エッセイ/社会評論
新幹線を運転する
何気なく乗っている東海道新幹線の、高度で優しい運転席へようこそ
早田森
「新幹線に限らず、電車の運転は、アクセルに相当する『マスコン』の操作と、『ブレーキ』の操作を組み合わせて行います。両者を同時に作動させることはしません。マスコンを1ノッチ以上投入するときはブレーキを緩め、逆にブレーキをかけるときはマスコンを0に戻します」
また、右足の足下にはペダルがあって、踏めば警笛が鳴る。(第1章「新幹線を操る」より)
生来飛行機が苦手なので、出張はいつも新幹線である。臨場感が味わえるかなと、あえて出張のタイミングに合わせて本書を読んでみたが、「へえ、この橋を通過する時はこんな事を考えているのか…」等々、運転士の心情とリアルタイムにシンクロできたので、読み方としては正解だったようだ。
内容は、ベテランの主任運転士への取材を元にした書き起こしルポ。運転室の様子、機器類の操作法、時刻通りに運転するためのノウハウ、時速270kmで目に飛び込んでくる光景、そして一日の勤務体系や職場の人間関係など、ふだん伺い知ることのできない運転士達の日常がつぶさに紹介されていて、かなり興味深い。一般人には絶対にできない「運転中に虹をくぐった」体験談や、「乗り心地が最も良いのはパンタグラフ付の車輌」「モーターの音が聞きたいなら2号車」といったマニアックな雑学もある。余談ながら、この道21年のベテラン運転士でも、「電車でGO」は苦手とのことだ。
「時速270kmでトンネルに進入すると、そうですね、舞台でいう『暗転』という感じでしょうか。時速270kmは秒速75m。トンネルの入口が見えたと思ったら、もう中に入っているので、一瞬のうちに照明を消されたような状態になります。ごく短いトンネルの場合は、わずか数秒で向こう側に通り抜けてしまうので、視界が一瞬暗くなるだけ、という感覚ですね」(第3章「運転席から見える風景」より)
[2012年1月 9日] この日の感想・書評へ→
和解する脳
池谷裕二・鈴木仁志
鈴木 法律の世界の立証というのは、科学的な証明とは全然違います。結局、裁判官が説得されたかどうかというだけの話です。
池谷 おもしろい世界だなぁと感じました。曖昧さが堂々とまかり通っていて。しかも、法に対して、われわれ人間は一定の信頼を置いてますよね。それゆえに法の下に社会が成立しているわけで…。こういう原理に、われわれが社会全体として信頼を置くこと自体、ものすごく不思議で、しかも巧妙なことのように思うんですよ。(第二章「裁判する脳」より)
脳科学者・池谷裕二氏と弁護士・鈴木仁志氏の対論。本書を含めて池谷氏の著作や対談本は難易度の高い科学的なテーマを食べやすく、しかも美味しく料理してくれるので、根っからの文系人間にとっては非常にありがたい。特に本書は文系人間にとっても取っ付きがたい法律と紛争・和解がテーマなので、その両分野の知見が明快に腹に落ちる点でまさに「一粒で二度美味しい」といった感じだ。
例えば「キリンは首が長い」事を立証するため、世界各地を実地調査して回ったとする。法廷では「各地で見たキリンは全て首が長かった」という“証拠”を積み重ねて帰納的に“仮説”を立証し、「キリンは首が長い」という判決を勝ち取ることは可能だ。しかし科学という分野では、「首の短いキリン」を一頭でも発見した時点で“仮説”は否定されるから、そうした反証可能性がある限り「キリンは首が長い」と永遠に証明できない。要するに「裁判の証明は帰納であり、科学の証明は演繹である」ということ。それぞれ棲む世界も思考回路も全く異なっている。では、法と科学の間に全く接点はないのかと言えば、そうではない。それどころか人間の遺伝子や脳に、「互恵的利他性」や「仲直り」を促すプログラムが備わっていると判ってきた今日。社会制度を運営する立場の人間と科学的知見を持つ専門家同士がコラボレートすれば、今より互恵的かつ協力的な社会を作れるはずだというのが、大雑把ではあるが本書の結論である。
鈴木 …互恵的利他行動というものがそういう実験でも出てきているというのは、非常に興味深い。こういう人間に特有の社会的な感情っていうのは、ほかにもありますよね。
池谷 ああ、ありますね。
鈴木 誇りとかね。自分が社会に貢献した、互恵的利他性にかなう行動を取っているということの快感。
池谷 そうそう、そこですね。人の役に立つことの快感というのは、僕は一種の観察学習だと思っているんです。人間は、他人が喜んでくれているのを見るのが好きなんですね。(第四章「助け合う脳」より)
[2011年12月17日] この日の感想・書評へ→
地雷を踏む男、踏ませる女
わかりあえない関係の真理
ハワード・J・モリス、ジェニー・リー
意見を求められたからって、ほいほい答えたらだめだ。「あなたはどう思う?」というのは、「黙ってろ」ってのと同じだから。その証拠に、どんな意見を言っても速攻で却下される。女は自分のイカレに鼻をつっこまれるのが大きらい。
もう一度言う。女のイカレに手出し口出しは無用。
これは勝ち目のない戦いだ。イカレは無敵。疾走してくる電車の前に立って、停めることができるか?(第5章「女とイカレのあいだ」より)
原題はWomen are crazy, men are stupid。「女はイカレてて、男はバカである」と直訳できるが、「地雷を踏む男、踏ませる女」というタイトル訳は絶妙。長年結婚生活を続けてきた人(特に男)なら、タイトルだけである程度中身が想像できるだろう。過去に私も数えきれない程地雷を踏んだが、何度も吹き飛ばされたおかげで随分と受け身も巧くなり、近頃は地雷の在りかを敏感に察知できるようになってきた(と自分では思っている。でも明日にはエラい目に遭っているかも知れない)。それはさておき…。
本書は習性や考え方がまるで違う男と女が、お互いにどう歩み寄って巧くやっていけばいいかを、人気脚本家同士のカップルが自分達のエピソードをふんだんに晒しながらユーモラスに描いた共著のエッセイ。アメリカではドラマ化も決定したらしい。
男の視点からは、読んでいて身につまされる場面も少なくない。おそらく同じ箇所を女が読むと、「だから男は…」と吐き捨てたくなるのだろう。お国柄の違いもあって微妙に共感しづらい箇所はあるが、男と女の間に深くて暗い川があるのは、所変われど皆同じということか。
真実はひとつ。奇跡は起こらない。そう、女はイカレてて、男はバカだということ。
この本は「軽いひと押し」だと思ってほしい。
相手をいまの態勢からちょっと押してあげて、自分自身もちょっとだけ動く。そうやって二人のあいだに、愛と尊敬があふれる穏やかな空間をつくりだす。だたしそうなるには、おたがいが自分のふるまいを変える—少なくとも自分の行いを振りかえる—ことが不可欠だ。男と女はそれぞれ出発点が違う。それをわかったうえで、いまよりほんの少し距離が縮まれば、いまより寂しくなくなるはず。(第11章「クレージー・ラブ」より)
[2011年12月14日] この日の感想・書評へ→
死のテレビ実験
人はそこまで服従するのか
クリストフ・ニック+ミシェル・エルチャニノフ
システムとしてのテレビには、主義主張など何もない。学校のように人々を教育しようとするわけでもなく、宗教のように大きな理想を掲げるわけでもない。政治のように人権を擁護しようとか、経済を発展させようとか、平等な社会を実現させようとか、そんな意図もまったくない。あるのは、「面白くするためなら何をやってもいい」という価値観だけである。テレビは何も目的を持たないまま、ただひたすらこの価値観を私たちにささやきかけて、植えつけていくだけなのだ。(第12章「自己増殖する〈権威〉」より)
1960年に行われた通称「アイヒマン実験」で一大センセーショナルを巻き起こした、S・ミルグラム「服従の心理」の現代版。
悪趣味なテレビ番組が増殖しているフランスで、「このまま行けばテレビは人を殺しかねない」と憂慮したテレビマンと哲学者が、2009年にある実験を試みた。架空のクイズ番組「危険地帯」のパイロット版を制作する名目で公募した被験者80人に対し、解答者(実は俳優)が間違える度に、死の危険性を秘めた 460ボルトまで電気ショックを与え続けるよう命じたのである(但し実際には通電されていない)。その結果は予想を上回る恐ろしいものだった。ミルグラムによる同種の実験では、最後まで電気ショックを与え続けた被験者が60%強だったのに対し、今回は81%に達したのである。そして半世紀前の被験者は「科学実験」の場で「科学者」という権威に服従したのに対し、今回の被験者は単に「テレビ番組の収録」という場で、権威などない「無名の司会者」に服従した。即ち「テレビというシステム」の命令に、人々が服従したのだ。
日本では若い世代を中心にテレビ離れが加速し、テレビの影響力は以前程ではないとされる。ただ、テレビで露出の多いアイドルが人気者となり、ドラマやCM とタイアップした楽曲がヒットチャートを賑わし、人気ドラマが映画化され観客を集めるという構図は暫くは変わらないだろう。「テレビが殺人を犯す」可能性に警鐘を鳴らした本書の問題提起は、決して軽いものではない。
テレビは今や手がつけられないほど肥大化し、「面白くするためなら何をやってもいい」という原理だけで、面白くするための「暴力」をまきちらしながら、歯止めもなく暴走している。その暴走を止められるのは私たちしかいない。私たちの一人ひとりがテレビの〈権威〉の恐ろしさを知り、それと同時に自分もまた人間として普通に〈権威〉に服従しやすい存在であるのを知ること。「テレビの危険」から身を守るには、それしかないのである。そうしなければ、私たちはいつか本物の電流を流す、本物のクイズ番組、「危険地帯」の出題者の席に座って最後の四六〇ボルトまでレバーを押しつづけることになるだろう。(「エピローグ」より)
[2011年12月 8日] この日の感想・書評へ→
戦略は直観に従う
イノベーションの偉人に学ぶ発想の法則
ウィリアム・ダガン
戦略的直観は、漠然とした予感や本能的な直観のような「単なる直観」とは一線を画す。単なる直観とは感情の一形態であり、思考ではなく感覚である。戦略的直観はその正反対の概念で、感覚ではなく思考なのだ。明確で傑出した思考をもたらす突然のひらめきが、人々の脳裏にある霧を晴らす。ひらめきを得た瞬間、感情的に高揚しつつも、思考自体は冷静沈着である。ついに自分が進むべき道が明確となり、気持ちが高ぶってくるだろう。(第1章「ひらめきと第一感」より)
コペルニクスからビル・ゲイツまで、イノベーション史上の偉人の事績に学びながら、「戦略的直観」の重要性について論じた実践的かつユニークな一冊。
一般的に企業戦略論と言えば、「競争の戦略」のマイケル・ポーターに代表されるように、市場や競合、自社の強み・弱味を分析した上で、目標とするポジションを決めるという分析的な考え方が主流である。そして往々にして戦略自体は与件として扱われ、戦略の“形成”という思考過程について考察されることはない。しかし著者は、ダイナミックに変化を遂げる今日の市場環境にあっては、直観重視の戦略策定こそが実践的だと説く。そして目標ありきで事に臨むより、機会に備え、機会を見極め、機会に基づいて行動しながら柔軟に目標をリセットする方が望ましいと。確かに本書の事例を見ても、成功者たちは意外なほどコロコロと目標を変えている。
もちろん直観=単なる思いつきではなく、(1)既存の情報や要素を脳内に蓄積する(2)平常心を持ち、あらゆる考えに心を開く(3)ひらめきにより既存の要素を融合する(4)意志の力で実行する という四つのプロセスがあってこそ、「戦略的直観」を発揮することができるという。
“ひらめく”ためには、まず脳内への地道なインプット作業が必要である、ということだ。
戦略的直観は、芸術においても他の分野と同様に働く。イノベーションとは、創造的な組合せによってもたらされるものであり、過去の断片的な要素を新たな役立つ方法で結びつけることで生み出される。とはいえ、ピカソの才能をおとしめることにはならない。単に、その才能が意味するところを説明しているにすぎないからだ。ピカソ自身が独創的だからこそ、その組合せも独創的なのである。ただ、その組合せの構成要素自体はありふれたものである。(第9章「アフリカの彫刻と食事をするピカソ」より)
[2011年11月21日] この日の感想・書評へ→
となりの車線はなぜスイスイ進むのか?
交通の科学
トム・ヴァンダービルト著/酒井泰介訳
米をじょうごに注ぎ入れると詰まってしまうのはなぜか?じょうごに降り注ぐ米の量は、じょうごから落ちていく量よりも多い。システムは、どんどん密度を増していく。個々の粒が互いに触れあう時間は延びる。じょうごの壁面の抵抗にも、より引っかかるようになる。となると、「高速道路の車のようなものだ」とナイジェルは言う。「そして交通の流れを絞るのは、じょうごに何かを通すのによく似ている」(第4章「どうしてアリの群れは渋滞しないのか」より)
副題に「交通の科学」とあるが、読んだ実感としては科学というより、「運転を題材にした『経済心理学』」の本という印象。丁寧な注釈を含めて相当中身が濃いため、2度の出張を経ても読み終わらず、読了まで一週間以上もかかってしまった。プロローグ+9つの章の全てが、日常的に車を運転する者にとっては、驚きと発見と納得に満ちた内容になっている。予想以上に面白かった。
「アフリカの村でもアメリカの都市でも、一日あたりの往復通勤時間は1.1時間程度である。」「ロンドンのケンジントン・ハイ・ストリートでは、道路標識を95%撤去した所、交通量が減らなかったにも関わらず事故が60%減った」「統計的に離婚歴のある人の運転は危険」「通勤時間が延びている地域は最も所得格差が広がっている地域である」「社会腐敗の少ない国ほど交通の安全性が高い」「渋滞の多い都会の道より快適な田舎道の方が事故が多い」…etc.。
これらのトピックはほんの一部に過ぎず、とりわけ第7章「危険な道の方がかえって安全?」はタイトル通り、海外における豊富な成功例にも裏打ちされていてまさに目から鱗状態。確かに見通しの良い道ほど人はつい飛ばしたくなるし、見通しが悪く危なそうな道では自ずと慎重な運転になる。その結果は推して知るべし。まさに「逆転の発想」である。
危険物こそ、安全装置なのだ。失敗する余地の少ない状況では、ドライバーは細心の注意を払うようになるらしい。あるいは少なくとも、自らの失敗を「許容」してくれる速度で走るようだ。…(中略)…よき環境作りを顧みずに絶対的安全を追求すると、通りや街の魅力を減じるばかりか、たいていの場合、かえって安全も損なってしまう。(第7章「危険な道の方がかえって安全?」より)
[2011年11月 9日] この日の感想・書評へ→
非社会性の心理学
なぜ日本人は壊れたのか
加藤諦三
約束もしない。それを守ると言うことを意識すらしない。それでもそれを守る。
お互いに言わなくてもお互いに当たり前にそれを守って生活をして行く。
それが自然に生活をしていると言うことであろう。
非社会的な人は社会の枠組みからはずれている。
社会の枠組みからはずれている人が何かをしたときに、「その動機は何か?」と追及することは無駄である。社会の枠組みの中での動機などない。(第2章「自然な感情や共通感覚はコミュニケーションから生まれる」より)
近頃、マトモじゃないなあと思う人達の話をよく耳にする。「望んで子供に食べさせてる訳ではないから」と、裕福なのに給食費を払わない小学生の親。「私も同じ電車賃を払っているのだから」と、高齢者に席を譲らず平然としている若者dtc.。わざと屁理屈を言って周りを困らせる人は今も昔もいるが、最近のマトモじゃない人達は、それとは少し違う。本書で言う「非社会的」な人々である。非社会的な人とは、「人として当たり前の感情」を持っていない人のこと。「反」社会的な人は法律で取り締まることもできるが、「非」社会的な人は、法に触れる行動を取る訳ではない分始末が悪い。
こうした非社会性を、著者は歴史的・社会経済的な視点も含めていろんな角度から分析し、世の中が合理性や効率を追求しすぎた故にこの種の感覚を持つ人が増えたのだ…と結論づけている。「当たり前の感情」を持たない人達が増殖すると、この先日本は相当ヤバイことになりそうだが、本書にも確たる処方箋はない。
共通感覚とか自明性と言うのは、共同体を共同体たらしめている意識である。それなしに共同体は存在できない意識である。
その意識のないのが非社会性である。
法には反していないけど、人道に違反している。
それをする人の共通性がある。それはずるくて一貫性がないと言うことである。彼らは利己主義で自己中心的で所属感が欠如している。それが非社会的な人の共通性。(第4章「非社会化する日本社会、非社会性の浸透」より)
[2011年10月 9日] この日の感想・書評へ→
今夜もひとり居酒屋
池内紀
居酒屋は人生の夜学であって、たのしく酔いながら、いわず語らずのうちにさまざまな勉強のできるところだ。その校門を出ていくとき、けたたましいベルが鳴ったりしない。もっと風雅であって、夜風がきちんと時間の推移をおしえてくれる。(「人生の夜学」より)
本格的に独りで飲み始めてから、“知り合い以上・友達未満”といった顔なじみが増えた。お互い過去も素性も詳しくは知らず、勤め先や年齢さえ知らなかったりする。店で顔を合わせると酒杯を手に楽しく時を過ごすが、帰りたくなれば「お先に」と切り上げるし、飲み足りなければ誘い合わせてはしごをする。若い頃は友人や職場の先輩と飲みながら熱い議論を交わすのが常だったが、四十の坂を越えいろんなしがらみが増えるにつれ、酒場での緩い人間関係に心地よさを覚える様になって来た。特に行きつけの店ができて居心地が良くなると、楽しさと快適さは倍増する。勿論快適な空間を見つけるためには、ある程度の身銭を切る必要があるのは言うまでもない。
そもそも夜の巷で授業料を収める程、酒場での立ち居振る舞いや作法は様になってゆく。飲み方、酔い方、仕草、店の人への態度、引き際、勘定の払い方等々を通じて、その人の品性は自ずと顕れて来るのである。だからこそ、人様から「反面教師」と目されない様な飲み方を磨くため、今宵も独り酒場へと向かう。
足しげく通うからといって誰もが「おなじみさん」になれるわけではない。店のことを何だって知っていても、大切な常連さんというのでもない。居酒屋と常連の関係は、父親と子供のそれとよく似ている。父親になるのは簡単だが、父親でありつづけるのは難しい。それと同様に、おなじみになるのはたやすいが、常連でありつづけるのは難しい。…(中略)…主人と常連の関係の難しいのは、親子の関係が厄介なのと同じで、親しみすぎてもよくないし、知りすぎるのも考えものだ。(「おなじみさんのあり方」より)
[2011年9月20日] この日の感想・書評へ→
日本人のための戦略的思考入門
日米同盟を超えて
孫崎享
日本の多くの人は、日米同盟の下、米国は領土問題で日本の立場を強く支持していると思っている。だが、実態は違う。竹島では韓国の立場を支持し、尖閣諸島では日中のどちら側にもつかないと述べている。北方領土は安保条約の対象外だ。びっくりすると思う。しかしこれが実態だ。(第六章「現代日本の安全保障戦略」より)
こと外交の世界において「戦争」の反対語は「交渉」であり、「孫子」の要諦も、「戦わずしていかに相手を従わせるか」にある。そのためには「敵を知り己を」知った上で、冷徹に「兵は詭道なり」を実践する構えが必要だ。そして憲法上も世論の趨勢上も、自衛のための戦力しか持ち得ない(=先制攻撃ができない)戦後の日本程、この孫子の教えを尊重しなければならない国はなかった。
しかし本書を読む限り、日本の国家戦略の未来図はあまりに心許ない。「日米安保条約」さえあれば大丈夫、という他力本願の発想は、かつて米ソが「相互確証破壊戦略」の下、ギリギリの均衡を保っていた20世紀末までの話。「東西対立」の構図が意味を失って20年が経ち、中国が飛躍的に国力を増強し続ける中、人口が減少し経済力も衰退し始めた日本がいかに存在感を示し、国際政治の舞台でいかに自らの発言力を維持していくのか。今こそ、歴史から学ぶべき時なのかも知れない。
中国が米国を核攻撃する能力が高まるにつれ、米国は中国に明確に「日本への核の傘はない」と伝達していくだろう。抑止論は曖昧なものではない。超大国はとことん詰め、双方に曖昧さが残らない状況を作ってきた。
「相互確証破壊戦略」は、相手国が米国を完全に壊滅できる核兵器の能力を持った時に出てくる戦略である。相手国が米国を完全に壊滅できない時には、別の戦略が適用される。
つまり、北朝鮮の核兵器に対しては米国の抑止が働くが、中国に対してはそうではない。(第六章「現代日本の安全保障戦略」より)
[2011年7月22日] この日の感想・書評へ→
ことばから誤解が生まれる
「伝わらない日本語」見本帳
飯間浩明
学生だけでなく、一般の人々の間でも、「抜け目がない」の語感が向上している気配があります。新聞記事のデータベースを見ると、全国紙の地方版などに、このことばをいい意味で使っている例が散見されます。これは、校閲の目が十分行き届かず、記者のことばがそのまま出てしまったものと考えられます。
もし、「抜け目がない」の語感に異変が進行中だとすれば、これを悪い意味で使う人と、いい意味で使う人との間に誤解が増えていくはずです。 (第3章「語義から生まれる誤解」より)
仕事柄、新卒採用関連の取材原稿を書く機会が多い。読み手は20~22歳の就活学生。従って必然的に今の若者に理解されやすい文章に仕上げなければならない。ただ取材対象はほとんどが社会人で、中には年配の役職者も含まれるため、発言をそのまま文章化すると少々悩ましい事態が生じる場合がある。
例えば「手をこまねく」という言葉。元々は「何もせず傍観する」の意味だが、文化庁の調査(2008)によると元の意味で使う人(40.1%)に比べ、「準備して待ち構える」の意味で使っている人が45.6%に達した。つまり「営業チャンスが来るのを、手をこまねいて待ってはいけない」という発言が、「準備して待ち構えてはいけない」と真逆の意味に取られかねない。ましてや語源的に正確な「手をこま“ぬ”いて」を使おうものなら、学生達には発言者の誤りか誤植と思われるのがオチだ。同様に「突貫工事で完成させた」という発言も、「短期間で一気に仕上げた工事」という元の意味ではなく、「拙速な手抜き工事」のニュアンスで受け取る人も多いから不用意に使えない。そこで書き手としては、今日の学生向けに言葉を選び直そうと努める訳だが、オリジナルの発言を活かそうとすればする程さじ加減が難しく、いろいろと悩ましい。
ついでながら「悩ましい」という言葉も、使い方一つで色々官能的な匂いが付くから要注意である(ex.「専務は悩ましげにため息をついた」の主語が「秘書」に換わると…)。
「突貫工事」が「拙速な手抜き工事」の意味で使われはじめたのは、むしろ近年のことだと、私は考えています。言わば、こちらのほうが「乱れた意味」です。それなのに、ある人にとっては、むしろ「正しい」と認識されていて、本来の意味のほうが「間違い」「正したほうがいい」と考えられています。
このような例は、決してめずらしくありませんん。ほかに、「なやましい」もその典型的な例です。(第3章「語義から生まれる誤解」より)
[2011年7月18日] この日の感想・書評へ→
不可能性の時代
大澤真幸
したがって、虚構の時代の後に、現実を秩序づける準拠点となっているのは、この認識と実践から逃れゆく「不可能なもの」である。すなわち、現代の現実を秩序づけている半減実は、直接には見えていない「不可能性」である。「理想→虚構→不可能性」という順で、基準的な反現実の反現実性の度合いは、さらに高まっているのである。われわれが今、その入り口にいる時代は、「不可能性の時代」と呼ぶのが適切だ。(V「不可能性の時代」より)
「現実」という言葉には「理想」「夢」「虚構」という三つの反対語があり、見田宗介は2006年に岩波新書「社会学入門」で、この三つの反対語を使って日本の現代社会史を区分した。第一は終戦から六〇年頃までの、人々が〈理想〉に生きようとした「理想の時代」。第二は、六十年〜七十年代前半までの「夢の時代」。そして第三が、七十年代後半からの「虚構の時代」である。
そして東大・見田ゼミ出身の著者は師のテーゼを継承する形で、オウム真理教事件のあった九五年を「虚構の時代」の極限=終焉と位置づけ、そこから現在へつながる時代を「不可能性の時代」と概括。現代の閉塞の根源と脱出への回路を本書で論じている。
ただ、この「不可能性の時代」という言葉、見田氏の「理想−夢−虚構」と比べていかにも分かりづらい。乱暴に趣旨をまとめれば「理想や夢を持つことが不可能な」時代、本書の表現を借りて掘り下げるなら「積極的に認識し、追体験することが決して不可能な〈虚構的現実〉へ逃避する」時代、ということになるのだが、妙に言葉を捻りすぎているせいか、すんなりと腹に入ってこない。
われわれは、いまや、〈不可能性〉とは何か、不可能な〈現実X〉とは何かを、推定しうるところにきた。〈不可能性〉とは、〈他者〉のことではないか。人は、〈他者〉を求めている。と同時に、〈他者〉と関係することができず、〈他者〉を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの〈他者〉こそ、〈不可能性〉の本態ではないのだろうか。(V「不可能性の時代」より)
[2011年6月 1日] この日の感想・書評へ→
バーテンダーの美学
酒場の方程式
佐藤謙一
お客様がBARのドアを開け、人を介さないで入り口から椅子に座ろうとするまでの間に感じるBARの空気も、そのお客様にすれば一期一会と解釈してもいいのではないでしょうか。BARが醸し出す空気は、照明やBGM、またバック・バーやスタッフとしてのバーテンダーも含めて、毎日は同じでなく毎日が違うのです。そう考えますとBARの空気というのは、とても大切な要素と思われます。(III「バーテンダーは職人」より)
著者は帝国ホテルのバーで23年勤務し、その間いくつかのカクテルコンクールで優勝。その後独立して銀座に「ルヴェール」を開店、2009年からは郷里の秋田に店を移したベテランの一流バーテンダーである。切紙作家として知られる著者の友人・成田一徹氏の表現を借りると「胸板があつく、背筋がピンと伸びていて、白いバーテンダー・ジャケットが実に似合う。強面ながら笑顔が優しい美男子。ビデュアル的にもいかにも絵になるバーテンダー」とのことだ。
内容は、40余年の経験をもつ先輩バーテンダーから若いバーテンダーに対する、カクテルのレシピ付きメッセージ。何とか今のうちにプロフェッショナルとしての矜持と心構えを次世代に伝えておかねば…という熱い想いが行間から滲み出ている。一介の酒飲みにとっても、一流のバーテンダーに“良い客”と見られるにはどう振る舞えばいいか、という視点で読むと結構興味深い。
アメリカには『弁護士と医者とバーテンダーを友人に持て』という言葉があります。…(中略)…また私が教えられたのは『バーテンダーは牧師であり、医者であり、弁護士であり、銀行家であり、教師であり、親であり、兄弟であり、友人でなくてはならない』という言葉でした。…(中略)…このようにバーテンダーは、人の人生の生き方にも深く係わるような仕事でもあることを、深く理解しなくてはならないでしょう。(III『バーテンダーは職人」より)
[2011年5月14日] この日の感想・書評へ→
新華僑 老華僑
譚路美・劉傑
だが戦争が激化すると、行商人はスパイ行為を疑われて特高の監視対象となり、逮捕者が続出し、強制送還される者も多くなり、全国ネットワークは崩れ去った。 一九三七年十二月、全国の華僑の逮捕者は三百六十二人にのぼり、上海へ強制送還されたり、拘禁されて拷問を受けたりした。(二「神戸−ふたつの中国世界が混在する町」より)
かれこれ17、8年前。家族が寝静まった真夜中にふとテレビをつけると、テレビ画面の中に祖母がいた。「何で?」思わず声を上げてしまった。訳が判らない。
ともあれ、気を取り直して番組を見続けていると、戦時中、神戸で大勢の華僑の行商人がスパイ容疑で連行、拷問を受けた事件をテーマにしたドキュメンタリーだった。そして行商人だった私の祖父も、隣家の知人と共に連行され拷問を受けたが、特高の中に善意の人がいて、冤罪に気づき助けてくれたという。ただ、共に連行された知人は既に拷問で命を落としていた。祖母はその悲しい事件の語り部として登場していた訳だ。
祖父が逝ってから39年。幼い頃は時々一緒に山登りをしたが、とても寡黙な人で、そんな話を聞かされた記憶はない。祖母や父や親戚の誰も、私にそんな過去を語ってくれた事はなかった。
自分の家族の物語を偶然テレビ番組で知ったという、嘘のようなホントの話。
「神戸はフレンドリーな町ですよ。よそ者が多い町です。日本人の次男坊たちが田舎から出てきて作った町なのです。次男坊とはつまり、よそ者なのです。それに西洋人と中国人がいる。みなゆったり仲良く暮らしています」と、藍氏は目を細めて語った。
そういえば、作家の陳舜臣氏もこう語っていた。
「神戸はゆったり上品な町で、魅力的なところです。台湾でもいくども夢に見ました。『出船入船』による出会いと別れが頻繁にあるのですよ」(二「神戸−ふたつの中国世界が混在する町」より)
[2011年4月25日] この日の感想・書評へ→
刑事眼
伝説の刑事の事件簿
三沢明彦
事件しょった、いい泥棒が少なくなった。昔は泥棒にもこだわりがあった。いい泥棒もいなくなったけど、いい刑事も育たなくなった。いい泥棒がいい刑事を育てるんだ。これも時代かねぇ。 泥棒の世界はおもしろい。いろんなやつがいる。嫌いなやつも確かにいる。でもどうしても憎めないやつもいる。信用できるやつだっていないわけじゃない。奥が深い。だからやめられない。幸か不幸か、泥棒の世界にのめり込んじゃったんだよ。(第一章「形無きを見る」より)
3000人の泥棒の手口を記憶する手口捜査官、凄腕スリとの真剣勝負に賭けるモサ(スリ)刑事、全国の手配写真を頭に叩き込んで雑踏から手配犯を見抜く見当たり捜査官など、元ベテラン新聞記者が、伝説の刑事達へのインタビューを通じて、犯罪の本質と捜査の要諦に迫った迫真のドキュメント。その生き様と仕事ぶりは、刑事ドラマや小説でも出会ったことのない、凄まじいばかりのプロフェッショナリズムに満ちている。
現場に残されたわずかな犯人のクセを見逃さない、人混みの中で微かに視線が落ちる「スリ眼」を見抜く、ひたすら手配犯の写真を眺めて頭の中に実物のイメージを作り上げる等々、伝説の刑事達の仕事は「眼」が全てだと口を揃える。「現場を捨てたら眼が死ぬ」と語る者もいる。皆特殊な技能を生まれ持った訳ではない。あるのはただ、「絶対に捕まえる」という強い意志と諦めない心、そして自らの仕事に対する誇りであり、愚直なまでにその生き方を貫く。ただそんな彼らも、捕まえた犯人に対してはそれぞれの人生に思いを馳せ、心から更正と社会復帰を願っている。自分が過去捕まえた犯人達に、毎年欠かさず賀状を送る刑事もいる。
地味でリアルな刑事達の“現場”に立ち会える一冊。
人様の物に手をつける。ワルには違いない。でもまだどこかに人の心が残っている。少なくとも強盗や人殺しのような外道じゃない。
人の心が残っているやつらには、早く罪を償って、少しでも穏やかな最期を迎えてほしいね。それがなかなかできないんだよ。まっとうな人間に戻るのは、足を洗うってのは、本当に難しいもんだ。(第三章「泥棒語り」より)
[2011年3月 1日] この日の感想・書評へ→
カッシーノ!
浅田次郎
思うにバクチの才能とは全き天賦のものであって、経験の積み重ねによって上達するということはほとんどない。その点、文章の上手下手などというものは、天賦の才も多少あるにはあるが、修練と努力とが決定的に物を言う。つまり生まれついてのバクチ打ちはいるが、生まれついての小説家はいない。(MONACO4「偉大なる小国家」より)
「バクチの合間に小説を書いている」と自負する浅田次郎による世界のカジノ探訪紀。生粋の博打打ちである著者の文章は、いつもの泣かせる小説世界とは趣を変え、軽妙な洒脱さと明るさに充ち満ちている。
カジノと言えば、15年以上前に一度だけ足を踏み入れ、3万円近く儲けさせてもらった。沢木耕太郎の「深夜特急」に、マカオのカジノで「大小」(サイコロゲームの一種)にのめり込む白熱の描写があるが、社員旅行で訪れたゴールドコーストのカジノで「大小」を見つけたので、名場面を追体験すべく挑戦したのである。2時間近くも懸命に出目の流れを読み、セコく張り続けた末のささやかな戦果だが、このビギナーズラックで調子こくなよと己を戒めつつも、ギャンブルの“魔”を一瞬だけ垣間見た。
スポーツなら努力で何とかなる場面もあるが、賭け事の勝ち負けは運次第。「一天地六」の言葉通り、賽の目一つで運命の天地は一転する。ギャンブラーはそれを神の領域と呼び、臆病な庶民は地獄への扉と見るが、扉の向こうには確かに、人の弱き心を搦め取る甘い蠱惑の輝きがあった。
「いかに熟練したディーラーでも、この不規則な障害物がある限り、思った場所にボールを落とすことなどできるはずはありません」
マネージャーはそう言ってニッコリと笑い、私はウームと考えた。話しながらマネージャーの投げたボールは、「0」に落ちていたのである。
「これは?」
「もちろん、偶然です」
その先の質問から身をかわすように、マネージャーは去ってしまった。(SEEFELD13「登山電車に揺られて」より)
[2011年2月20日] この日の感想・書評へ→
ヒトはなぜヒトをいじめるのか
いじめの起源と芽生え
正高信男
動物界では、争いのパターンが「タカ型」と「ハト型」に二分されることが定説になっている。タカはふだんから壮絶な争いが絶えないので、争いの仕方にもルールができていて、一回ごとの決着がわかりやすい。一方、一見穏やかに見えるハトは日ごろ、闘い慣れていない分、いったん攻撃が始まると手段を選ばない。止める個体もいない中でエスカレートする一方になり、徹底して相手を傷つけることも珍しくない。(第1章「動物の世界に『いじめ』はない」より)
「いじめは被害者と加害者だけでなく、見て見ぬふりをする傍観者がいて初めて成り立つ」。「母親密着、父性不在、希薄な人間関係が今日の子供をいじめに駆り立てている」。「ゲームにハマると他人の痛みへの感性が麻痺し、ケータイメールなど匿名性のあるツールがいじめを助長させる」。本書のエッセンスをまとめるとこんな感じで、合間合間に著者の専門分野である「サル」との比較が挟まる。
内容に特段異論はない。根拠に乏しい推論も散見されるが、論旨自体には肯けるものが多い。でも結局のところ、この本自体が傍観者的な分析と議論に終始しているから、何の解決も見出すことはできない。そもそも誰に向けて、何のために書かれた本なのだろう?
いじめをテーマに本を出すなら、もはや分析や問題提起だけで済ませている場合ではない気がする。
加害者、被害者、傍観者の三者は状況次第で、いつ入れ替わっても不思議ではない。「いじめられやすい人間が存在する」という固定観念は、偽りである。「いじめられる側にも相応の理由があるのでは」という声が聞かれるたび、話が複雑にこじれてしまう。…(中略)…誰しもいつ何時、攻撃の標的になるか予測がつかないとみなす方が真実に近い。(第3章「『いじめ』の芽生え」より)
[2011年2月10日] この日の感想・書評へ→
リアルのゆくえ
おたく/オタクはどう生きるか
大塚英志・東浩紀
大塚 …国家なんて、ある特定の人間が洗練されたシステムの中で運営していけばいい、残りの人間は考える必要もないと言ったときに、東浩紀は考えない側にいるの?それとも洗練された運営する側にいるの?それともそれを傍観する立場にいるの? 東 傍観する立場です。官僚でも政治家でもないですから。
大塚 うーん……それでも、批評家っていう仕事は成り立つの?
東 成り立たないかもしれませんね。
大塚 じゃあ、なんで批評家やってるの?(第三章「2007年ーおたく/オタクは公的になれるか」より)
一言でいえば「噛み合わない対談集」である。大塚は「批評家の責任」と「公共性」という観点から、何度も東の傍観者的姿勢を批判・挑発するが、東は大塚の言葉をやんわり相対化しながら、価値観や嗜好が細分化(タコ壺化)された現代では、時間をかけて言説で人々を啓蒙するより、工学的な社会システム=アーキテクチャを整備して人を導く方が効率的だ、との自説を繰り返す。早い話が、「高い知性を持つ知識人のクセに、なぜキミは覚悟を決めて啓蒙的言説を唱えないの」とイラつく大塚に、「僕は共に分かりあえる人たちとの遊び場を作れれば、それでいいのですよ」と受け流す東。全編その繰り返しである。
予定調和的なヌルい対談本よりは、余程刺激的で面白さも感じられるが、読み終わっても何も残らない知的な時間潰しといった感じか。
東 …たとえば「本屋大賞」ってありますけど、あれは書店員がお互いに空気を読んで決めているようなものですね。
大塚 既存の文学賞だってみんな文壇の空気読んでるだけだよ。
東 いや、そこはちょっと違うと思います。問題は、権威というか、固有名が出ている人間が少数で何かを選ぶことへの不信感がすごく強まった、ということです。その不信感自体は正しいんだけど、結果として出てきたのが、名前がない多数が空気を読み合って決めるという、もっともわけのわからない状況。(第三章「2007年ーおたく/オタクは公的になれるか」より)
[2011年2月 2日] この日の感想・書評へ→
思考のレッスン
発想の原点はどこにあるのか
竹内薫・茂木健一郎
茂木 われわれの共通の師匠である養老孟司さんが外国人にいつも言われるっていう「日本人はほんとの意味で生きていない」っていうのは、そういう意味でしょ。
竹内 そうそう、そうなんだ。
茂木 自分の中に基準がない。
竹内 そう、基準ないなあと思うことが多くて。さっきの話じゃないけど、今、エネルギーがぱっと切れたら、たぶん無法地帯になりますよ。(対談1「危うさに対する感受性の欠如」より)
本書の趣旨を手短にまとめるなら、一芸に秀でて成功するのは難しいが、多芸の合わせ技で人生を乗り切ってみたら案外やれるよ、という「なんでも屋のススメ」である。共著のような体裁だが、全体の2/3に当たる地の文は竹内薫によるもの。「思考のレッスン」というタイトル程の知的刺激はないが、数々の実例を挙げながらの、「専門バカではダメ、積極的に学問的領域の壁を乗り越えよ」とのご両人の主張には賛同する。
そういえば高三を迎える前に進路選択があり、理系の成績が壊滅的状況だったため躊躇なく文系を選んだが、もともと小学高学年の頃まではラジオを組み立てたり、ハム(無線)の免許を取るため電子工学の初歩を繙いたりしていたことを、本書を読みながらふと想い出した。誰しもちょっとした思い込みと巡り合わせで、自分の可能性を自分で狭めてしまう瞬間があるのだろう。
竹内 でも、自分が理系人間か文系人間かで悩むことはなかった?…(中略)
茂木 いや、理系か文系かって、世の中の人が普通はそういう発想するってのはよくわかってるけども、僕にはその気持ちはよくわかりません、そういうのは。
竹内 じゃあ、子どもの話っていうことで、子どもが進路を決めようと迷ってるとするね。それでたとえば数学が苦手なら、じゃあ文系を勧めるのか、とかそういう発想で訊いてみたいんですけど。
茂木 いや、だから俺はそういう発想自体がテンション低いと思うんですよ。(対談2「見ている方向は一〇〇年後」より)
[2010年12月28日] この日の感想・書評へ→
場末の酒場、ひとり飲み
藤木TDC
多くの酒徒は、世のしがらみを捨て、無常無頼の時空に遊んでみたいという願望を持っている。それが本来の酒飲みの楽しみではないかと筆者は考える。そうした世捨て人の境地を堪能させてくれる空間こそ、東京都内のあちこちに点在する場末の酒場であり、そこに生きる店主や常連たちである。(「はじめに」より)
場末とは、広辞苑によると「都市で、中心部からはずれた所。町はずれ」のこと。そして場末の○○と来れば酒場やスナックであり、場末のカフェやファミレス、回転寿司などという組み合わせはどうも似合わない。
さて江頭2:50並のインパクトあるペンネームを持つ本書の著者は、どうやら私と同世代。しかしながら随分とディープな酒場修行を積み、その筋では知られた方のようだ。気障の一歩手前で踏みとどまった文体もなかなかに味わい深く、都内のあちこちにある場末の酒場の哀愁を、臨場感豊かに、温かな目線で伝えてくれている。
当方も四十の坂を越えてから、ようやく一人飲みの愉しさこそ覚えたが、本書で描かれているような場末の、商店街の外れにぽつんと数軒ある居酒屋や、いかにも地元の人だけが訪れそうな赤提灯に、一見でふらりと飛び込む勇気はまだない。
カラオケがあったが歌わずに、お湯割りをちびちび飲みながらテレビのニュース番組にひとり見入った。ママはあまり話しかけてこず、静かな時間が流れる。別の店のカラオケが漏れ、どんより流れ込む店内。
洒落っ気のない蛍光灯の明かりが、さらに寂寥感を演出する。この寂寥こそ、場末の風情である。
一口、酒をすする。つまみを口に放り込む。ニュースのちょっとした話題をママに振って、軽く笑う。(第二章「露店換地の飲み屋」より)
[2010年12月22日] この日の感想・書評へ→
警視庁捜査二課
荻生田勝
ライバル同士なんていう甘い関係ではありません。隣の係は完全に“敵”でした。まれに隣の係の応援捜査に駆り出されることがあるのですが、そのときは係長が、相手の係に聞こえるように言っていました。
「おまえら、これは応援だからな。しっかり手を抜けよ」
それどころか同じ係の中でさえ、違うペアは敵でした。(第二章「ナンバー知能」より)
著者は勤続39年の元ベテラン刑事。先に読んだ「刑事魂」が結構面白かったので、前著に当たる本書も手に取ってみた。同じく現役時代の体験談が中心だが、こちらの方は警視庁入庁以来担当してきた主な事件を時系列で振り返っているため、「赤坂警察署汚職事件」「外務省報償費流用事件」を含む有名無名の事件捜査の裏側がリアルに描かれている。収賄や汚職捜査がキャリアの中心であるため、派手な撃ち合いやカーチェイスの記述とは無縁だが、取調室で己の人間性を賭けて容疑者と対峙する姿は、人情ものの刑事ドラマと被る要素が多分にある。大変だが、やりがいと誇りを感じられる仕事だったのだろう。
だからこそ、急な退職を強いられる契機となった中央省庁絡みの大型贈収賄事件(著者の退職後に迷宮入り)に関する記述を、封印しているのが残念でならない。憶測を交えると関係者に迷惑がかかるから、というのが理由だが、いずれ「フィクション」の形で世に問うつもりかも知れない。
ちょっと経験を積むと、「一を聞いて十を知る」ではありませんが、そんな心境になってしまうのが刑事です。私もそうでした。そして、それが間違いだと気づくまでに数十年かかりました。人の話はとにかく聞くことです。捜査は分からないことばかりです。ですからまずは聞くのです。
それから時間をかけて考え、また人の話を聞き、裏付けを取り、自分なりに勉強もする。そうしてやっと事件に取り組めるのです。そこに生まれてくるのが“粘り”なのです。(第三章「バブル経済事件」より)
[2010年9月25日] この日の感想・書評へ→
立ち呑みの流儀
伊藤博道
立ち呑みには、断じて一人で行くことを基本とする。それも身軽にあたかも風のようにヒラリと入るべし。初めてはいるバアのようなためらいは要らない。「今日の憂さを晴らそう」だの「人生の奥義を知ろう」という目的で入るとどうしても表情が固くなる。喉が渇いたから水を飲むように、「酒が渇いたから、酒を飲む」。間違ってもヒトとの出逢いを求めて行く所では無い。(「立ち呑みへの入り方」より)
出張で東京に出向いていた頃は、毎度宿泊先を変えては新しい立ち呑み店を開拓したものだが、東京に腰を落ち着けてからというもの、何となく同じ店ばかりに通うようになった。そうなると必然的に顔なじみができて、他愛もない会話を交わすようになる。すると、いつしか話の輪の中に別の客が入り、少しずつ見知った顔が増えてくる。ごく稀に妙齢の女性が側に立って話に絡んでくれたりすると、ついつい上機嫌で酒が進み、会話も弾む。そうなると酒を飲むことよりも、自分の居場所がそこにあること自体が心地よくなり、ますます頻繁に足が向くようになる…。
立ち呑みじゃなければ、互いが打ち解け合うまでに何倍(=何杯)もの時間と酒を要したことだろう。渇いた都会のささやかなオアシスに乾杯。
馴染みの立ち呑みでホロリと飲んでいる時ほど気の休まる時間はない。入れ替わり立ち代わりの人間模様を肴に飲む楽しさは格別。馴染み客に混じって、羽振りのよさそうな二、三人の背広男等。なんとなく他人の家に土足で踏み込むような手合い。あたりかまわず、自分たちだけの空間を作っている。人生の奥義、はたまた人生の悲哀といった内容でなく、取るに足らぬ仕事のざれごと。まるで会社の上下関係をそのまま持ち込んだか。話の割には酒も肴もちょぼちょぼ。(「『こんな店で悪かったな』の客とは」より)
[2010年8月26日] この日の感想・書評へ→
無印ニッポン
20世紀消費社会の終焉
堤清二・三浦展
三浦 自分の暮らしの中によけいなものが多いな、とか、センスがいまひとつ、とか、何か不満をもっていた人が、無印にとびついたのではないかと。そんなことも踏まえて、反体制商品の真意をうかがいたいのですが。
堤 (中略)一つは、みんながアメリカ的豊かさを追っているときに、「それにはあまり賛成しないよ」と異議を唱えるという意味があった。もう一つは、ファッションがあふれている時代に、ファッション性を追求せず、そしてそのことが結果としてかっこいいのではないかというメッセージがありました。(3「無印ニッポン」より)
電車に乗って地方都市に降り立つと、「どこかで見た風景だな…」と感じる機会がここ数年急に増えた。ユニクロとトイザらスと、ダイソーとスタバとシネコンとフードコートでパッケージ化されゆく街の景色。東京の文化人は「地域文化が衰退し、土地毎の情緒が消えてゆく」と嘆き、その一人である本書の共著者三浦も、こうした状況を「ファスト風土」と批判的に呼ぶが、当の地方生活者は「大きなお世話」とばかりに、おらが街のイオン・モール化を「これで都会っぽくなった。便利になった」と喜んでいる。こうしてコンクリートに囲まれたモールの中に人は溢れかえり、ユニクロは一人勝ちして、商店街はますます寂れていく。
個性化社会とか、これからは地方の時代だとか言いながら、世の中はますます画一化の方向へと加速してゆくらしい。
三浦 わたしは、六本木ヒルズも表参道ヒルズも、「都市のイオン・モール」だと言っています(笑)。客を一切外部から遮断し、内側だけ見て歩いて、ものを買って帰って下さい、そういう構造ですよね。…(中略)…駅ビルもいまは駅地下、駅中開発によって、どんどんパッケージになってしまった。…(中略)…そういうふうになっていくと、都市文化の衰退につながると思います。
堤 同感ですね。パッケージ型商業ビルは、「誤れるモダニズム」だと思いますね。ここはビジネス街、ここはショッピング街、ここはレジデンス街、という分け方自体が人間性に反する。(3「無印ニッポン」より)
[2010年8月 1日] この日の感想・書評へ→

