。
ちなみにネットで調べたところ、既に2000年に映画化されているらしい。貧しい中で四人の子供を育て上げた美しい母親役が八千草薫で、神の手を持つ変人の心臓外科医が柄本明というのはともかく、主役のダメ男(落ちぶれた元・成金不動産屋)が時任三郎というのは少々解せない。
「先生! −おかあちゃんは、母は……」
「何だ! はっきり言え」
「おかあちゃんの心臓は−」
「もう止まらないって言ったろう!」
「ほんとですか。どうしてわかるんですか!」
「百マイルを走ってきたおまえに、他の答えが言えるか、ばかやろう!」
曽我の声は百マイルの彼方から聞こえる汽笛のように、安男の胸を打った。(「14」より)
[2010年1月 8日] この日の感想・書評へ→

その日のまえに
重松清
渡したいものがある。郵便で送るよりも、できれば直接手渡したい。いまの僕の話を聞いて、いっそう、じかに渡したほうがいいと思った−−と、山本さんは言う。
怪訝に眉をひそめる僕の顔がちゃんと見えているのだろう、山本さんは、さっきと同じように深いところまで届く声でつづけた。
「和美さんの手紙を預かったんです。亡くなる少し前に」(「その日のあとで」より)
この夏は、母の初盆である。早いもので一年が過ぎたが、母が亡くなった後も、当たり前の日常を当たり前の様に過ごしている。母のいない我が家の歴史を、ゆっくりと刻み、積み重ねている。母のことを忘れる日が来るとは思えないが、思い出す時間は確実に減っていく。いろんなことを忘れられるから、人は生きていけるのだろう。
恩師の死をきっかけに、「生きること」と「死ぬこと」、「のこされること」と「歩きだすこと」をまっすぐ描きたくなり、著者は本書を世に出したという。人間誰にでも「その日」は訪れるが、残された家族や友人には、「その日のあと」が否が応でも続いてゆく。誰もが本書の主人公であり、脇役でもあるのだ。
便箋は一枚きり。
三つ折りにした便箋を開く前に、目をつぶり、ゆっくりと深呼吸した。
胸の底の重石が、いまははっきりと、ここに、どうしようもなく、ここに、ある。
目を開けた。
僕は和美と再会する。(「その日のあとで」より)
[2009年8月13日] この日の感想・書評へ→

霧笛荘夜話
浅田次郎
「どの部屋も空いているから、ひとっとおり見て気に入ったのを使えばいい。見ての通り酔狂な男の建てたものだからどれもなかなか凝っていて・・・・大丈夫、事情は訊きゃしない。そんなことどうだっていいさ。あんたのその鞄の中味が、札束だろうと生首だろうと、あたしの知ったこっちゃない・・・・おいで、ひと部屋ずつ見せてあげよう。どれもすてきな部屋さ。ちょっとじめじめしているが、あんたにゃ似合いだ」(第一話「港の見える部屋」より)
とある港町の古びたアパート「霧笛荘」を舞台に、様々な過去を持つ6人の住人と家主の老婆の人生を描いた哀愁の漂う連作短編。一人ひとりのエピソードに関しては、いかにもというあざとさもありイマイチ乗れないものもあったが、最終話を読み終えた途端に全編を貫く“心地良い切なさ”(ヘンな表現だが)が一気にこみ上げて来る感じだ。
解説によると、全七話のうち前半三作と後半四作の間に十年以上の隔たりがあるらしいが、その辺りを全く感じさせない職人芸はさすがというしかない。ただ他の住人の物語と比べて、第一話の主人公(千秋)の過去だけが素通りされているので、もしかしたら十年の空白によって、書き始めの意図とは微妙に異なる連作に仕上がってしまったのかなあと勝手に想像したりする。
五百万あれば人生が変わるってか。
そりゃそうだろうけど、それじゃ太太の人生はどうなるんだい。
あんたら、勘ちがいしてるね。老いさき短い人生は安いか。そんなのは保険屋のセリフだ。いいかい。少ないものほど重いのはあたりまえだろう。
太太は惚れた男のくれたこのアパートで死ぬ。その筋書は誰も変えちゃならないんだ。
だって、太太の人生だもの。(第七話「ぬくもりの部屋」より)
[2009年6月 5日] この日の感想・書評へ→

プリズンホテル夏・秋・冬・春
浅田次郎
「・・・・たいした男だな、君は。まるで極道のように肚が座っている。カタギなんだろう?」
ナベ長を睨み据えたまま、支配人は言った。
「タキシードを着た極道でございます。ホテルマンという男の道を極めようとしているひとりの極道でございます」(2秋28より)
面白いと噂には聞いてはいたが、評判に違わぬ名作。鄙びた温泉街にある「極道の、極道による、極道のためのホテル」という舞台設定だけで、読み進める前から十分に期待を抱かせてくれる。基本的に全編コメディタッチだが、泣かせるセリフや描写も随所に散りばめられ、エンターテインメントとしては文句なし。登場人物が全て一癖も二癖もあり、一人ひとりのキャラがしっかりと立っている上、「悪人」が一人も出て来ないから読んでいて安心感がある。
強いて言うなら、任侠の世界がホテルマンや料理人と等価の「人間修行の場」として、魅力的に描かれ過ぎているのが気になる。違った意味で「R15」指定にしたい本。
「仲さん、あんた、かっこいいな。闇市を肩で風切って歩いていた、あのころのまんまだ」
ふん、と鼻で笑って、仲蔵親分は振り向きもせずに言った。
「どうでえ、ナベ長、ホシを挙げた気分は」
「悪かない。こんなことなら、あの十二社の賭場で、あんたを捕っておきゃよかったな」
「ヨタとばしてねえで、とっとと帰ったらどうでえ。ーーありがとうございやした。またどうぞお越し下せえ」(2秋35より)
[2009年1月 5日] この日の感想・書評へ→