刑事魂
荻生田勝
序章で、真の刑事は、事件の発生責任を負っていて、人の死を判断する職業集団だと述べました。
それでは、そんな刑事の「仕事の原点」は何か?
私は、在職中もいまも一貫して「刑事の原点は泥棒刑事」だと考えています。盗犯係の刑事は、昔もいまも「泥棒刑事」と呼ばれます。
刑事には「いい刑事」と「そうでない刑事」がいますが、いい刑事というのは、この泥棒刑事からはじめた刑事のなかに多いような気がします。(第三章「原点は『泥棒』」より)
東海銀行の巨額不正融資事件、日本道路公団の贈収賄事件など、時のマスコミを賑わした大事件を数多く担当した、叩き上げの元ベテラン刑事による回顧録。一般的な刑事のキャリアパスをはじめ、犯罪者の心理や犯罪を取り巻く人間模様、本人の赤裸々な失敗談等、ドラマとは一味違う刑事のリアルな日常が垣間見られて大層興味深い。
そして、「容疑者をだまして供述を引き出すな」、「人格のない刑事にホシは落とせない」、「できる刑事同士は仲が悪い」、「刑事が相手にするのは『人の心』」「証拠を飽きる程見つめられるのが『いい刑事』」、「刑事は教養がない人間の集まり」etc.…現場で揉まれ、鍛え上げられた末に言語化された刑事哲学の数々は、様々な仕事の心得にも繋がる深い含蓄に富んでいる。
警視庁の刑事は「低能力集団」の集まりだと思っていますし、私もそうでした。しかし、刑事は「係」とか「課」という小さな集団のなかで、刑事同士の縦横な「絆」が生まれたとき、低能力集団とは思えないような、ものすごい力を発揮して、凶悪な犯罪者や知能犯に対峙します。ほかの職種にはない刑事としての気概や職人気質を、仲間との絆によって何倍にも増幅することで、その力は生まれるのではないかと思っています。(「あとがき 絆と誇り」より)
[2010年7月20日] この日の感想・書評へ→

とらわれない言葉
アンディー・ウォーホル
「誰かが僕の作品のニセモノを作っても、僕にはニセモノだってわからないだろうな。」
「僕がしていることなんて誰でもできることだよ。」
「アンディ・ウォーホルって人間について知りたいと思ったら、僕の映画や絵をただ、表面的に見てくれればいい。そこに僕がいるから。裏には何もないんだ。」(「This is POP!」より)
カラフルなテストパターンが映ったブラウン管を肩に担いだ白髪のオッサンが、「アカ、ミドォリ、アオ、グンジョーイロ…、キレイ」とたどたどしく話す TVCMを覚えている人も多いだろう。アンディ・ウォーホルの存在を私はあのCMで初めて知った。1996年には日本で初の大規模な巡回展が開かれ、東京・福岡に次いで神戸が会場になった際に足を運んだが、デザイン誌や作品集でしかお目にかかれなかった作品を間近に見た時には、現代アートを解する感性に乏しい私でも、何となく心に感じるものがあった。もちろんそれは感動とか衝撃などというご大層なものではない。浮遊感というか、不思議な居心地の良さ…という程度の感覚に過ぎなかったが、ああ、そんな接し方で正しかったんだな、変に深読みをしなくて良かったんだと、本書で彼の言葉の数々に触れてそう思った。
「精神的に参ったことは一度もないな。精神状態が良くなるってことがないから。」
「僕は完全に、うわべだけの人間だよ。」
「なんでオリジナルでなくちゃいけないの?他の人と同じじゃいけないのかい?」
「鏡を見るのは辛いな。そこには何もないからね。」
「謎は残しておきたいんだ。自分がどんな人間かなんてことは話したくない。だから、聞かれるたびに答えを変えるんだ。」(「This is ANDY!」より)
[2010年5月18日] この日の感想・書評へ→