みぞれ
重松清
いつまで生きることが父の幸せなのか、僕にはわからない。
いつ、どんなふうに生涯を閉じれば、父は最も幸せな死に方を迎えたと言えるのだろう。わからない。ほんとうに、わからない。もしかしたら、父は、いちばん幸せな死のタイミングをすでに逃してしまっているんじゃないか、とも思うのだ。(「みぞれ」より)
七月に母を亡くした。急な心臓の病で、おまけに東京出張中だったため、死に目には会えなかった。突然の事で俄に信じられない思いだったが、実家に戻りいざ亡きがらと対面すると、思いのほか冷静な気持ちだった。妻がここ数年相次いで両親を亡くしたため、これで彼女の悲しみの半分位は理解してあげられるかな、と思ったりもした。
もし我が子を失ったら、これ程冷静にはいられないだろう。子を持って初めて、子が親より先に死ぬ「逆縁」がいかに親不孝であるかを実感する。だからこそ、親の気持ちを思えば自分が先に死ぬ訳にいかない。どんなに悲しかろうと、親の死を看取ることが最後の親孝行と自分に言い聞かせるしかない。
たぶんそんな風に思い始めた頃から、少しずつ親の死を受け容れる心の準備が出来ていたのだろう。
いつの頃からだろう、僕は両親の死を冷静に見据えるようになっていた。 二人の「老い」を実感してから、「死」の日がいずれ訪れることを受け容れるまで、思いのほか早かった。二人が亡くなるのは、もちろん、悲しい。涙だって流すだろう。だが、その涙には、自分の中のなにかが引き裂かれてしまうような痛みは溶けていないはずだ。 僕は、冷酷で身勝手な息子なのだろうか。(「みぞれ」より)
[2008年11月 7日] この日の感想・書評へ→

流星ワゴン
重松清
「ねえ・・・・お父さん、なんで?」
いるはずのないひとだ。父は東京に来たことなど一度もなくて、いや、その前に、なぜこんなに若いんだーー?
年格好は僕と変わらない。三十七、八歳あたり。僕が中学生になるかならないかの頃の父が、間違いない、二十数年前の父が、いま、ここに立っている。(「4」より)
巷では「泣ける」とか「号泣しました」と評判を呼んだ本が売れている。この「流星ワゴン」も出た当初から、「涙無くして読めない」と絶賛されていた。互いに解りあえない父と子がもし同い歳で出会ったら・・・という幻想的な設定だけでハンカチの準備が要りそうだし、実際に読者を物語の世界に引き付け一気に読ませる力量は、いつもながらさすがである。
ただ映画「Field of Dreams」の、時空を超えて父子がキャッチボールをするシーンでは涙腺が決壊したのに、似た様な設定の本書ではほとんど泣けなかった。単に世間と感受性が違うだけかも知れないが、個人的感覚では、「父と子の葛藤と再生の物語」を軸にしたファンタジー空間の中に、「妻の理由なき不倫癖(=それもただのセックス依存症?)」という妙な生臭さが混じったことで、純粋に感情移入できなくなったためかも知れない。
「どんなに仲の悪い親子でも、同い歳で出会えたら、絶対に友だちになれるのにね」
「・・・・アホか、それができんのが親子なんじゃろうが」
「でも、僕とお父さんは会えたよ」
「こげなこと、奇跡いうか、魔法なんじゃ」(「26」より)
[2008年10月14日] この日の感想・書評へ→

10ドルだって大金だ・ダイヤルAを回せ
ジャック・リッチー
彼は落ち着かない様子だった。「ポーラは見つかりそうですか?」
わたしは肩をすくめた。「最善を尽くすのみです」
彼は勧められた椅子に腰かけた。「父がポーラを見つけるためにいくら支払っているかは知りません。でも、ぼくは喜んでその二倍進呈します−−かりに彼女を見つけないでいてくれたら」(「誰も教えてくれない」より)
仕事の合間やちょっとした息抜きとして読むのに、短編集は都合が良い。起承転結の展開が早く、物語が終わる毎に確実に区切りが付けられるので、自分のペースで読んだり止めたりしやすいからである。
但しジャック・リッチーに関しては、そう易々と自分を抑えられない。どの作品も謎解きの要素が絡む上、アッと言わせる結末が必ず終盤に用意されているため、読み終えた途端に「次はどんなサプライズが楽しめるのだろう」と気になって仕方がないのだ。おまけに巻末の解説にもある通り、「読んでいるあいだはひたすら愉しく面白く、読み終えた後には見事に何も残らない」(10ドルだって大金だ)から、軽やかな読後感に包まれながら次々と読み進めてしまう。無駄を削り取った切れ味の良い文体と相まって、「クライム・マシン」と併せて、まさに短編ミステリーのお手本の様な珠玉の作品集である。
ラルフとわたしは彼をそのままにして、近くの酒場に出かけた。
「ラルフ、世の中は機械に乗っ取られつつある。もはや理性や想像力を働かせる余地はないんだね」
「気にするなよ、ヘンリー」ラルフが言った。「なんにする?」
「シェリーをグラスで、ダブルにしてくれ」
バーテンダーは十分かかって、ようやくシェリーのボトルを探しだした。(「可能性の問題」より)
[2008年10月11日] この日の感想・書評へ→