社会的な身体
振る舞い・運動・お笑い・ゲーム
荻上チキ
私たちの社会では、新しいメディア(ニューメディア)が登場すると、必ずと言っていいほど「有害メディア論」(メディアバッシング、メディア悪玉論)が観られることになる。「有害メディア論」とは、ニューメディアの影響力を過剰に高く見積もったうえで、「ニューメディアが(自分以外の)人々に有害な影響をもたらす」とする「流言」のパターンだ。(第1章「有害メディア論の歴史と社会的身体の構築」より)
TVもゲーム機も、ネットもケータイもそうだが、新しく登場したメディアというのは、“教育的”見地からしばしば非難の対象となりがちである。本書によると、ソクラテスの時代には「文字」が批判の対象となり、明治期には「小説」が、「淫猥極まる写実小説、陰険恐るべき探偵小説の流行は、世の有識者が児童教育の為めに、多望なる青年子弟の為めに、只管顰蹙せる所なりき」(『教育時論』)とバッシングを受けていたというから驚きだ。そう言えば90年代に一世を風靡した「たまごっち」も、「命の軽視を助長するのでは?」「むしろ命の尊さが分かる」と侃々諤々の論議を呼んだものだが、今となってはご大層な議論だったという他ない。
かつて「メディアは身体を拡張する」と書いたのはマクルーハンだったが、身体感覚と密接に結び付いているからこそ、人は新奇なメディアの登場に過剰な警戒心と恐れを抱いてしまうのだろう。
あらゆるメディアには、「ゲーム性」が埋め込まれている。そして私たちは、メディアを身体化していくそのプロセスそのものを快楽の次元で享受する。有害メディア論を唱えるものにとっては非常に不快な存在かもしれないが、一方でイノベーター層にとっては、新しいメディアに触れる行為そのものが快楽として受け止められる。(第4章「ゲーム性と身体化の快楽」より)
[2010年4月28日] この日の感想・書評へ→

ねじれ脳の行動経済学
古川雅一
人間は、自分の行動や知識と矛盾したものに遭遇すると不快感を覚える(認知不協和)。だから、これを解消したり低減するために、対象となる物事への認知や態度を変化させるのだ。自分の選択が正しかった、と後で自分に言い聞かせ、正当化してしまうのである。
また、失敗に終わったとき、いろいろな情報が耳に入ってきても、自分の責任ではなく外的なものが原因だと考えてしまう(自己責任バイアス)。(第2章「契約が取れない本当の理由」より)
「飲み放題」は悪魔の囁きである。翌朝の辛さは何度も身に染みているのに、つい一杯でも一種類でも多く飲んでやろうと頑張ってしまう。何とも哀しい習性だ。素面の頭で冷静に考えると、浴びる程飲んだとて支払済のお代は戻らないから、絶対に「元」など取れない。こうした戻らないお金の事を、行動経済学では「サンクコスト」と言うらしいが、サンクコストを取り戻そうと、無理に飲んで糖尿にでもなろうものなら、返って治療費がかかって損をする羽目になる。池波正太郎風に言うなら、人間は理に適う選択を好みつつ割に合わない生き方をしてしまう生き物、であるらしい。
だからこそ、たまに本書の様な書物を読んで、合理的な行動とそうでない行動を見極める力を体得し、毎度体を張って「飲み放題」に戦いを挑む愚かさを戒めねばなるまい…。
人間は、不確実な物事の判断を下す際や何らかの問題を解決する際に、明確な手掛かりがなければ、簡便的あるいは発見的な探索方法を利用する。このことをヒューリスティックという。その1つが利用可能性ヒューリスティックだ。これは、ある物事の起こる確率をその例の思いつきやすさによって推測することである。(第5章「あのビジネスは本当に儲かるのか」より)
[2010年4月22日] この日の感想・書評へ→

キャラクターとは何か
小田切博
文化とはある社会の中で固有の文脈によって消費されるものであり、単にコンテンツの質が高ければ受容され、人気を博すといった性質のものではない。(第2章「キャラクタービジネスという問題」より)
日本における「キャラクター論」は、往々にして「文化論」的に語られるか、それとは全く別の文脈である「キャラクタービジネス」、即ち「産業論」として語られるかのどちらかである。こうした風潮に対し著者は、キャラクターは文化的な産物であると同時に常にビジネスの側面も持っており、そもそも両者は不可分であるという前提に立って、歴史的な考察を織りまぜ持論を展開している。オタク向けに書かれた本ではないから、門外漢にも分かりやすい。
要するに、ポケモンに代表される一部の日本製キャラクターの国際的成功は、優れたコンテンツの質だけに依存するものではなく、ましてや日本の文化的優位性を証した訳でもない。通常のビジネス同様、相手先の文化に対する配慮と、受容されるための工夫の有無が成否を分ける重要な要因となっている、ということだ。
ある作品が優れているかどうかはさまざまな視点や基準で論じることが可能だが、そのコンテンツがビジネスとして成功しているかどうかはきわめてシンプルで明快な基準で判断することができる。第4章の最後でも触れたようにジャンプの方法論についても、アンケートシステムや「努力・友情・勝利」といった創作レベルの視点ではなく、ジャンプフェスタなどを通したマーケティングレベルでおこなわれている「現代のジャンプシステム」を分析の対象にしていくことで、はじめてそのシステムとしての優秀さや可能性を具体的なものとして論じ得るのではないかと思う。(「あとがき」より)
[2010年4月16日] この日の感想・書評へ→

ぼくはこう生きている君はどうか
鶴見俊輔・重松清
鶴見 どんな子供でも家のなかでは世界一の有名人なんです。家のなかで無名な子供なんていない。そのかけがえのない財産を大切にすることに尽きるんじゃないかな。それが家庭・家族の持つ最大の意味だと思うね。「自殺しない」ということが最高の親孝行なんです。
重松 そう言う意味では、新しいことを考えるよりも、もう一回過去に立ち戻って忘れていた者を拾いなおさなきゃいけないのかもしれませんね。(第二章「家庭とは、どんな意味を持つ“場”か」より)
日本を代表する御年87歳の哲学者と、40歳年下の人気作家による異色対談。教育、家族、友情、老いといった普遍的なテーマを、本当に分かりやすい言葉のやりとりだけで論じ合っている。実はこれまで鶴見俊輔という人物の事を全く知らなかったが、本書とWikipediaによると相当やんちゃな少年時代を過ごした様で、その起伏に富んだ人生を背景に繰り出す含蓄ある言葉を、重松清が温かく平易な言葉で丁寧に打ち返している。
各テーマ毎に話がスムーズに展開している要因は、毎回この老哲学者が、対談のテーマと関連性の深い重松の作品(「その日の前に」etc.)を読んだ上で対話に臨んでいるため。米寿を控えた思想界の大御所でありながら、十分な備えの下で真摯に相手と向き合おうとする姿勢には凄みさえ感じる。
鶴見 「自分の小説は呼び水だ」というのはいいですねぇ。それは私の手法と通い合うところがあるんですよ。というのは、「自分はこういうふうに生きている」「きみはどうか」ー、それが私にとっての哲学なんです。日本の大学の哲学科はヨーロッパの哲学を受け継いでいるから、「たとえば」というふうなやり方で人類普遍の一般的な原理を探しあてようとするけれども。
重松 「自分はこう生きている」といえる人は、相手の生き方を認められる人ですよね。(第三章「エピソードのない友情は寂しい」より)
[2010年3月12日] この日の感想・書評へ→
小説仕事人 池波正太郎
重金敦之
… 池波正太郎の小説は、読む人それぞれによって、さまざまな読み方ができるのが大きな魅力だ。ある人は物語の中にさりげなく描出される食べ物の情景がたまらないという。また、秋山小兵衛の、世捨て人でありながら好奇心を失わずに「いたずらごころ」が抜けない人間性に惹かれる人もいる。四十も年下の若い女房を持つ老境に男性の理想像を求める者もいよう。「人間ほど矛盾に溢れている生き物はいない」という無常観にしびれている人も何人か知っている。(「剣客商売の舞台を歩く」より)
今年の5月で、池波正太郎が鬼籍に入ってはや20年になる。「剣客商売」や「鬼平」を読み始めたのは三十路を越えてからで、作者の人生観が色濃く滲み出た主人公達の振る舞いやセリフに痺れ、酒の飲み方、食事の作法は勿論のこと、「秋山小兵衛の様な爺さんになりたい…」と剣道まで始めてしまう程ハマった。東京転勤に際し、下町情緒が残る千住を仮寓に選んだのも、池波の作品世界に絡め取られた影響が多分にあるかも知れない。
さて本書は、「食卓の情景」「真田太平記」などの担当編集者として、公私にわたり池波と多くの時間を共有した元「週刊朝日」記者によるエピソード集。雑多なメディアに発表したエッセイや解説の寄せ集めなので、内容の重複が厭と言う程目立つが、“小説仕事人”池波の職人魂を物語る語録、逸話、交友録がそれなりに満載で楽しい。
大工でも、錺職や指物師の仕事でも納期をいったん決めたなら、絶対に守らなくては信用を落とすことになるし、組織からつまみ出されることになる。そう考えると、池波さんの原稿が常に締め切り前に出来上がっていたということが、よく理解できるのだ。昭和六十一(一九八六)年に母親の鈴さんの病状が重篤におちいった時、池波さんは何をしたかというと、ひたすら原稿用紙に向かい、まだ締め切りが先の原稿を書き溜めた。私事で迷惑を掛けては、申し訳ないからというのである。(「池波さんの生き方」より)[2010年3月 7日] この日の感想・書評へ→

正義で地球は救えない
池田清彦+養老孟司
養老 … 本気でCO2排出量を削減しようと考えているのなら、石油の産出量を減らせばいいんです。石油産出量について毎年一パーセントずつ削減することを五〇年続ければ五〇年後には五〇パーセント減る。そうしたらCO2の排出量も自ずと半減するはずでしょう。だけど、産出量削減の議論は、どの国からも出てきていない。
池田 それどころか、各国の首脳や閣僚は雁首揃えてサウジアラビアなどに石油産出量をもっともっと増やしてくれとお願いに言った。(II「人間と環境のあいだ 一 ねじれた正義」より)
個人的に、エコや環境問題に特段関心はない。といっても正面切って議論する気がないだけで、ゴミはちゃんと分別しているし、電気はこまめに消すし、基本的に物持ちが良いから無駄遣いはしない。「MOTTAINAI」という精神にも共感を覚える。だから少なくとも、環境破壊に与する側でないことは確かだ。
ただ「地球温暖化」に関するマスコミの論調や、そこから派生する「CO2削減」「排出権取引」等の話題を耳にするたび、漠然と「何か胡散臭いなあ」と感じ続けていた。そんなモヤモヤをスッキリさせてくれるのが本書。CO2削減も生態系の保護も実はインチキな議論で、地球にとって真の問題は代替エネルギー開発と人口の適正化なんだよ、ということが平易かつ具体的に述べられている。環境保護論者には許し難い内容だろうが、たぶん事実はそんなものだろうなと、個人的には思う。
養老 かつて後藤新平が、自然には資本と利子があるということを言っていました。そして、石炭を使うというのは自然の資本を使っていることになり、水力発電は自然の利子を使っているのだと。資本を使っているものは長続きしないけれども、利子を使っていれば長持ちする、というようなことを後藤新平はちゃんと言っていたんですよ。
池田 なるほどね。その言い方に倣えば、石油も当然、利子ではなくて元手、つまり資本だもんな。(II「人間と環境のあいだ 三 エネルギー問題のゆくえ」より)
[2010年3月 1日] この日の感想・書評へ→

酒場の文化史
海野弘
酒場は、共同体社会の成立、そして、異なった共同体間のつきあいの中で生まれる。したがってそれは文明の誕生とともにある。古代のエジプトやメソポタミアにも酒場があった。エジプト人は、大変な酒飲みだったといわれている。ヘロドトスの『歴史』によれば、ギリシアとフェニキアから一年中、土器につめた酒がエジプトに輸入されていたという。エジプトには葡萄の木が少なかったので、外国からワインを買っていたわけである。それだけでは足りないので、エジプト人は麦からビールを発明した。(第一章「酒場の誕生」より)
神話時代から二十世紀に至る酒場の歴史を、歴史書だけでなくシェイクスピア、ディケンズ、バルザック、クリスティなどの文学作品をも引用しながら考察した一冊。“酒好きの本好き”には恰好の酒の肴であった。欲を言えば日本の居酒屋に関しても少しは触れてほしかったが、初版がサントリー博物館文庫から出されているとあっては、まあ仕方がない。
ところでヘロドトスの『歴史』によれば、古代ペルシアでは極めて重要な事柄を“酒を飲みながら”相談する習慣があり、その際皆が賛成したことを翌日しらふの時に再度相談し、それでも賛成となれば採用、そうでなければ廃案にしたという。つまり酔った時の“本音”と、しらふの時の“建前”を一致させようと図る “生活の知恵”だ。今日でも商談上の建前と、酒席での本音を秤にかけて落とし所を探る、という場面は多々あるが、いっそ古代ペルシア人に倣って、酩酊時としらふの時の二度採決を取る仕組みを採り入れるのも面白い。
古い居酒屋は、木戸や市門の近く、ほとんどはその外にあった。つまり都市の周辺にあらわれる。なぜなら、都市の規制が周辺ではゆるやかであるか、または、まったくおよばないからである。ロンドンでもパリでも、市壁の外側にさしかけをして、居酒屋や芝居小屋がへばりついていた。そこでは、もぐりの酒やもぐりの芝居が繁昌していたのである。フランス語で居酒屋を指すキャバレーは、「小さな部屋」の意味だった。木戸や市門の外にある酒場をギャンゲットと呼んでいる。(第三章「大都市のなかで」より)[2010年2月14日] この日の感想・書評へ→