クライム・マシン
ジャック・リッチー著/好野理恵訳
おれは時間と方向の調整つまみを合わせた。この地点からローウェルの家までの正確な距離はわからなかったが、いったん出発してしまえば、走行距離ダイヤルのすぐ下にあるファイン・チューナーが使えるようになるだろう。
おれはちょっとためらい、深呼吸をひとつした。そしてそれから、赤いボタンを押した。(「クライム・マシン」より)
最後のたった2行で、それまで浸っていた物語の世界観ががらりと覆され、思わず「やられた〜」と声を上げそうになる・・・。そんな見事などんでん返しが用意された「日当22セント」「殺人哲学者」をはじめ、手練れの技で紡ぎ上げられた傑作17編が収録された短編集。「このミステリーがすごい」2006年版海外編第1位。全編殺人絡みの物語ばかりだが、暗さは微塵もなく、むしろ登場人物共々騙されてしまう鮮やかな手際に、ついニヤリとさせられる。
なお著者は既に1983年に亡くなっているが、350編の短編小説を世に残しているとのこと。ぜひ他の作品集も読んでみることにしよう。
そして今や、おれは一万二千ドルと週三十ドルの年金を持つ身だ。
そうなると人は慎重になりがちだーー 一か八かの大勝負を避けるようになる。
だが、それではだめだ。おれはやり遂げなければならない。これはプロとしてのプライドの問題だ。おれはかつて一度もしくじったことはないのだ。(「日当32セント」より)
[2008年10月 1日] この日の感想・書評へ→

青い鳥
重松清
「がっがっ、学校の先生は、みなさんの味方なんかじゃありません。味方になってくれるときもあるけど、最初からずっと味方でいるわけではありません。でででっ、でも、ててて敵じゃないです。ぜぜぜっ、絶対に」
がんばって。先生。がんばって。カスタネットを叩く。何度も叩く。
「先生に、でででっ、できるのは、みんなのそばにいる、こっことだけ、ででででっ、でっ、です」(「静かな楽隊」より)
吃音を持つ中学国語の非常勤教師・村内先生を主人公にした連作短編集。問題を抱えた子供達がいる学校を転々とする彼が、何より大切にしている仕事は、その子達の「そばにいること」。そして「ひとりぼっちじゃない」と伝えること。いじめ、自殺、学級崩壊、児童虐待等々、遣り場のない孤独に耐える生徒達にそっと寄り添い、時には穏やかに、時には激しくどもりながら、「大切なこと」だけを言葉にして伝え続ける。新幹線の中で読んでいて、不覚にも涙腺が何度も緩んだ。
巧く言葉にできるかどうかは問題ではない。大切なのは「本気」で伝える覚悟だ。激しくつっかえながらも「本気で言わなければいけないことは本気で言います」と言い切る村内の様に、どれだけ自分は一つひとつの言葉を本気で発しているだろう?青臭い読書感想文の様になってしまったが、たまには自分の言葉の重さについて本気で考えないと。
「・・・・・あんまりうまくしゃべれないからな、俺は」
「でも、その代わり、たいせつなことしか言わないじゃないですか。先生がしゃべることって、ぜんぶたいせつなことじゃないですか」
先生はうつむいて、照れくさそうに笑った。
「なんだ、おまえ、そういうのもうまくなったんだな、おとなになったなあ・・・・」
耳たぶまで赤くなっていた。(「カッコウの卵」より)
[2008年7月18日] この日の感想・書評へ→

エクサバイト
服部真澄
「心して聞いてほしい。歴史は、状況に応じて読み変えられてきた。そればかりではない。実際に、湖塗されてもきたんだ」
鹿島は、思いがけないことをいう。
「過去は作り出されようとすることがある」
「いくらなんでも、そんなことは・・・・・・」(第一章「二〇二五年」より)
額に装着した超小型カメラで人々が自らの日常を録画する様になった近未来を舞台に、有名無名の人々が残すそれら大量の生涯映像を基に精緻な世界史を編み上げよう、というプロジェクトに渦巻く陰謀を描いたSF作。人間にとって、「記憶」の中の真実と「記録」に残る事実のどちらに意味があるのか、問いかけるテーマは意外に深い。
私達は、文章で残された史書が勝者によって都合良く糊塗されがちであると認識しているが、映像の記録に対しては往々にして脇が甘く、眼前で動く光景を鵜呑みにしがちだ。しかしデジタル加工技術の進化によって、たとえ動画であっても、何が事実で何がフェイクか判別できない時代が早晩訪れようとしている。
「記憶はきえる 記録はいきる」。本書を読み終えた後、眞木準氏が30年以上も昔に文具の広告で書いた有名なコピーをふと思い出した。消えゆく「記憶」にこそ「真」が在り、生かされた「記録」こそ実は「虚」に満ちている。そんな時代がいずれやって来るのだろうか。
「・・・忘れることで、人は生きてゆける場合もある。忘却は天から人類への、最大の贈り物かもしれないな。脳のなかで記憶を司る海馬とかいう部分は、不可思議な働きをするらしいから」
「ぼくだって、いつかオヤジみたいになるかもしれないんです。認知症は増えていて、誰が発病してもおかしくない。それに、母がいったんです。あなたのお父さんも、夢見がちな男だったわ・・・・・、と」(第三章「二〇三一年」より)
[2008年5月30日] この日の感想・書評へ→

官能小説の奥義
永田守弘
いずれにしろ、性交描写は官能小説のハイライトであろう。ここに至るまでの描写も、読者の淫心をかきたてる重要な部分だが、着地点は予定されているのである。・・・(中略)・・・男性器を女性器に挿入するという、単純な行為を、いかに濃密に、淫靡に、いやらしく描くかが、作家によって競われる。毎回同じ表現では飽きられてしまう。つねに差別化を図らなければならない。(第二章「性交描写の方法」より)
優れた官能小説は下手なAVより猥褻だ。扇情的な会話や痴態の描写、的確なオノマトペ表現を通じて、リアリティ溢れる情景の数々が鮮やかに浮かび上がって来る。そもそも直裁的な性行為だけでなく、「読む」という行為を快楽に繋げられるのは人間だけの特権であるが、ビジュアルの力を借りず純粋に文章だけで読み手を欲情させるには、実のところ相当な筆力の裏付けが必要だろう。
そんな官能小説の奥義を、様々な角度から分析したのが本書。過去の名作の文体考察に始まり、性器・性交の描写、フェチの分類、ストーリー展開へと考察を進め、最後はご丁寧に「官能小説の書き方十か条」で締めくくっている。著者は新聞・雑誌に新作の官能小説を紹介しているこの世界の第一人者で、「官能小説用語表現辞典」まで編纂した程のプロの読み手であるから、厳選された数々の例文を一読するだけでも、豊穣な日本語表現の世界が大いに堪能できる。
考えてみると、小説は性行為に似ている。男女が知り合い、キスから愛撫が始まり、長い前戯を経て性交という結末に至る展開は、小説そのままだ。性行為の盛り上がりは、小説の盛り上がりと、大筋において同じなのである。文体や物語構成によって、内容が違ってくるだけである。(第四章「ストーリー展開の技術」より)
[2008年3月12日] この日の感想・書評へ→

本朝金瓶梅
林真理子
「いったいどうしたんですか・・・・・」
西門屋の奥の離れ、ことが終わったばかりのおきんが、前をはだけたまましどけなく起き上がります。やがて桜紙を口にくわえ、後ろ向きになって恥ずかしそうに後始末するのがなんとも色っぽい。
「旦那が昼からなさるなんて、本当に珍しいことだもの。それにこの頃・・・・・」 (第五話「慶左衛門、大奥の女を誘うの巻」より)
「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」と並ぶ中国四大奇書の一つ「金瓶梅」を下敷きに、舞台をそっくり花のお江戸に移し、色と欲にまみれた男女のせめぎ合いをユーモラスに描いた官能時代小説。女陰、陰茎といった直裁的な言葉が頁上を賑わし、男と女の営みが具体的かつ扇情的に描かれているにも関わらず、全編にわたって適度な洒脱さと品の良さが漂う。明けても暮れても女と交わることしか頭にない色男の主人公、ライバルを罠にはめ死に追いやることすら厭わない性悪な妾など、いずれもひと癖ある登場人物ばかりだが、色ごとが物語の軸になっているせいか、皆それぞれどこか愛嬌があって憎めない。ここのところ堅い本ばかりが続いていたが、たまにはベッドに寝転がり、こうしたエロい文章に耽溺するのも悪くない。
「おい青柳、ちょっと待ってくれ。俺はだからちょっと・・・・・」
拒んだ拍子に慶左衛門はあおむけに倒れ、それを幸いに青柳は上からすとんと落ちてきたのであります。全く男と女の体はよくしたもので、上を向いて立っているものに、やわらかく濡れたものはすっぽりと着地いたします。(第七話「慶左衛門、跡継ぎが生まれるの巻」より)
[2008年2月11日] この日の感想・書評へ→

ABCDJ
ボブ・グリーン著/駒沢敏器訳
最も素晴らしい映像というものは、そして最も精彩を放ち消えることのない映像というものは、心のなかにこそ刻まれている。それは決して消えることはないし、古くなることもない。
最も素晴らしい何かは、決して消えないものなのだ。それこそが、私がジャックに伝えたいことだった。自分は間違っていないと思った。(14)
初めて「American Beat」や「Cheese Burgers」を読んだのは、かれこれ20年近く前のこと。日常の些細な出来事を温かい目線で切り取り、味のあるコラムの形で呈示する彼のスタイルにすっかりハマった。自分もこんな文章を書きたいと思った。邦訳版が原書の半分しか訳されてないと知ると、ペーパーバックスを買ってまで読んだ。その英文は辞書なしでも何とか意味が取れる位平易で気取りがなく、原書を一冊読み通す喜びとちょっとした優越感を私に与えてくれた。
さて久々のボブ・グリーン。テーマは親友の死。400ページ近くにわたって、親友ジャックが末期ガンを宣告されてから死に至るまでの最後の交流の日々を、若い日の想い出を絡ませながら感傷を込めて描き切っている。私にも高一以来の親友がいて、年に数回飲みに出るたびに「人生も半ばを過ぎたし、あと何年こうして二人で飲めるやろか」と脳裏をよぎらないではないが、まだまだ現実として考えたくはない。
これだけは死ぬことがない。これだけはいつまでも続く。そんな風に友情というものは永遠だ。建物はできてはなくなり、名声の輝きを得た男や女は現れては消え、時は訪れてやがて静かに過ぎ去る。しかしこれだけは終わることがない。お金に替えることなどできない。そんな価値など超えたところにあるこれだけは。誰ひとりとして、人からそれを奪い取ることはできない。(27)
[2007年11月14日] この日の感想・書評へ→

危機の宰相
沢木耕太郎
戦後三十年を通じて、この二つの言葉ほど社会全体に強い影響を与えたものはない。一九六〇年代はアンポに明け、バイゾーに暮れた。一九六〇年代とは、「アンポ反対」を叫んだ人びとがやがて「所得倍増」の幻想にからめとられ、流れに巻き込まれていった時代といえる。その意味では、「所得倍増」こそ戦後最大のコピーライティングだったといえるかもしれない。(第二章「戦後最大のコピー」より)
「一瞬の夏」の様なスポーツノンフィクションも、「チェーンスモーキング」の様なエッセイも、もちろん「深夜特急」の様な紀行文もそれぞれ捨てがたいが、硬質な社会派の題材であっても読み手をそらさない点で、沢木耕太郎の右に出る者はいない。他の書き手だと読み通すのが苦痛になりそうなテーマでも、ロマンティシズムが程良く香る著者独自の文体と構成の分かりやすさで、ついつい最後まで読まされてしまう。今回も池田勇人や下村治については名前しか知らず、田村敏雄に至っては全くの初耳だったが、一冊読み終えた今となっては、“グッドルーザー”である三人の生き様がしっかりと心に刻まれてしまった。
それにしても「所得倍増」とは、何とシンプルで力強く、人びとの心に希望を与える言葉だろう。そしてそもそもこの言葉を「戦後最大のコピー」と見なした視点が、私にとって目から鱗であった。
だが、池田、下村、田村という三人の人生の軌跡が、吸い込まれるように一点で交わったのは、ある意味で彼らが共に「敗者」だったからである。・・・(中略)・・・この三人が共有することになる、日本経済への底抜けのオプティミズムは、彼らが共に一度は自分自身の死を間近に見たことがあるということを考えるとき、ある種の「凄味」すら感じさせられる。(第三章「第三のブレーン」より)
[2007年6月23日] この日の感想・書評へ→