父からもうすぐ逝ってしまう君へ
ボブ・グリーン著/桜内篤子訳
ぼくはレストランから駐車場を隔てたモーテルに泊まっていた。食べに来る前に部屋のテレビでゲームをしていた。六〇くらいのチャンネルが映るテレビならできるゲームだ。
一チャンネルから始めて、数秒ずつ見ながらリモコンでどんどんチャンネルを変えていく。最後のチャンネルに行くまで銃が出てこなかったら勝ちだ。(12「子どもは大人の真似をする」より)
ボブ・グリーン久々のコラム集登場!と思い楽しみに読み始めたら、既に手元にある「シボレーサマー」(1999年刊/原題:Chevrolet Summers,Dairy Queen Nights)からの抜粋であった。なぜ10年近く昔のコラムの縮刷版がこの時期に出版されたのかは不明だが、巻末に一行「本書は1999年刊『シボレーサマー』を元に抜粋、改題したものです」との記載を入れてもらいたいものだ。
まあ、苦情はさておき。約10年ぶりにボブ・グリーンのコラムを読んで、日常ふと目にする何でもない些細な出来事も、書き手の観察眼と文章力次第で、こうして十分読み手を楽しませる題材になるのだなぁと改めて敬服させられる。過去の女性問題が仇となってコラムの世界からは身を引いたままだが、何とか復活を期待したい。
道端の売店で、ビジネスマンがガムを買い一ドル札を出してお釣りを受け取った。すこし歩いてからお釣りを見て、戻ってきた。「ガムはいくらだったの?」と聞かれて、売り子がちょっと構えるように答えると、ビジネスマンは「じゃあ多すぎる」と言って硬貨を返した。(19「記事にならない話」より)
[2010年1月28日] この日の感想・書評へ→

科学とオカルト
池田清彦
科学はもともと、科学という方法によって説明できることしか説明できないし、世界には科学では説明できないことの方がむしろ多いのである。たかだか人の脳が理解できる範囲のやり方(科学もまたそういうものの一つである)でもって、自然を全部説明しようというのは、そもそも無理なのである。人の脳は自然の一部である。一部で全体を説明するやり方に無理が生ずるのは、考えてみれば当たり前ではないか。(第四章「科学で説明できることと説明できないこと」より)
科学とオカルトの違いは何か? 本書で著者は、「オカルトは公共性を持たない信念体系であり、科学は多少とも公共性を持つ理論である」と、さしあたって区分けした。公共性とは「客観性」と「再現可能性」の事であり、数値/数量化できたり、実験によって誰でも再現できるものが、一般的に科学と見なされる、としている。
そうした観点から、錬金術はつい一世紀程前に科学からオカルトへ降格した。今日で言えば心霊現象や超能力、UFO等がオカルトと見なされているが、ではビッグバンは? 猿から人への進化は? 大統一理論は?となると、実証・再現できない点でオカルトと大して変わらないことに気づく。ってことは、「見たんだから仕方がない!」と霊界の素晴らしさを説いた故・丹波サンも、「それでも地球は動いている」と唱えたガリレオも、その時代の科学で否定されていることを口走ったアヤシイ人、という点では変わらない訳だ。
素人向けに論旨が明快で読みやすい分、たぶんツッコミ所も多いのだろうが、科学とオカルトは全く別次元のものと考えていた単純な文系人間にとっては、ちょっと知的にくすぐられた一冊。
物質的な欲望を一応充足した人々が、生きがいを求めて「かけがえのない私」探しをはじめた時、これらの中の少なからぬ人々が、精神主義的なカルトに己の夢を託したとしても不思議ではない。
高度成長期以後に誕生したり急成長したりしたカルトの多くが、「現世の利益」ではなく精神主義的色彩が強いのは、この間の世間の事情を反映している。前章で、オカルトは「かけがえのない私」を追求する方法の一つである、と述べたことを想い出してほしい。カルトとオカルトは期せずして、同一のニーズを持つ装置となっていたのである。(第七章「カルトとオカルト」より)
[2010年1月22日] この日の感想・書評へ→

旅する力−深夜特急ノート
沢木耕太郎
わかっていることは、わからないということだけ。
私はその言葉を旅しているあいだ常に頭の片隅に置いていたような気がする。そして、その言葉は、異国というものに対してだけでなく、物事のすべてに対して応用できる考え方なのではないかという気もした。
いずれにしても、そのとき耳にした「わかっていることは、わからないということだけ」という言葉は、私がこのユーラシアの旅で学ぶことのできた最も大事な考え方のひとつとなったのだった。(第三章「旅を生きる」より)
旅には適齢期があるのかもしれない、と沢木は言う。たぶんその通りだし、『深夜特急』を読んで衝動的に旅に出た人達もきっと、それぞれの適齢期にうまく条件が整い、ちょっとしたきっかけが背中を押したのだろう。自分自身は『深夜特急』と出会った時、「こんな旅がしたい!」という衝動に強く駆られはしたものの、子供が出来たばかりで適齢期は過ぎていた。ただ、仮に周囲の環境がそれを許したとしても、結局旅に出る勇気などなかったかもしれないが。
さて沢木の旅への志向は、中学二年の頃父親が買ってくれた小田実の「何でも見てやろう」から始まった気がする、と書いている。可愛い子には旅をさせよ、だ。私も『深夜特急』を、いずれ旅の適齢期を迎える息子に読ませてみたい、などと考えている。ただその反面、本の魔力に絡め取られ実際に放浪の旅などに出られてしまうと、心配で夜も眠れない思いをすることになるだろう。どうしたものか。
やはり旅にはその旅にふさわしい年齢があるのだという気がする。たとえば、私にとって『深夜特急』の旅は、二十代のなかばという年齢が必要だった。もし同じコースをいまの私が旅すれば、たとえ他のすべてが同じ条件であったとしてもまったく違う旅になるだろう。
残念ながら、いまの私は、どこに行っても、どのような旅をしても、感動することや興奮することが少なくなっている。すでに多くの土地を旅しているからということもあるのだろうが、年齢が、つまり経験が、感動や興奮を奪ってしまったという要素もあるに違いない。(第五章「旅の記憶」より)
[2010年1月 2日] この日の感想・書評へ→

プリンシプルのない日本
白洲次郎
官僚全盛時代が随分続いたから政党人の考え方も余程官僚化して、国民はものを考える能力がないから俺が考えてやらねばならんという様な、大それた自惚れで頭が一杯になっているのではないだろうか。
政治家の一部の人がよく口癖の様にいう言葉で、聞いた途端に私は腹が立つことがある。それは「政治は腹だ」といって自分の無能無策に気がつかない輩がいることである。我々国民に関する限り、政治家の「ハラ」なんかに関心も興味もない。(「おおそれながら」より)
人に書かれることはあっても、自ら筆を執ることの少なかった白洲次郎が、1951年から56年頃にかけて雑誌へ寄稿した文章を中心に編んだ一冊。文章の歯切れの良さは天下一品。世間の毀誉褒貶をものともせず、おかしいことはおかしいと一刀両断する姿勢が心地良く、まさに“従順ならざる唯一の日本人”と、 GHQに言わしめた男の本領発揮である。かれこれ半世紀以上も昔、それこそ鳩山現首相のお父上が内閣を組んでいた頃の文章ばかりだが、一部を切り取って読めば、これって現代の時評?と思える程、白洲の考え方、物事や歴史に対する見方に違和感を感じない。裏返せば、良くも悪くも日本という国は、この半世紀の間本質的に何も変わっちゃいない、ということか。
今の時代に白洲が生きていたとしても、「プリンシプルのない日本」にきっと怒り続けているだろう。
日本も、ますます国際社会の一員となり、我々もますます外国人との接触が多くなる。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたきこまれたものらしい。小林秀雄が教えてくれたが、この教育は朱子学の影響によるものとのことである。残念ながら我々日本人の日常は、プリンシプル不在の言動の連続であるように思われる。(「プリンシプルのない日本」より)
[2009年12月21日] この日の感想・書評へ→

白洲次郎の生き方
馬場啓一
亡くなるに当たって、白洲が残した遺言状が公開された。そこには「葬式無用、戒名不要」と書かれてあった。ただそれだけである。阿蘇の山麓で誰にも看取られず死んだ父親文平の残影を、そこに見る。人の一生は人間の力でどうにもなるものではないという諦観だ。
白洲次郎は全速力でその人生を駆け抜けたのである。周りの人々はその果敢な走りっぷりに思わず声を上げ、ある者はともに走った。間違ったことは極力排除し、信念に基づいて行動する彼に、人々は男の中の男を見出した。(第1章「大和魂と英国紳士道」より)
白洲次郎について、過去に読んできた本以外に知らない逸話があれば、と思い手に取った本書であったが、全体の3分の1は、次郎の事績とは直接関係のない、ファッションとカクテルとスコッチと車に関する、著者の蘊蓄話で占められていた。とりわけカクテル・洋酒には(カクテル評論家としてコンテストの審査員を務めているとわざわざ書いてあるところを見ると)一家言あるらしく、内容自体は至極真っ当で正しいお話ばかりなのだが、あまりに当方の望む本論と関係ない話題が延々続くので、うんざりしながら読み飛ばしてしまった。願わくば別の、車やお酒をテーマにした出版物で、その蘊蓄を披瀝して頂ければ幸いである。
「白洲次郎の生き方」を書くということは、「カッコいい男とは何か」という答について書くのと同じ。書き手は余程気をつけないと、己のカッコ悪さを満天下に晒すことになってしまう。以て他山の石とすべし。
好きな車に乗ることが人生における男の最大の楽しみの一つだと信じている白洲にとって、戦後現れたポルシェこそ、もっとも輝いた存在だったのであろう。 白洲のポルシェとの付き合いは一九七〇年代初めにスタートし、七〇年代の終盤に終わる。一九八〇年、白洲はソアラを開発中のトヨタに、自分のポルシェ911を差し出すのである。ソアラにポルシェを目指せ、反映させよ、という白洲一流の激励であった。
MZ10とよばれたそのソアラが完成したとき、白洲次郎はこの世の人ではなかった。開発責任者岡田稔弘と当時のトヨタ社長豊田章一郎は、出来上がったソアラを白洲の墓前に見せに行ったという。(第4章「好きな車に乗るということ」より)
[2009年12月18日] この日の感想・書評へ→

日曜日の万年筆
池波正太郎
午後の、客がたてこまぬ時を見はからって行き、先ず、やわらかい[鳥わさ]で酒をのむ。酒器は白一色。これでこそ、蕎麦屋で酒をのむ気分になれる。そして、この店は[たいめいけん]同様、開店から閉店まで、いま流行の休憩をしない。これでこそ東京の店である。
天もりの蕎麦道具や盛りつけの、きっぱりとした清々しさもよい。(「蕎麦」より)
池波正太郎のエッセイには、古き良き昭和の、凛として日々を生きる人々の息づかいがある。それは月に一度、一人だけで鮨をつまむ贅沢を励みに二人の子と老母を養う母親であったり、数少ない出番に全てをかけ“スタア”を引き立てる脇役俳優であったり、欲得抜きで客に楽しんでもらいたいと願う料理屋の女将であったりと様々だ。
また池波正太郎のエッセイは、男の作法のお手本でもある。それは酒の飲み方であり、蕎麦や天ぷらの食い方であり、服の着こなし方、生きたお金の使い方等々である。
この「日曜日の万年筆」を執筆していた頃の池波さんは五十代後半。あと十年もしたら、自分もこんな粋で、洒脱で、ぴんと一本筋の通った大人になれるのだろうか。実に心許ない…。
あれは、十七、八のころだったろう。いまも盛業中の銀座五丁目の銀座コア・ビルの裏手の[新富寿し」へ通っていたとき、中年の主人にたしなめられたことがある。
おもうに、当時の私は、それこそ「なまいきざかり」だったにちがいない。
くわえ楊子か何かで出て行きかけたら、
「若いうちから、そんなまねをするものじゃありませんよ」
と、やられた。(「鮨」より)
[2009年12月 4日] この日の感想・書評へ→

日本社会で生きるということ
阿部謹也
そして、「世間」という言葉をもう少し定義すれば、人間と人間の関係なんだけれども、その関係というものはどこかで私たちの行動を裁いているのです。私たちの行動は「世間」によって裁かれると思っている。私たちは裁判所を持っているし、警察というものを持っています。私たちが法律にふれる行いをした時は、裁判所、あるいは警察から何らかの介入が行われる。しかし、裁判所とか警察の介入を招くような行動をしない人の場合でも、「世間」による裁きがあるのです。(「『世間』とは何か」より)
鴻上尚史の「『空気』と『世間』」の流れで手に取った阿部・世間論の2冊目。講演がベースとなっているせいか、先に読んだ「『世間』とは何か」よりスラスラ読める上、「世間論」と共通の土壌を持つ「差別論」にも言及しているため、かなり内容豊富である。
中でも、相手への“恐れ”を認めたくない時、その気持ちが賤視へと変容し“賤民差別”が生まれるという歴史的人間考察や、12世紀のヨーロッパで“個人” が生まれた二つの理由(キリスト教の普及による告解の義務化と、都市の成立)の下りは興味深い。江戸時代の切支丹迫害も、ナチによるホロコーストも、根底には底知れぬもの、自分の知見では計り知れない存在に対する怖れがあったのだろう。
どんなにキリスト教信仰が厚くなっても一人で森のなかにいれば怖い。死ぬことはやはり怖い、そういう感覚は残ります。その怖さとか、あるいは感覚というものが、賤視に転化していく、というふうに一応は言えるわけですが、ここから先は大変難しい問題です。
つまり賤視には恐怖と敬う気持ちの二つが混ざっているんですね。部落差別もそうですが、被差別民に対する賤視と言われるものは単に身分が低いから、汚いものを扱うから、ということではないんですね。(「差別とは何か」より)
[2009年12月 1日] この日の感想・書評へ→

「世間」とは何か
阿部謹也
「無常」は、通常は「世は無常」という形で語られることが多い。その意味は「一切の物は生滅・変化して常住でないこと」と「広辞苑」(第四版)では説明している。しかし世の中の事物が常住でないことは極めて自然のことであって、それをわざわざ「無常を観じ」という形で言葉にするのは、その背後にある種の感情があるからであろう。それは変化を求めない感情であって、現在の事態がいつまでも続くことを望んでいるのである。周囲の人が突然死んでしまったときなど、「世は無常」などというのはこのような場合である。(第四章「『色』と『金』の世の中」より)
「身に覚えはないが、世間をお騒がせして申し訳ない」。これは何らかの嫌疑をかけられた政治家や財界人の常套句。そして受け手の方も「口先だけだな…」と知りつつ、この言葉と共に深々と頭を下げられると、何となく場が収まる“空気”が流れるのも事実だ。反対に「私は無実なのに何を騒いでいるの?!」と、正面を見据えて傲然と言い放つ者がいれば、実際に無実でも、何となく“世間”からは“可愛げのない奴”というレッテルが貼られるだろう。
いささか旧聞に属するが、例の江川事件(1978)の際も、「興奮しないで」と言う代わりに「お騒がせしました」と、当人に頭を下げさせる気の利いた大人が周囲にいれば、江川卓は日本中を敵に回さずに済んだろう。あれこそ国民の誰にも迷惑のかからない、単に“世間を騒がせた”に過ぎない出来事だった訳だから。
…善意の募金であろうと国民の義務である税金であろうと日本人はそれを拠出する際に「取られた」という想いを否定できないのである。
何故なら日本人がこの種の募金に応ずる際には、たいていの場合何らかの組織が間に入っていて、そこでの人間関係が頭に浮かぶからである。誰誰が募金に応じているかどうか、そしてそれがいくらであったかなどのことがすぐに頭に浮かび、それらを勘案し、組織の一員としての義理として募金に応ずる場合が多いのである。(第五章「なぜ漱石は読み継がれてきたのか」より)
[2009年11月28日] この日の感想・書評へ→

橋本治と内田樹
橋本治・内田樹
内田 なるほど。生存戦略的に若いときって文脈が読めないっていうのがあるから、その代わりに固体の細かいパーツがちゃんと生きていくわけですよね。
橋本 文脈読めなくてもあの人は素敵だから大丈夫っていうね。
内田 年を取ると読めてくるので、逆に、トレードオフで細かいところがだんだん落ちてくる。落ちてくるんだけどトータルのパフォーマンスは変わってないと。(#5「本を読むときに眼鏡をかけると、なんかインテリになったみたいな…」より)
当代人気の学者である内田樹が、長年敬愛している作家・橋本治との対談を通じて、「橋本治とは何か?」を解明しようと試みた本。ほとんどの作品を読破し、「橋本治と同時代に生きられて、よかった」と明言している内田は、全編にわたってひたすら橋本を持ち上げ、相槌を打ち、全ての意見を受け止める。議論が噛み合おうが、自らの意見をあっさり否定されようがお構いなし。リスペクトする当人と共に作品を論じ、物の見方、考え方について語り合える事自体に悦びを感じているのが、ひしひしと伝わってくる不思議な対談である。実のところ、橋本治に特段の思い入れがない人(=私がそう)にとっては、さほど興味をそそられる様な内容ではないはずだが、不思議と最後まで、それも結構愉しみながら330頁を読み切ってしまった。
で、結局明らかになったのは、「橋本治はかなりヘンな人だ」ということである。
内田 (笑)いまの人たちはすごくお洒落なんだろうけれども、同じ格好をしていますよね。
橋本 男女問わずお洒落上手。それは自分を消すことが上手だから。
内田 本人たちはすごく自己主張してるつもりなんだけど。そのつもりではあるんです。
橋本 お洒落によってね。自分によって自己主張しているんじゃない、お洒落によって自己主張しているから、お洒落をとっちゃうと自己主張がないんです。だから皆同じ恰好しているくせしてなにが自己主張なんだという言い方をすると、彼や彼女らは皆怒ります。(#6「『あっ、君の中にすばらしい“バカ”があるね』と言って…」より)
[2009年11月24日] この日の感想・書評へ→