246
沢木耕太郎
夜、布団に入った娘に、話をする。
「なんのオハナシしようか」
と娘が言う。
「なんでもいいよ」
と私が答える。ほんの一瞬考えてから、娘が叫ぶ。
「ながぐつのオハナシ!」
きっと、昼間、長靴をはいたのだろう。
私はすぐに話しはじめる。(「雪の手ざわり、死者の声」より)
1986年から87年にかけて雑誌「Switch」に連載された、著者の三十代最後の一年を描いた日記風エッセイ。連載時から単行本化を待ちわびつつほとんど諦めかけていたが、二十年を経て待望の上梓だ。当時二十代前半だった私にとって、1986年は立ち上げた会社の倒産、恩人の死etc.波瀾万丈の一年だっただけに、行間に自らの様々な思いまでが立ち上って来るようだった。
そして独身だった連載当時には全く思いもつかなかったことだが、本書で何度も描かれている幼い愛娘とのやりとりを読む毎に、こうして自分自身も、幼かった子供達との会話を文章の形で残せばよかったと切に後悔している。写真やビデオで残した“記録”よりも数段色褪せない“記憶”として、胸の奥に刻むことが出来たことだろう。そう考えると本書が今になって上梓されたことを、自分勝手に恨むしかない。
この『246』の文章は、文字通りの雑文でしかないが、その日なにをし、なにを見、なにを考えたかというようなことを、日付を入れて書いているところからすれば、日記といえなくもない。もし仮にこれを日記とすれば、このように長く続けて書くことができたのは初めての経験である。それは、人に見られることを前提にして書いているためかとも思う。(「花のざわめき、銀の幕」より)
[2007年6月13日] この日の感想・書評へ→
キャッチャー・イン・ザ・ライ
J.D.サリンジャー著/村上春樹訳
それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。(22より)
かつて読んだ時にはさほど心惹かれることもなかったが、先だって読んだ「サリンジャー戦記」で充分に予習を積んだせいだろうか、今回改めて読み返してみて、この本がこれ程長きにわたって多くの人を引き付け、読み継がれてきた訳が少し判った気がした。それは自分自身が若い頃よりもいろんな面で抑圧されているせいかも知れないし、いろんな経験を経て多少世の中が見えてきた分、ホールデンが持つ“イノセンス”の希少さ、はかなさを愛おしむ余裕が生まれているせいかもしれない。
いずれにせよ、ホールデンの言動に同世代として共感しながら読み進めるのと、おじさんがある種のノスタルジーに浸りつつ「ああ、そんな時期もあったなあ」と思いながら読むのとでは、この本がもたらす影響力は全くもって異なってくるだろう。
先になって君が何をしているかなんて、実際に先になってみなきゃ君にだってわからないんじゃないか?うん、わかるわけないよね。まあたぶんちゃんと勉強するだろうって思ってるよ。でも先のことは先のことだ。だからさ、そういうのって見事にとんまな質問なわけさ。(26より)
[2006年9月14日] この日の感想・書評へ→

翻訳夜話2 サリンジャー戦記
村上春樹/柴田元幸
そんなに『キャッチャー』という小説にはまったというわけではないんです。来るということでいえば、カポーティなんかのほうがずっと来ました。でも『キャッチャー』って、再読していないわりには、そして「そんなに来なかったよ」とか、しらっと言っているわりには、不思議に心に深く強く残っているんです。(対話1「ホールデンはサリンジャーなのか?」より)
「ライ麦畑でつかまえて」は遠い昔に読んだ記憶があるが、世間の評価程は心に響かなかった。いわゆる文学における一般的な“名作”群とは違い、学校の図書館から閉め出されたり「有害図書」に指定されたりという点に大いに興味を惹かれて読んだのだが、結局この物語のどこが反社会的なのか、正直よく分からなかった。
この「サリンジャー戦記」は、こんな私の如き文学的読解力に乏しい読み手にとっては、大いに参考になるサブテキストである。サリンジャーが歩んできた人生や様々な逸話、物語の時代的背景、文体の特徴と解説、「キャッチャー」の主題の一つでもある“イノセンス”についてetc.、「なるほど文学作品というのは、ストーリーを追うだけでなくこんな風に読み解く楽しみもあるのだなあ」と感心してしまった。
こうなれば本編を読まない訳にはいかない。幸い娘が持っているので借りることにしよう。
この本を読んで、切実にひしひしと何かを感じるのは、そういう意味では成熟した愛を抱えきれないでいる人なんじゃないかなと。あるいは、そういう地点に既に行ってしまって、今現在、現実的に責任を取らされている人たちが、あれこれと感じながら読んでいるのか。(対話2「『キャッチャー』は謎に満ちている」より)
[2006年8月27日] この日の感想・書評へ→

無名
沢木耕太郎著
父は温燗の日本酒を頼むと、当然のように二本と言った。私の眼の前にも徳利と猪口が出てきた。父は最初の一杯はついでくれたが、あとは自分で好きなようにしろというように放っておかれた。だから、私も父と同じように手酌で酒を飲んだ。(第四章「酒徒」より)
本と酒を愛した“無名の”父親の人生を述懐しつつ、最後の日々を静かに描いた私小説的ノンフィクション。父親と自分との関係や、父親の生き様から受けた影響を振り返ることで、結果的に沢木自身の生き方・考え方が吐露されているのが興味深い。
厖大な知識を持つ存在として“畏怖”する反面、純粋で世渡り下手な父親を“守るべき対象”と、沢木は感じていた。こうした矛盾した心理を抱え、反抗期を経験することもなく、いつしか他人行儀な言葉を遣う変則的な父子関係になっていった。そしてこの絶対的矛盾の中にいた健気な少年時代の自分を“救出”するために生まれたのが、小説「血の味」だったという。同書の“父親を刺す”という衝撃の結末は意図したものではなく、書き進めるうちに図らずもそこにたどり着いたらしいが、沢木にとってそれは必然であり、無意識かつ唯一の“父親への反抗”だったのである。
目的地はどこでもよかった。アジアから陸路でヨーロッパを目指すというコースを採ったのは、ほとんど偶然にすぎなかった。
私がヨーロッパに向けての旅に出ることを知った父は、ひとつの句を作った。それが、句会の宗匠に取り上げられた「巴里」の句だった。
薔薇の香やつひに巴里は見ざるべし
(第五章「竜舌蘭」より)
[2006年6月15日] この日の感想・書評へ→

異邦人
カミュ著/窪田啓作訳
私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。(第一部より)
要約すれば、「本心を偽らないアウトサイダー的な主人公ムルソーが、自分に正直過ぎるが故に、犯した罪以上の重罪犯として欺瞞的な社会から断罪され、“異邦人”として不条理に葬られてゆく」物語。
その正直さは、例えば女友達マリイの「自分を愛しているか」という問いかけに。「それには何の意味もないが、恐らくは君を愛してはいないだろう」と、ごく自然に答えるところに象徴される。大抵の男は(同じ思いであっても)多分そうは答えない。「もちろん愛しているさ」とか何とか、女が満足する答を口にする方が賢明だと知っているから。
それにしても今の世の中。「太陽のせい」に近い些細なきっかけで自制心を失う(=キレる)人間が増えている。もし舞台が現代ならこの小説は成立しなかっただろうし、「太陽のせい」という殺人動機のフレーズも、文学史に残る程のインパクトを持ち得なかったに違いない。
そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。私は大口をあけてどなり出し、彼をののしり、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞ、といった。私は法衣の襟くびをつかんだ。喜びと怒りのいり混じったおののきとともに、彼に向かって心の底をぶちまけた。(第二部より)
[2005年11月 9日] この日の感想・書評へ→

纐纈城綺譚
田中芳樹
逃げよ、と指文字は円仁に告げた。ここにいれば殺される。舌と両肢が麻痺して動かなくなる毒物を服まされ、生きながら血を搾られ、城の者どもはそれで布を染めるのだ。ここは悪鬼の棲む城、名を纐纈城という・・・・・。(第一章「秋風ノ巻」より)
中国には、「武侠小説」というジャンルがある。武術に秀でたスーパーヒーローが、様々な苦難に遭いながらも優れた体技で己の生き様を切り拓いていく娯楽文学で、古くから有名な作品としては「水滸伝」、現代の日本で言えば隆慶一郎の「一夢庵風流記」や「鬼麿斬人剣」、あるいは山田風太郎の奇想天外な忍者小説などがそれに通じるものがある。「ドラゴンボール」や「北斗の拳」も、ある意味では発展形(武侠マンガ?!)と言えるかも知れない。とにかく理屈抜きでストーリーの楽しさを味わうべき、エンターテインメントの極北である。
さて本書「纐纈城綺譚」は、日本人作家が手がけた武侠小説。「隋唐演義」「岳飛伝」「紅塵」などの編訳、創作で知られる田中芳樹の手になるもので、ストーリーは特に見るべきものはないが、中国の史書や資料を細かく読み込み、そこに登場する(日本人には)無名の実在の人物を主人公に据えたところに、作者の良心とこだわりを感じる。
「人の世にはさまざまな矛盾や欺瞞がございます。それを知り、悩む者ほど、詭弁によって動揺いたします。二十郎君は、どうお答えになりましたか」
「無辜の民を殺すのは悪だ、といった」
王式は静かにうなずいた。
「思うに、それこそが人の世における無上の真理であろうと心得ます。・・・」(第五章「白霧ノ巻」より)
[2005年6月12日] この日の感想・書評へ→

ヘミングウェイ全短編1 われらの時代 男だけの世界
アーネスト・ヘミングウェイ著/高見浩訳
頭上のメインスタンドでは、大歓声があがっていた。マエラは周囲のすべてがどんどん大きくなるのを感じた。次いで、すべてがどんどん小さくなり、また大きく、大きく、大きくなってから、またどんどん小さくなった。そのうち、すべての動きが映画のフィルムの早まわしのように早くなった。そして、彼は死んだ。(「われらの時代・第十四章」より)
20代前半の頃、アメリカ文学やハードボイルド小説にはまった時期に読んで以来久々のヘミングウェイ。といっても短編と長編を各二冊程読んだだけで、特に熱心な読者でもなかったので、枕詞のように触れられる「文学に革命を起こした独自の文体云々」についても、正直なところよく知らない。難しい事は脇に置いて、感情表現が最小限そぎ落とされたその心地よいリズムを、読み手としてただ楽しむだけである。
あとは、ごく稀にTVなどで闘牛のシーンを見た時、バーで好きなダイキリを注文する時に、ふとその名が頭をよぎるくらいか(但し彼のお好みは、正確にはフローズンタイプらしいが)。
「おれは持ちこたえられるぜ」ジャックは言った。「あんなウスノロに倒されたくねえや」 試合は彼の予想通りに展開していた。ウォルコットは倒せない、と彼は見抜いていたのだ。スタミナも切れつつあった。でも、彼は満足していた。金も確保できるだろう。あとは自分で満足のいくような決着をつけるだけだ。が、ノックアウトだけはくらいたくなかった。(「五万ドル」より)
[2005年3月19日] この日の感想・書評へ→