嘘つきは鼻をこする
ニュースに見るしぐさのリスク
岡村美奈
表面上は経団連会長という立場から、冷静で落ち着いているように見せていたが、心中はかなり動揺していたのか、身体の前で左手を右手で包み込むように何度も繰り返し握っていた。人は不安が強いと、手を身体の近くで落ち着きなく動かす。そして、握られた左手の小指だけが、緊張感を持ってまっすぐ横に飛び出ていたことから、全面的に関与を否定しつつ、この時すでに、完璧に否定しきれないという懸念があったのだろう。(「飛び出た小指に見えた『真実』」より)
ジェフリー・ディーヴァーの「スリーピング・ドール」を読んで以来、言葉のニュアンスやしぐさ、声のトーンから相手の心理状態を読み解くキネシクス分析に興味を持っているが、ちゃんとした専門書がなかなか見当たらない。そんな中で手に取ったのが本書。臨床心理士の著者が、ニュースの当事者達の言動に焦点を当て、心理的な意味や心の動き、潜在意識等を分析・解説した連載コラムを書籍化したものだ。有名な事件や謝罪会見が主な題材になっているため、一部“後付け”感が否めない箇所もあるが、本にするタイムラグを考えれば致し方のないところ。できれば政治家の謝罪会見時に、「今、鼻をこすりました。嘘をついた可能性有りです」などと、リアルタイムで解説する番組企画があれば面白いかも知れない。
本書によると、鼻をこする以外にも、口を覆う、目をこする、まばたきが増える、鼻を触る、首元を触る、指を頻りに動かすといった辺りが、人が嘘をつく際に出てしまう代表的な仕草とのこと。他人を注意深く観察する癖をつければ、少なくとも見え見えの甘い話に乗せられる様な愚は犯さずに済むかも知れない。
しかし、「犯人が捕まっていないことに不安はないか」と質問されると、右手の人さし指で鼻の頭を何度か軽くたたき、まるで容疑者は自分だと指し示しているかのようなしぐさを見せた。そして、右の掌でこめかみあたりを叩き、頭を抱えた。・・・(中略)・・・しばし沈黙の後、「捕まらないと散歩するのも不安」と応えながら、口を覆い隠すように右手をあごにあて、その小指で鼻を触ったり、人差し指で鼻先をこすったり、掻いたりした。嘘をついていることへの不安と動揺が強く、じっとしていることができなかったのだろう。(『不安と動揺を隠せない右手の動き」より)
[2009年11月11日] この日の感想・書評へ→

なぜ宇宙人は地球に来ない?
笑う超常現象入門
松尾貴史
政治家達にしてみても、「私が宇宙人と最初に友好関係を結びます!」と自慢して、ノーベル平和賞でも狙いたいところだろう。まっ先に利権を確保できるかもしれない。さらにいえば、最初に「宇宙人」を解剖、研究、報告したのなら、その医師はノーベル医学生理学賞、そして宇宙船の残骸や痕跡を研究すれば、化学賞と物理学賞をダブルで受賞できる可能性すらある。(第一章「宇宙・UFO・古代文明」より)
副題に「笑う超常現象入門」とあり、日頃の著者の芸風から“B級のトンデモ本”をおちょくる内容かなと推測したが、視点そのものは意外とマジメ。著者自身学校でも有数のオカルト少年で、手持ちの“心霊写真”を投稿したり、怪しげなグッズに小遣いを注ぎ込んだ経験を明かしつつ、「健全な懐疑精神なくして科学技術の発展はあり得ない」とのスタンスで、世の怪しげな事象(というよりは怪しい人々)を俎上に上げる。その対象はUFO、超能力、占い、お祓い等いかにもというテーマから、戒名、墓、(ファッションとしての)数珠、盛り塩、しめ縄、護符(御守り)といった、生活文化として定着・妄信されている事柄にまで及び、そのシニカルな舌鋒は哀れな(?)信者達ではなく、あくまでその向こう側で人々を食い物にしている輩に向けられている。カジュアルで読みやすい分、その種の人々の“憑き物”を落とすには案外効用があるかも知れない。
代金のような物は、戒名を付けてもらったり、読経をしてもらったりしたことに対する「お布施」として差し出すものだ。だから、寺が定価や相場を決めて要求するなどというのは、詐欺まがいの行為だと言われても仕方がないだろう。収入の多くを葬式に頼る「葬式仏教」と揶揄されるのも、そういう一部の心無い寺の行為によるものだろう。戒名の「値段」は、一番安いものでも何十万円、高いものでもこの不景気に数千万円というべらぼうなものもあるというから恐ろしい。(第五章「神様・仏様・トリックスター」より)
[2009年11月 7日] この日の感想・書評へ→

「空気」と「世間」
鴻上尚史
いったい、この「空気」とはなんなんでしょう?
僕は、「空気」とは、「世間」が流動化したものと考えていると書きました。
「世間」とは、あの「世間体が悪い」とか「世間を騒がせた」とかの「世間」です。
その「世間」が、カジュアル化し、簡単に出現するようになったのが、「空気」だと思っているのです。(第1章「『空気を読め!」はなぜ無敵か?」より)
やたら「世間体」を気にする大人は多い。そして、そんな大人を小馬鹿にしつつも、自分が「『空気』を読めているかどうか」に心を砕く若者が増えている。「世間」も「空気」も実体こそないが、日本社会で暮らす者なら誰でもその存在を感じつつ、時には自らの本音を押し殺したり、あるいは意に反した決断を強いられることも少なくない。
そんな「世間」や「空気」に怯えたり、息苦しさを感じている人に、それぞれの正体を平易に解き明かしながら、最終的には「世間」や「空気」が持つ暴力性に対処する具体的処方箋まで呈示したのが本書である。「いじめに苦しんでいる中学生にまで届いて欲しい」との気持ちで書かれただけあって、ロジックは明快で文章も分かりやすく、内容にも肯ける点が多々あった。できれば本書のベースとなった阿部謹也氏の「世間学」も、折を見て繙いてみたい。
だからこそ、僕はあなたに複数の共同体に属することを勧めるのです。
不安ゆえに、ひとつの共同体にしがみつけば、それは「世間」となります。しがみつこうとする自分を叱るのではなく、不安ゆえに、たったひとつの共同体=「世間」を必死で信じようと不毛な努力をするのでもなく、不安だからこそ、複数の共同体に所属して、自分の不安を軽くするのです。それは、相対化された「世間」と呼んでもいいし、「社会」とつながっている「世間」とも言えるのです。(第7章「『社会』と出会う方法」より)
[2009年11月 3日] この日の感想・書評へ→

ユリ・ゲラーがやってきた
40年代の昭和
鴨下信一
喪失・虚脱・絶望・涙・哀愁・別離・裏切り・失恋・切なさ・淋しさ・悔恨・口惜しさ・彷徨・失望・・・いくらでも言葉は浮かぶけれども、どれか一つといわれれば、それは“孤独”だろう。
昭和40年代の流行歌・歌謡曲は“孤独”がキイ・ワードになった。・・・(中略)
どうしてこうなったかは、書けば厖大なことになる。ただ歌がこうなったことだけは事実なのだ。原因を探るよりも、このことをまず認めたほうがいい。(3「それでも歌は変化した」より)
一言で云えば「看板に偽りあり」。書名に惹かれて読み始めたが、ユリ・ゲラーに関わる記述はたったの5行。サブタイトルの「40年代の昭和」こそがズバリ内容を表している。近頃の新書の名付けは、一昔前のスポーツ紙の見出し同様、売りたい気持が見え見えで品がない。
但し、映画・歌・ドラマ/CM・事件という四つのサブカルチャーを切り口に、昭和40年代の“生きた世相”の俯瞰と再現を試みた本書のスタンスは至って真っ当。既に第一線の演出家だった著者とガキだった私とでは、当時のサブカルチャーに対する感じ方に微妙な齟齬はあるものの、まだ“お茶の間”があり、歌謡曲を皆が口ずさんだあの頃の空気感は十分共有できた気がする。
平成の世になって20年が過ぎ、ようやく昭和を歴史として客観的に定着させ得る時節が来たという訳か。
ぼくはホームドラマといえばこの人、と誰もが言う石井ふく子と橋田壽賀子が[東芝日曜劇場](TBS系)のある番組についてコメントした言葉こそ、その定義にふさわしいと思っている。
彼女ら二人は、ホームドラマではドラマは家庭の中でしか起きない。それも大事件ではない。日常生活のささやかな事件、ドラマとはいえないような微細な事件しか描かれない−−としたうえで、口を揃えてこう言う。
「そのささやかな家庭での出来事を描くと、そこで外の社会のあらゆること、政治も経済も、会社も学校も、世界の情勢も、すべてのことがわかるのです」(4「テレビは家族を映した」より)
[2009年10月21日] この日の感想・書評へ→

日本の難点
宮台真司
言い換えれば、流動性が上昇したせいで、コミットメントが見合わなくなったのです。だから、コミットメントの脱落は、流動性の上がった人間関係に対する合理的な適応です。・・・(中略)
その意味で、人間関係のフラット化は、単なる心理的傾向の変化ではありません。環境の変化(流動性の増大)に対する合理的適応の結果として、コミットメントが脱落するのです。そうであるなら、「心構えが大事」「愛こそ全て」と唱導して済む問題ではありません。流動性自体を制御するしかないでしょう。(第一章「人間関係はどうなるのか」より)
三百頁弱の新書で、メディア論から教育論、幸福論、米国論、日本論に至る広範な「日本の論点」を、一人で串刺しにして論じようという野心的な試み。中身は、説得力ある論考とそうでないもの、具体性のある考察と机上の論説、下世話さとスノッブさが入り乱れている。
個人的印象を述べるなら、前半の「人間関係論」「若者論」「教育論」は過去の援交学生への取材や、長年大学で直に学生と接している実体験に立脚しているせいか、言葉も平易で論旨も明快。納得感を持って読むことができた。しかし後半の「幸福論」「米国論」「日本論」といった辺りの、身の丈を超えるテーマになると、途端に専門用語や先人の引用が増え、文章の敷居が数段高くなって来る。あとがきにはご丁寧に「これ以上はあり得ないというほど、噛み砕いて書かれています」とあるが、この挑発的な一文で、読み手の半数を敵に回したのではないか。
中学生に自殺のロールプレイを指導したことがあります。二人一組になって、片方が自殺寸前、もう片方が自殺をやめさせる役をやります。・・・・(中略)
唯一、本当に唯一効き目がある物言いは、「お前が死んだら自分は悲しい」「お前が死んだらつらくて生きていけない」といったものです。子どもたちはすぐにそれを察します。同時に、こうした言葉は、それを支える関係性の履歴がなければ、空念仏に等しくなるということも、理解します。
関係性の履歴がなければ、「お前が死んだら悲しい」「嘘つけ!」で終了。(第二章「教育をどうするのか」より)
[2009年10月16日] この日の感想・書評へ→

酒にまじわれば
なぎら健壱
よく「一体どのぐらい飲むんですか?」と質問を受けるが、そんなことは分からない。いちいち量を考えて飲んでいるわけではないですもん。
「分かりません」と返事をすると、「ビールに換算するとどのぐらいですか」とさらに訊いてくるが、余計答えに窮してしまう。ビール、焼酎、ウィスキーをチャンポンで飲んで、それをビールに換算するなんて、どうやってやるのかこっちが訊きたい。(「酒マラソン」より)
毎晩の様に飲んでいる割に、酒にまつわる大した失敗はあまりない。せいぜい神戸で降りるつもりで岡山迄乗り過ごしたり、始発に飛び乗ったのに2時間半後にも同じ駅に居たり(何往復した?)、大阪ミナミで飲んでいたのになぜか神戸新開地のトイレで目覚めたり、タクシー代がなくなるまで飲んだせいで深夜の海岸沿いを8km歩いたり、星野阪神優勝の夜に正気を失い台所でゲロを吐いたりした程度だ。
ちなみに最後のゲロは本人に全く記憶はないが、嫁さんが翌日怒り心頭だったのでたぶんやったのだろう・・・。そもそも18年ぶりの歓喜の美酒に、とっておきのシャンパンと日本酒と泡盛をチャンポンしたんだから仕方がない。
「こうやって、腰溜めをしてな」
「まさか」と思う間もなく、S野さんはポストに向かって正拳をぶち込んだ。相手は石でできたポストである(あまり見かけなくなった、丸いヤツです)。
ゴンッともゴキッともつかない音がした。よくは分からないが、ポストに拳の跡が付いているようにも見える。
「なっ、なぎら、これが正拳というものだよ」と、S野さん。(「本当の正拳」より)
[2009年7月25日] この日の感想・書評へ→

鬼平対甚一
植草甚一
池波ファンになってから人形町を歩いていて、それもまんなかの通りではなく、いくつかある横町を曲ったあたりで、こいつは面白いぞと思うようになったのだった。
余談になるけれど「鬼平犯科帳」はもちろん、池波正太郎の「剣客商売」でも「必殺仕掛人」でも、いまの下町にあたる江戸時代の町が事件の重要な背景になっていて、ぼくみたいな時代小説にたいする頓珍漢でも、「江戸名所図会」をひろげて楽しむことがある。(「鬼平犯科帳」より)
まもなく東京での一人暮らしが始まる。住み慣れた家を手放し、家族もいったん解散してそれぞれの道を歩む。月に一度は関西に戻るし、妻や子供達も思い思いに東京へ遊びに来るだろうから幾分気持ちは楽だが、それでも何とはなしに寂しいものだ。
ただ一つ、心密かに愉しみにしていることがある。それは東京の地で実際に暮らしながら、「鬼平犯科帳」や「剣客商売」などを一から読み返すこと。仮住まいとなる千住辺りは池波作品でも頻りに登場する舞台であり、若き時代の長谷川平蔵が無頼を極めた本所、浅草にも程近い。本書の植草甚一さん同様、鬼平を読みながら江戸名所図会を広げ、作品世界をゆるゆるとそぞろ歩きたいものである。
そうして最後の「むかしの女」を読んでいるとき、急にチャールズ・ディケンズの「オリヴァー・トウィスト」や「ロンドン・スケッチ」が読んでみたくなった。長谷川平蔵が[本所の銕]という異名で呼ばれていた放蕩時代に、なじみとなった商売女との再会で、ユーモアがよく利いていて面白いし、ヴィクトリア朝初期のロンドンでも、こういう遣り手婆さんがカモが引っかかるのを待ちかまえていたことだろう、と思ったからである。(「鬼平犯科帳」より)[2009年7月 2日] この日の感想・書評へ→

世界認識のための情報術
佐藤優
暴力による収奪によって存在している官僚の発想は、基本的に暴力的だ。国際法の主体は基本的に国家である。国際機関や個人が主体になることは、きわめて限定的な状況でしかない。国際情勢や日本外交を読み解く場合にも、その視座を、市民、社会に置く場合と、国家に置く場合では、その姿がかなり異なって見えてくる。(「はじめに」より)
一昔前なら、本書の様なハードボイルド風「国際情勢本」は落合信彦の独壇場だったが、今はすっかり著者がお株を奪った感じ。まさに「右」も「左」も席巻している状況だ。昨今話題の「国策捜査」という言葉を世間に認知させ、一躍世に出るきっかけとなった「国家の罠」が読物としてかなり面白かったため、つい期待が高まり新著を手に取ってしまう人も多いだろう。いかにも怪僧ラスプーチンの異名が似合う容貌魁偉なアンチヒーロー的ビジュアルも、読者を引き付ける要素になっているのかも知れない。
そう言えば鈴木宗男は近頃何となく“いい人”っぽく見えてきたのに、著者の悪人面はあまり変わらず、どの著書の顔写真もあえてそうした印象操作をしている風に思える。これも著者一流のしたたかな計算なのだろうか。
「小さな政府」の実現にあたっては、国家から社会福祉、教育などの部門が削られる。そして、軍隊(自衛隊)、検察、警察、外交などの暴力装置としての国家と密接に関わる部分だけが残る。結果として、国家官僚の文化が暴力的になる。暴力の裏付けがあれば、行政命令や捜査権によって、官僚の意図する通りの国家と社会を作ることができると勘違いする官僚が増えてくる。(「世界をできるだけリアルに認識するために」より)
[2009年6月24日] この日の感想・書評へ→

「諜報的生活」の技術
野蛮人のテーブルマナー
佐藤優
情報源、協力者にカネを渡すとき、相手の経済状態には細心の注意を払う必要がある。相手がカネを遊びに使っているならば、関係を切ったときに大きな問題を生ずることはまずない。しかし、このカネが家族の生活費である場合には、生活苦からカネ目当てにこちらの情報を敵機関やマスコミに売る危険性が生じる。(「第10回「上手なカネの渡し方」より)
逮捕され、刑事被告人になって人生が“好転”する人など、そうはいない。そんな稀有な人生を歩んでいるのが佐藤優である。国策捜査によって逮捕され刑務所に収監されていた五百数十日の間に、専門書を中心に本を三百冊以上読破し、ラテン語までマスターしてしまう程旺盛な知識欲。さらにはビデオカメラで録画するかのごとくその場の全事象を記憶する能力等、元々常人にない才能の持ち主ではあったが、外交官時代の諜報活動や裁判中、収監中の見聞を最大限活用して今や一躍人気作家である。そして「国家の罠」「テロリズムの罠」等硬派な本が多い中、本書はアントニオ猪木との対談をはじめ、著者にしては珍しく寝そべって気楽に読める内容のもの。先頃は外務省を舞台にした官能小説も刊行したとのことで、色々作風を広げている様だ。
猪木 本当にもったいない存在ですよ、佐藤さんは。オレも佐藤さんにはいろいろ教えてもらったけど、その時々の言葉のニュアンスとかで内部で何が起きているかかぎつけてしまうんだから。
佐藤 僕も猪木先生には大事なことを教えてもらいましたよ。例えば先生は酒を徹底的に飲ますか賭博場へ連れて行けば、すぐに相手の性格がわかる、とおっしゃってましたが、確かにそのとおりでした。(特別対談「『ロシア的飲食術』は、命懸け」より)
[2009年6月18日] この日の感想・書評へ→

日本列島プチ改造論
パオロ・マッツァリーノ
庶民感覚が国政に反映されない、とみなさんご不満を漏らします。二世・三世のお坊ちゃん議員に、なにがわかる、とね。そのご意見、いただきましょう。庶民を政治家にしてしまえばいいのです。
参議院議員は、国民の中から抽選で選びましょう。裁判員制度と同じ方式です。司法にできて、立法にできないはずがありません。タレントやレスラーだって、議員になってから勉強してるんです。だれにでも議員は務まります。(4「参議院を庶民の手に!」より)
大和書房のHPに毎週掲載していたエッセイをまとめた本。「反社会学講座」の頃と比べて舌鋒が鈍いだの旬が終わっただの、好き勝手な批評をする人もいる様だが、折々の旬な話題にこれだけ高い打率を維持する発想力はまさに“日本人離れ”しており、意表をつく「日本改造論」が随所に埋め込まれていて楽しい。例えば駆込乗車防止のため「電車のドアをギザギザに」との提言はマンガチックだが、「JRの議員パスを使用記録が残るICカードに」や、「高価な買物である住宅こそ返品可能にすべき」、「何が他人の迷惑になるかをガキ共に伝える“ちょいウザ”おやじになろう」などは至って真っ当な意見だ。個人的には「参議院議員を抽選で」に一票! 突拍子もない様で実は結構名案だなあと思う。
デイトレーダーや投資家の人たちには、マネーゲームをやる才能しかないのです。彼らはマネーゲームのような虚業しかできないんです。その証拠に、マネーゲームで巨万の富を得た人が、それを元手にゼロから実業−−カタチあるモノを創って売る会社を興した例はほとんどありません。
なぜなら彼らには、実業で成功するのに必要な創造力や対人交渉力が欠けているからです。(45「夏休みの宿題1 虚業の才能」より)
[2009年6月 8日] この日の感想・書評へ→

買い物する脳
驚くべきニューロマーケティングの世界
マーティン・リンストローム著/千葉敏生訳
ソマティック・マーカーとは、相反するふたつの要素のあいだの関連付けによって作られる。この場合、ふたつの要素とは、平和な朝と、突然のブレーキの音だ。その方が日々の生活で形作られるほかの関連付けよりも、記憶に長く残りやすいのだ。広告主が、興味を惹くために、まったく関係なさそうなふたつのもののあいだに、驚くような、ときにはショッキングな関連付けを作り出そうとするのは、そのためだ。(第7章「ソマティック・マーカーの威力」より)
ニューロマーケティングとは、人間の脳をスキャンし生活者の広告に対する反応を脳科学的に分析する手法のこと。fMRI(機能的磁気共鳴映像法)等の技術や脳波図を使って、被験者が広告を見たり聞いたり、臭いを嗅いだりした時に脳のどの箇所が“光る”かを観察することで、通常のアンケート調査等では顕れない被験者の無意識の本音が分かるらしい。確かに特定タイプの異性に心惹かれるのと同様、売場でなぜか特定の商品を選んでしまうことはよくあるし、その出会いの瞬間における脳の反応を観察した方が、後付けの説明よりは真実を語ってくれそうだ。
ただニューロマーケティング自体がまだ発展途上なせいか、残念ながら本書には理論的説明は一切なく、「何とこんな結果が!」の羅列しかない。という訳で、ロジカルな説明を期待する人には物足りないが、人間の行動パターンさえ分かれば説明は二の次、と割り切れる人には有益な本。
今後、恐怖を利用したマーケティングを目にする機会はますます多くなるだろう。これまでも述べたとおり、世界にストレスが多くなればなるほど、私たちは恐怖感を抱き、安定した基盤を求めるようになる。安定した基盤を求めれば求めるほど、私たちはドーパミンに頼るようになる。脳内のドーパミンが高まれば高まるほど、「もの」が欲しくなる。まるで、高速のエスカレーターに乗ってしまい、降りることができなくなるようなものだ。(第11章「新しい一日を」より)
[2009年5月28日] この日の感想・書評へ→

食べ物日記
鬼平誕生のころ
池波正太郎
五月二十五日(土曜) 晴
ひる、国立劇場へ初めて行く。杉本とまち合せ。「裏表先代萩」の通しなり。久しぶりでタンノウせり。国立はシートその他、おそらく日本最高の見やすい劇場ではなかろうか。日生と匹敵しよう。
五月二十六日(日曜) くもり
[昼]やきそば、コーヒー 母、トヨ子渋谷デパート行。
[夜]ビール、ハマグリのフライ、キャベツ、青豆のごはん、トマト、そうめんの吸物、つけもの(「食べ物日記」より)
この一、二ヶ月程、縁あって本所・深川周辺を歩く機会が多い。先頃も商談で菊川駅を利用した際、駅の真上が「鬼平」こと長谷川平蔵の旧宅跡であると知り、周辺の路地を一回りした。(ちなみに「金さん」こと遠山金四郎も後年同じ屋敷に居住したらしい。)
生まれ育った関西にしばし別れを告げ、近々東京暮らしを始める予定だが、住むなら鬼平さんの役宅付近が良いか、秋山父子がそぞろ歩いた界隈にしようか・・・などと物語の世界と街角の景色を重ねつつ、仕事の合間に棲み家を探している真っ最中だ。無論、池波さんが足繁く通った数々の銘店にも、いずれは足を踏み入れてみたいと考えている。
退院して、約半月ぶりに日記をつけた。私の日記は三年間連用のもので、毎日、食べたものを記してあるのみだ。
これは何も、食べものに執着をするからではない。
私の仕事が居職のこととて、家人が日々の食事に何をしたらよいか困ってしまうところから、日記に書いておく。
春なら春、秋なら秋の項を引いてみれば過去の十五年の記載があるから、たちどころに、 「これとこれにしよう」と、決まる。(「食日記」より)
[2009年5月25日] この日の感想・書評へ→

ひとりで、居酒屋の旅へ
太田和彦
女性は、この店は古くて不便でガタビシだからいい、などとは決して言わない。しかし男は家が立派になることなどよりも、自分の苦闘した過去の記憶のほうが大切だ。そのために昔と変わらない居酒屋に今も入る。居酒屋は酒を飲むところであるが、それ以上に、自分の過去をふり返りそれを肯定してゆくところだ。(「横浜の三杯屋」より)
「超・居酒屋入門」「完本居酒屋大全」他数々の居酒屋本や、各種雑誌の居酒屋特集への寄稿文、CS旅チャンネルの「居酒屋紀行」シリーズなどを通じて、すっかり居酒屋評論家としての肩書の方が有名になってしまったが、著者は元々資生堂の宣伝部で、アバンギャルドな広告ばかりを作っていたアートディレクターである。
思えば、人生の前半は自分の好きなクリエイティブ作りに没頭し、後半は居酒屋巡りで飯が食えるとは、何とも羨ましい人生だ。佳き酒、良き店、善き飲み方を三位一体で指南できるこの人の境地へ行き着くには、まだまだ夜の街で支払う授業料が足りないのだろう。
太田 (略)・・・僕の場合は酒を飲みに行くこと自体が旅の目的だから、その街の繁華街を聞いて、昼間歩いておくんです。それで見当をつけて、夜そこに入る。基本は、その街で一番古い居酒屋、バーに入ることです。僕は古い店は無条件にいいですね。 川上 ずっとお店を続けていられるということが、まずいくつものハードルを越えているということなんですよね。(「[対談]地方のバーの楽しみ」より)
[2009年5月15日] この日の感想・書評へ→

人声天語
坪内祐三
私は、酒は、生き方だと思う・・(中略)・・その生き方の中で、年齢と共に、飲む酒の種類や飲み方が微妙に変わって来る。日常をせわしなく動いて行く時間、いわばブーム的時間と別の時間や思い出を作るために、私は、酒を必要とする。(「シングルモルトのブーム」より)
「『天声人語』のお澄ましした意見では今の日本のことは何もわからない」と、本書の扉に書いてある。確かに、自分らの声を天の声になぞらえた「天声人語」とはいかにも上から目線のタイトルだなと、パロディであるこの「人声天語」の字面を見ながら改めて思う。但し著者はわざわざ巻頭で、「パロディではない」となぜか断りを入れている。一方で、「人声」は反射神経による私的な思考だから、時にパブリックな「天声」と対立するよと軽く宣戦布告もしている。防御しながら攻めるのも良いが、文藝春秋という媒体にこのタイトルでコラムを書くと決めた時点で、「天声人語」的言論のアンチテーゼたらんとする意識が透けて見える訳だから、いっそパロディと開き直った方が読み手もスッキリする。もちろんコラムというのは中身が面白ければそれでいいし、その意味では特に文句はないが・・・。鋭さと鈍さが同居する一冊。
なるほど、最近は、以前と比べて、その動機が明確でない不気味な殺人事件が増えている。
しかし、その際に、安易に、「心の闇」という言葉を使ってはいけない。
なぜ使ってはいけないのかと言えば、この言葉を使うことによって、判断停止が隠蔽されてしまうからである。(「『心の闇』で判断停止」より)[2009年5月11日] この日の感想・書評へ→

予想どおりに不合理
ダン・アリエリー著/熊谷淳子訳
値段ゼロは単なる値引きではない。ゼロはまったくべつの価格だ。二セントと一セントのちがいは小さいが、一セントとゼロのちがいは莫大だ。・・・(略)
思うに、ほとんどの政策参謀は、無料!が手持ちのエースだということに気づいていない。まして、その切り札をどう使うかなど考えてもいない。(3章「ゼロコストのコスト」より)
先頃読んだ「人は意外に合理的」と好対照なタイトルだが、結果的には背中合わせの一冊。古典的な経済学と行動経済学の視点の違いを知る意味では、まとめて読むと良いかも知れない。
全編のテーマは「経済学の理論程人は合理的決断をしていないが、その不合理さは十分予想可能なものである」ということ。「無料!」に惹かれ余分な買物をしたり、高級レストランでは二番目に高いコースが売れ筋だったり、性的に興奮すると理性的判断をし損なったり、無報酬の仕事にやたら入れ込んだり、高いドリンク剤程効き目を“実感”したりと、愛すべきフツー人の行動類型が多くの実験結果を踏まえ分析されている。
そして本書の眼目は分析と問題提起に終わらず、随所に著者なりの「答え」を用意しようとする姿勢にある。第6章の「自制クレジットカード」などは実に名案で、新しい研究分野である行動経済学を、社会にとって真に役立つ学問にしたいとの思いが窺えるようだ。
わたしたちみんなが、個人の生活でも仕事でもつきあいでも不合理な決断をしつづけていると気づかされるのは、かなり気がめいる。しかし、それでも希望の光はある。・・・(略)・・・わたしたちみんなが決断するときに規則正しい失敗をするのなら、新しい戦略なり道具なり方法なりを開発して、わたしたちがよりよい決断をし、全体的な幸福感を増やせるようにしたらどうだろう。(13章「ビールと無料のランチ」より)
[2009年5月 7日] この日の感想・書評へ→

世界は感情で動く
行動経済学からみる脳のトラップ
マッテオ・モッテルリーニ著/泉典子訳
ダイスを投げた結果も、投げたコインが出す面も、ルーレットの上で球が止まる仕切も、どれもがすべて偶然で、前回の結果にはいささかも影響されない。それなのに私たちの多くは、それまで長いこと出なかった色や数に、どうしても気をとられてしまう。たとえば「ロトくじ」をしているとしよう。あなたは出たばかりの数字を「気軽に」選ぶことができますか?(6「『ホットハンド』の持ち主を探せ!−大数の法則」より)
高いワインをおいしく感じる「ハロー効果」や、単なる偶然の中に意味を見出そうとする脳の習性、一旦結果が判ってから「そうなると思っていた」と言いたがる「後知恵」etc.、物事を判断する際に陥りがちな37の「脳のトラップ」を豊富な事例で紹介している。最初は「確かに人間なんてそんなものだ」なんて気楽に読んでいたが、思い当たる節の多さに少し複雑な気分になった。
マーケティングに携わる立場とすれば、本書で得た心理学的知見を巧く応用して世の中を動かしたいものだが、一消費者の立場としては、自らの“客観的・論理的”判断なるものを過信せず、巧妙な心理的トラップに左右されていないかどうかを常に意識する必要があるなと痛感した。
予言の自己成就/ピーク・エンドの法則/コンコルドの誤謬/フレーミング効果/基準値の誤り/大数の法則/代表性のマジック/偶然に秩序をみる/原因と結果の相関関係/確実性効果/統計より感情/アンカリング効果/注意力の欠如/注意の焦点化効果/帰属のエラー/自己奉仕バイアス/集団の知恵/バーナム効果 /フォールス・コンセンサス効果/群れ思考/集団思考/集団規範/他の集団への偏見/ハロー効果/自信過剰/願望的思考/後知恵/偽りの記憶/無意識のいたずら/順序効果/プランニングの誤り/欲深と尻すぼみ/明るい記憶/現状維持/先入観のトラップ/損失回避性/後悔の理論(目次より)
[2009年5月 1日] この日の感想・書評へ→