あふれた愛
天童荒太著
笑いは、やがてすすり泣きに変わった。自分の無力さがあらためて悲しく、みじめだった。足もとから力が抜ける。立っていられず、その場に座り込もうとした。
背中を抱かれた。
さほど太くない腕が、からだに回され、耳もとに、
「やっていけるよ」
と聞こえた。かぼそいけれど、芯に強さを感じさせる声だった。(「やすらぎの香り」より)
読後感に重苦しさを感じたり、悲劇的結末で終わると分かっている本は苦手な性分である。というわけで天童荒太という作家は、妙に気になりつつもイメージ的に“食わず嫌い”だったが、古本屋でぱらぱら頁を捲るうちに、まあこれなら大丈夫かなと思い購入した。
4つの短編はいずれも、恋人や妻など身近な人とうまく向き合えず、周りも傷つけ、自分自身も傷ついていく主人公による、再生への物語。こうした“静かなる家庭崩壊”をテーマにした本やドラマに触れるたび、子供の頃から私を一人の人格として認め、温かく見守りつつ好き勝手にやらせてくれた親に感謝したくなる。ただ放任された分、あんたはビミョーに常識を欠いていると人に言われることも少なくない・・・。
「話、聞くよ」
彼女は答えない。
「無理にはいいけどさ。話したくなったら、話せよ。何もできねえけど。ちゃんと聞くから。聞くことだけはするから」
美季はやはり何も言わなかった。背後にいるため、表情も見えない。しばらくして、喉が鳴る音が聞こえた(「喪われゆく君に」より)
[2005年1月11日] この日の感想・書評へ→

電車男
中野独人
名前:731こと電車男 投稿日:04/03/15 19:27
普通のアニヲタ、ゲーヲタの秋葉チャソです…_| ̄|○
年齢=彼女いない歴 無論、童t(ry
でも、俺がんがってみるよ
あの時の勇気をもう一度俺に…
万が一、隣に座ってたお姉さんと何か起こそうとしても 絶対、不釣合いなんだよね…_| ̄|
一緒に街歩いたりとか絶対出来ない (Mission.1緊急指令「めしどこか たのむ」より)
実際は本ではなくネット上で、それもストーリーを追うだけのために飛ばしながら読んだ。女性と交際経験のないオタクの青年が、2chの住人の励ましで無事恋愛を成就させるまでの顛末が、当事者たちの書き込みで綴られているという、書籍としては全く新しいスタイル。但しAsahi.comの紹介文で「読む人全てを熱い共感の渦に巻き込む、リアル・ラブ・ストーリー。」とあったが、これは持ち上げ過ぎ。
でも実際に複数の人々による匿名での書き込みであれば、著作権や印税収入の扱いが気になるところ。中味の全てが創作だとの疑惑まで浮上しているので、ますますややこしい。映画化や舞台化の話まであるし、巧く立ち回って儲ける輩が現れるのだろうね、きっと・・・。
俺は立ち上がって、座っている彼女に向き合った。
「あの、おれ」
とまた言葉が途切れる。緊張で死ねる。と思った
ここで今までの苦い思い出が次々へと思い出される…
彼女が俺の両手を取って
「がんばって!」
と言ってくれた。 (Mission.6「奇跡の最終章」より)
[2004年12月27日] この日の感想・書評へ→

卒業
重松清
「何月だったっけ、おまえが学校に戻ったの」 「十月。運動会のちょっとあと」 「三ヶ月以上かかったんだよな」 「うん・・・・・でも、三ヶ月かかったおかげで、うち、一生ぶんの『好き』をお母ちゃんから貰うたけん。シャワーみたいに、好き好き好き好き好き・・・・・毎日毎日、言うてくれたんやもん。うち幸せ者やと思う。世界中で、こんなに自分の親から『好き』を言うてもろうた子、絶対におらんもん。うち、世界一幸せな女の子なんよ」(「まゆみのマーチ」より)
近頃娘が重松清にはまっていると云うので、試しに借りてみたが、プロフィールを見ると私とほぼ同年代、青年期にくぐって来た世相や文化が共通しているせいか、すんなりとその世界観に溶け込めた。
中身は、親の死と家族の絆をテーマにした4つの短編集。昨年家内が母親を亡くし、私の母親も脳手術で生死の境を彷徨ったせいか、細かい描写に妙にリアリティを感じてしまい、つい涙腺が緩む。娘も泣いたらしいが、たぶん私とはその受け止め方は違うだろう。
「霊柩車の扉が開いた。棺がレールに乗せられた、そのときだった。 『先生!』 野太い声が、人垣の後ろのほうから聞こえた。顔はわからない。声に聞き覚えもない。だが、それは確かに父の教え子の声だった。 その呼びかけが引き金になったように、誰からともなく『あおげば尊し』を歌いだした。」(「あおげば尊し」より)
[2004年4月29日] この日の感想・書評へ→

血の味
沢木耕太郎
大学を出てまもない頃、広告の本に「コピーライティングの勉強には優れたエッセイを読むのが良い」と書かれていたので、梅田の旭屋書店で「第1回講談社エッセイ賞受賞」の帯を頼りに、平積みされていたエッセイ集「バーボンストリート」を買った。それが沢木耕太郎との初めての出会い。その独特のダンディズム、端正でリズム感のある文章、その後続けて読んだ数冊のノンフィクション作品の面白さにたちまちハマり、ほぼ全作を読みあさった。
「人の砂漠」を読んだ時、これだけの作品をこの人は自分と同じ20代で書いたのか、とショックを受けた。「若き実力者たち」を読んだ時、この人に描写してもらえる若い有名人たちがうらやましい、と感じた。「深夜特急」を読んだ時は、家庭を持つ前にこの本と出会っていれば、と心から思った。少なくとも、衝動的に一人旅に出る身勝手が許されたはずだから。
「中学三年の冬、私は人を殺した。ナイフで胸を一突きしたのだ。ナイフはBONEというアメリカ製のもので、刃渡りは8.7cmだった。」(第一章より)
自分自身、不安定で攻撃的な10代を経験しなかったせいか、こういった小説は正直苦手だ。何度か読み返したけれど、主人公が相手を刺さざるを得なかった必然性が伝わって来なかった。まあ衝動殺人なんてそんなものかも知れないし、読み手の力量 のせいかもしれないけどね。
やっぱり沢木耕太郎は、あくまでも取材対象の輝ける一瞬を鋭く切り取るノンフィクションライターであり続けてほしいな。
「そう、すべてにおいて後悔はしていない。もし私に後悔することがあるとすれば、私には私を殺してくれる私がいないということだけだ。」(第六章より)
[2004年1月18日] この日の感想・書評へ→

ドリンキング・ライフ
ピート・ハミル著/高見浩訳
「酒は内気な人間に自信を、迷っている人間に明晰さを、傷ついた孤独な人間に慰藉を、そしてとりわけ、愛と友情とつかみどころのない希望を人々に与える。ほとんど物心がつくかつかないうちから、酒は私の人生の一部だった。」(「はじめに」より)
酒の飲み方を知ったのは社会人一年目。私にコピーの基本を教えて下さった当時の上司のおかげである。高度成長期の輝きを知る旧き良き時代の広告マン。遊びの達人だった。新地のクラブ、老舗のショットバー、ビアホール、割烹、蕎麦屋、ガード下の立呑etc.。毎晩のように、ありとあらゆる酒場の扉を開いてくれた。背筋を伸ばし、深酒はせず、足元が危うくなりそうな時は「スマン、お先に」と、さりげなく勘定を済ませ一人席を立つ。きれいな飲み方を背中で教えてくれた。
ある冬の夜、新地で飲んだ帰りのこと。信号を渡ろうとしてその人は、膝から崩れるようにころんだ。「いやあ、面目ない」と照れ笑いをしていたが、その時既にガンに冒されていたんだと私が知ったのは、それから2ヶ月後だった。その人と一緒に興した会社、描いた夢は、やがてあっけなく消え去った。
あれから17年。あと5年で、私はその人と同じ年齢を重ねることになる。
「そこはさながらジョン・スローンの絵のように淡い琥珀色の光に包まれていた。長いカウンター。シャッフルボード・マシーン。ジュークボックス。窓際に置かれたテレビ。そしてテーブルが一つ。カウンターの背後では、さまざまなボトルが輝いていた。同じ棚の中央にはキャッシュ・レジスターが鎮座しており、一方の端にはホットドッグをつくるためのトースター、もう一方の端にはミス・ラインゴールドの広告が置かれていた。あの最初の晩、バーは満員で、暖かく、タバコの煙がたちこめていた。窓は蒸気でくもっていた。」(「自立」より)
*ピート・ハミルのその他の本
「ブルックリン物語」
[2003年10月22日] この日の感想・書評へ→

ブルックリン物語
ピート・ハミル著/常盤新平訳
「誰もがささやかな勝利と、口に出せない敗北の記録を持つこの店で。父が大言壮語し、法螺を吹きまくり、哄笑し、なんでも許してもらえるこの店で父に会いたかった。ぼくはいま、酒場が何のためにあるのか、なぜ男たちが夜おそく酒場に行くのかを理解した。」(第24章/p.144)
私が生まれた年に両親が洋酒スタンドを始めたので、3歳位から酔客に混じって、店にあったスロットマシンやジュークBOXで遊んでいた。丸々と肥えた“健康優良児”だったので、従業員や口の悪い常連客によくからかわれたが、今思えば楽しい時間だった。ただ子供心に「なんでこんな苦い水をおいしそうに飲むんだろう?」「なんでこの人達はまっすぐ家に帰らないんだろう?」と素直に不思議だった。
もちろん今となっては、酒が飲めない人、行きつけの店を持たない人が気の毒で仕方がない。
*ピート・ハミルのその他の本
「ドリンキングライフ」
[2003年5月 9日] この日の感想・書評へ→



あなたがいる場所
沢木耕太郎
少年少女でも最後まで読み通せる分かりやすさ、を意識して書いたという著者初の短編小説集。様々な年代の男女を主人公に、9編の不条理に満ちた日常が描かれている。絶対に嘘をついてはいけないと母に教え込まれた小学生の男の子が、公園で寂しそうに佇んでいた小さな女の子と出会うことで知った「嘘の中の『真実』」。娘を学童保育の滑り台の事故で亡くした父親と、見知らぬ子供を助けたために片腕を失った男との邂逅…、一つひとつの話はさすがに読みやすく、それなりに深い。しかし沢木の書くノンフィクションやエッセイに思い入れの強い昔からのファンからすると、沢木自身の目線が消された虚構の小説世界に対し、どうしても違和感を感じざるを得ないのではないだろうか。近頃は小説を書くことに情熱を感じているようだが、やはり私は、事実の中から“一瞬の真実”を切り取る、沢木耕太郎の渾身のノンフィクションがまだまだ読みたい。
トラックバック(0)
[2011年12月27日] この日の感想・書評へ→