神戸立ち呑み八十八カ所巡礼
芝田真督
「立ち飲み」とは椅子を置かない飲酒形態一般をさし、「立ち呑み」は九州などでは「角打ち」と呼ばれる「酒屋のコップ酒」を基本に置く。狭い範囲で考えても神戸、大阪、京都、それぞれの酒場は成り立ちも雰囲気もまったく異なる。関西の立ち飲みと書かれた文章の多くは大阪のそれを指していることがほとんどであると言っても差し支えない。
ここはきちんと神戸には「神戸の立ち呑み」があることを主張しておきたい。(「神戸は“立ち呑みの街”−はじめに」より)
近頃は立ち飲み9:居酒屋1という位に立ち飲みへ通う比率が高い。神戸では阪急六甲前の「粋酔」、東京では新橋第2ビル地下の「こひなた」がホームだが、出張などの折にふらりと新規開拓をしては、常連客と店主の会話を肴に飲んでいる。また常連といっても一人客が結構多いので、初めての店でも意外とその場に溶け込めたりする。逆説的ではあるが、いつでもさらりと立ち去れる気楽さが、値段の安さと相まって気分的なゆとりやくつろぎにつながるのかも知れない。若い頃にはやりたくもなかった「立ち飲み屋での一人飲み」が、今の自分にとっては最高に贅沢なひとときである。
雨や嵐でもない限り、夕方になると北本良三さんが引く屋台の車が現れる。小一時間かけて準備をした後、今宵も「いくちゃん」は開店する。
開店を待ちかねたように、どこからともなく常連客が集い屋台はダーク状態に。あたりが暗くなるにつれ店の賑わいは最高潮に達し、町の風景に溶け込んでゆく。(「いくちゃん」より)
[2009年4月28日] この日の感想・書評へ→

テロリズムの罠 左巻
佐藤優
ソ連崩壊後は、もはや社会主義革命について心配する必要が日本の国家にも経営者にもなくなった。先進資本主義国は、小さな政府、規制緩和により、強い経済主体を一層強くすることにより、結果として国力を増進しようとした。すべてを市場メカニズムに委ねる新自由主義が世界的流行になった。小泉純一郎内閣が行った改革は、弱肉強食の新自由主義を日本に導入することだった。(第3章「控訴棄却」より)
「新自由主義」とは、「小さな政府」や規制緩和、政府部門の民営化等によって経済を活性化させようとする経済政策的立場のこと。「規制緩和」「構造改革」といった耳馴染みの良いキーワードが多く、世間的にも長年ポジティブに受け容れられてきたが、その結果としてここ数年来「格差社会」「二極分化」「地域間格差の拡大」「非正規雇用の増加」といった問題が取り沙汰され、世界的にも「こりゃヤバイかも」という空気になってきた。
そもそも政府を小さくし、民営化を進めて競争を促すのだから、「弱肉強食」になって当然。経済の論理だけが剥き出しになるので、富はますます強き者へと流れ、路上やネットカフェで暮らす人は増えていく。まるで一昔前の資本家対労働者の対立構図の様だが、ソ連崩壊によって社会主義への幻想(or悪夢)は潰えているので、澱の様に溜まった負のエネルギーは個別に社会へと向けられ、歪んだ形で暴発するのかも知れない。
国家は、「世直し」という理由で、国家の了承を得ずに暴力を行使した民間人や官僚を絶対に許さない。政治テロやクーデターは、国家によって徹底的に鎮圧される。その結果、国家自体が暴力を剥き出しで行使するようになる。・・・(略)
現状の閉塞状況が続くと、テロかクーデターが必ず起きると筆者は危惧する。思い詰めた、日本を愛する人々が、暴力によって「世直し」を試みると、その結果、国家が暴力性を高める。この認識を共有することがテロやクーデターの歯止めになる。そのために思想がもつ力をいまここで発揮しなくてはならない。(「あとがき」より)
[2009年4月25日] この日の感想・書評へ→

テロリズムの罠 右巻
忍び寄るファシズムの魅力
佐藤優
危機的状況に直面すると不安の姿が見えてくる。不安に耐えることができない人々は、テロルによって不安を一気に解消しょうとするが、それは不可能だ。テロルが自らに向けられれば自殺になる。テロル、自殺は、不安に対する偽りの処方箋だ。
不安に対するもう一つの偽りの処方箋がある。国家を強化する運動に自らを埋没させることで、不安を解消しょうとするファシズムの道だ。(第7章「恐慌と不安とファシズム(下)」より)
世の中には二種類の人間がいる。「当事者」と「傍観者」である。大抵の社会的事象に対し私達は「傍観者」を決め込んでいるが、例えば入社式前日に内定を取り消されたり、派遣切りに遭って寮を追い出されたり、取引先の倒産に巻き込まれた途端に、昨秋来の世界的経済不況の波をリアルに被る羽目に陥る。いつどんな形で「当事者」になるか知れたものではないし、そんな不安感が未来を担う若い世代に蔓延している様だ。一方で、事ある毎に自己責任が取り沙汰され、個のアトム化が進む中、社会的連帯感や共同体意識はますます薄まっている。
こんな閉塞した時代だからこそ無意識にテロを「期待」する空気が生まれ、社会から転げ落ちた人々を糾合してエネルギーに変えるファシズムが、一種の魅力的な思想として忍び寄っていると著者は警鐘を鳴らす。果たして著者が考え過ぎなのか、社会が考え無さ過ぎなのか。ただこうした思想的座標軸を通して世の中を眺めると、雑多な表象がつながって見えてくるのは確かだ。
ここで重要なのは、無意識のうちにテロによる社会の変化への「期待」が国民の中に生まれていることだと思う。同年六月の秋葉原無差別殺傷事件も、派遣労働の悲惨さとからんだ社会性をもつ事件であるという受け止めがなされた。・・・(略) 議会活動や通常の社会的異議申し立て(請願、集会、デモなど)で、政治や社会が変化しない場合、義憤からテロによる「世直し」を試みる者がでてくるというのが日本の政治文化だ。(第9章「新帝国主義と〈暴力〉の弁証法」より)
[2009年4月22日] この日の感想・書評へ→

レジェンド 伝説の男白洲次郎
北康利
犬丸が帝国ホテルの社長に就任することが決まったとき、
「お前、社長になるんだってな。役得を考えるんじゃなく役損を考えるくらいじゃないとな」
と言ったのは有名である。社長就任へのはなむけとして、これほど素晴らしい言葉は聞いたことがない。(「人の縁と人間力」より)
「白洲次郎 占領を背負った男」の著者が、新たに得た次郎のエピソードを中心に編んだ外伝的位置づけの書。前著を補完する形で、次郎の人柄がにじみ出る何気ない逸話や名文句が時系列で紹介されている。この駄文の前後に引用した次郎の言葉などは、機会があればぜひ使ってみたいもんだが、自分の様な半端者が使うと大ケガをしそうでコワイ。
先頃NHKでドラマ化されて以来、書店等を見てもまさに今は「第二次白洲次郎ブーム」といった様相を呈しているが、年配者だけでなく若い世代にも次郎が受け容れられているのは、裏返せば今の世の中、若者が手本にしたくなる様な真の格好いい大人がいない表れなんだろう。
その麻生は別の機会に、次郎から女性にもてる秘訣について次のように教えてもらったそうだ。
「金払いはよくしろ、明るくふるまえ、特定の女ばかりとしゃべるな」
そして最後に、
「言い寄られたらノーと言え」
と付け加えた。(「格好いいってこういうことさ」より)
[2009年4月19日] この日の感想・書評へ→

涙の理由
重松清・茂木健一郎
重松 僕の小説で、四十代の人が読んで流す涙と、十代の若い読者が流す涙は微妙に違うかもしれない。それが全て「泣けた」の一言で「等し並」になってしまうのは・・・・。だから「涙の理由」は、その理由が一つしかなかったら全く無意味なわけで、「涙の理由」は増えていかないと。「涙とはこういうものですよ」と一言で終えてしまうと、ある種のファシズム的な涙だって成立しちゃうわけでね。(第3章「有限の生しか持ちえない私達ができること」より)
「泣ける」を売りにする小説や映画がやたら目に付く昨今。いわゆる「泣ける」作家の代表・重松清と、売れっ子脳科学者である茂木健一郎を、「涙の理由」というテーマで対談させるという着想が絶妙だ。そして丸二年以上にわたる数回の対談を経て、両者は最終章で「自分だけの涙の理由」という命題にたどり着くが、この結論にもかなり納得できた。
そう。涙は本来的に個人の文脈の中でこみ上げるものであり、予定調和的に期待される様なものではないはず。でも近頃は最大公約数的に「泣ける」作品が幅を利かせ、皆が競って「泣いちゃいました」と言いたがる。何とも気持ちの悪い風潮だなあと常々感じていたが、その気持ち悪さの理由が本書で確認できた気がする。
重松 本当は文芸評論家、批評家が「感動」という言葉を使ってはいけないはずで、「感動」を使うときには、よほどの覚悟がいると思うんだよね。でも、平気で書くじゃない。「感動的である」とかさ。だから、すごく言葉が、感情が、怒りが、共感が「安くなっている」感じがする。
茂木 「涙の叩き売り」だね。(第4章「それぞれの時代の涙」より)
[2009年4月16日] この日の感想・書評へ→

人は意外に合理的
ティム・ハーフォード著/遠藤真美訳
ライトユーザーは値上がりすると摂取を減らす傾向があるが、ヘビーユーザーは摂取を完全にやめる途を選ぶかもしれないということだ。・・・(中略)・・・アルコール税が引き上げられると、アルコールの消費量は減るが、肝硬変による死亡率はそれ以上に急激に下がる。いいかえると、アルコールの価格が上がったときに飲酒量をいちばん減らすのは、アルコール依存者なのである。(第2章「ラスベガス−理性の淵」より)
いきなり「なぜ米国ではオーラルセックスをする未成年の割合が2倍に増えたのか」と来たから、つい引き込まれてしまった。HIV感染等セックスにおける近年のリスク増に対し、多くの未成年者が「合理的判断」を下した結果だというのが本書の答えだが、他にもギャンブル、離婚、犯罪、人種差別、戦争、政治、技術革新等多岐にわたるテーマを取り上げ、「この世界がいかに合理性に基づいているか」を例証している。
但し本書は「合理的=正しい」とのスタンスには立たない。例えば「合理的人種差別」。優秀な白人/普通の白人/優秀な黒人/普通の黒人の4者がいる場合、一般的な米国企業は優秀な黒人より普通の白人を選好する。そしてきっかけが何であれ一旦その選択が普遍化すると、黒人はいくら勉強をしても得るものがないため、平均レベルが下がっていく。すると採用側は「合理的」判断の下、ますます黒人を採らなくなる。こうして人種差別の悪循環は続いていく訳だが、この構図をなくすには「差別しない方が合理的になるロジック」を示すほかない。なかなかの難問である。
たとえば、男性は太りすぎていない女性を好む。そうだとすると、ある夜のスピードデートに太りすぎの女性がいつもの数の二倍参加したら、その夜はデートを申し込む男性が少なくなるはずだ。ところがそうはいかない。男性陣がデートを申し込む割合はまったく変わらないのである。そのため、太りすぎの女性が二倍いると、デートに誘われる太りすぎの女性も二倍になる。(第3章「離婚は過小評価されているのか」より)
[2009年4月 7日] この日の感想・書評へ→

男の居場所
勝谷誠彦
信州の「明鏡止水」。東北の「まんさくの花」。こうした、ありがちな酒も珍味と出会うと見慣れない相貌を見せる。酒呑みにとっては馴染みの女が意外な色香を匂わせたようで、こういうことが嬉しいというのは、私も歳をとってきたのかもしれない。いや、自分で自分に惚気ているのである。(II「私が愛した酒も料理も旨い店たち」より)
かつて阪神御影駅の近くに「K」という居酒屋があった。酒蔵を定年退職した元営業マンが震災で壊れた蔵の廃材で建てた店、との新聞記事を読み興味本位で訪れたが、初めて扉を開けた時の何とも言えない店主の笑顔と、店内から醸し出された温かい空気に一発で魅かれ、常連になった。五木ひろしの歌ではないが、絵もない、花もない、歌もない、電話もない、珍しい酒も凝った肴もない小さな店だったが、いつも客で一杯だった。何となく居心地が良いというだけが魅力の店だったが、結局その居心地の良さこそが、「男の居場所」として最も大切な条件なのかも知れない。
残念ながら店主が突然の病に倒れ「K」は閉店。店は取り壊された。ただ先頃、私の新たな「居場所」となった立呑み屋で当時の常連客と出くわし、一頻り愉快な時間を過ごした。店はなくなったが、今でもこうして居心地の良いひと時を私に提供してくれている。
日本酒にする。「奈良萬」の無濾過生原酒。酸が乗っていてピンと切れがいい。ここに「〆サバの藁燻」を。わあああっ。これは濃厚なスモークサーモンだ。軽く塩をしてあるのだろうか。醤油もいらない。そのままで口に含むと燻製の香りが酒を更にすすませる。
「来福」の純米大吟醸とともに、今度はカワハギの肝和えを。これを知ってしまうとフグの食感は軽薄すぎて下品にすら思える。(II「私が愛した酒も料理も旨い店たち」より)
[2009年4月 4日] この日の感想・書評へ→
天皇陛下の全仕事
山本雅人
まず、天皇の仕事の多くは「人と会う」ことであり、憲法で規定された天皇の国事行為の中に外国交際関係のものが含まれているように、国事行為とそれ以外を含めた仕事で約四分の一を占めるなど「外国親善・交際関係」が多い。
そして、国事行為以外の行事は現在、「ほとんどは天皇・皇后両陛下で臨まれ」、行事の「多くは皇居内で行われ」、「定例の行事が約八割を占めている」ことがわかる。(4「『天皇の仕事』の内訳」より)
天皇陛下が毎日どんな仕事を行っているのかを、元宮内庁担当の新聞記者が詳しくレポートした本。国事行為、宮中祭祀、宮中晩餐会、地方訪問、稲作、外交関係の謁見など、知られざる日常生活が実に細かく調べて書かれている。
本書を読んだ大半の人はきっと、「天皇の仕事ってこんなに激務なのか」と感じたに違いない。七十代半ばにしてこれ程の激務を粛々とこなしている人は、世界中見渡してもそうはいないだろう。おまけに生きている間は退位も許されないため、ご高齢になってもこの状況から一生逃れることはできない。憲法第22条で定められた「職業選択の自由」を持てない日本で唯一人の人、それが天皇陛下なのである。
関係者によると、陛下の起床時間はだいたい午前六時ごろ、朝は新聞に目を通し、テレビのニュースなどもご覧になるという。就寝時間は一定しないが、だいたい午後10−11時ごろという。
両陛下の食事は宮内庁の大膳課の職員が作り、関係者によると、朝は洋食を、昼と夜は日ごとに和・洋・中を交互にとられており、内容は特別豪華なものではなく、一般家庭とあまり変わらないという。(23「スケジュールはどのように決まるのか」より)
[2009年3月26日] この日の感想・書評へ→

国家の罠
佐藤優
「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は「時代のけじめ」をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」
「見事僕はそれに当たってしまったわけだ」
「そういうこと。運が悪かったとしかいえない」(第五章「『時代のけじめ』としての『国策捜査』より)
車のハンドルに「遊び」がある様に、厳格な法律の世界にも運用上の「遊び」はある。制限速度を1km/hオーバーしただけの車を片っ端から捕まえてはいられないし、落ちていた100円玉を財布に入れた人を無闇に逮捕する事もない。しかしある日突然特定の個人を標的に、法を運用するハードルが恣意的に下げられたらどうなるか。違法の名の下に、冤罪でもでっち上げでもなく犯罪者が作り上げられてしまう事になる。著者が置かれたのは図らずもそうした状況であった。
外交官として国益に適うと信じ、組織の決裁まで得て成し遂げた仕事が、国策によって「罪」と断ぜられる不条理。そしてこの不条理に著者はどの様に挑んでいったのか? 社会正義の意味や歴史に対する責任の取り方など、様々な問いかけを内に秘めた読み応えある傑作。
「被告が実刑になるような事件はよい国策捜査じゃないんだよ。うまく執行猶予をつけなくてはならない。・・・(中略)・・・国策捜査で捕まる人たちはみんなたいへんな能力があるので、今後もそれを社会で生かしてもらわなければならない。うまい形で再出発できるように配慮するのが特捜検事の腕なんだよ。だからいたずらに実刑判決を追求するのはよくない国策捜査なんだ」(第五章「『時代のけじめ』としての『国策捜査』より)
[2009年3月15日] この日の感想・書評へ→

風の男白洲次郎・白洲次郎の流儀
青柳恵介
白洲次郎・白洲正子他
白洲次郎の生涯を眺めわたしたとき、彼が身をもって実行し、己を律し、さらには高い立場にいる人間を容赦なく叱りつける際の言葉として浮かんでくるのは、不思議なことにさらりと気障な衣装を脱ぎ捨てた、このnoblesse obligeという言葉である。おそらく彼は、この語を受動的に解することをせず、きわめて攻撃的な語として用いたのである。(風の男白洲次郎・第三章1より)
カッコいい風貌に生まれたからといって、生き方迄カッコいいとは限らない。逆に、生き方がカッコいいからといって風貌迄カッコいいとは限らない。両方を兼ね備えた人は往々にしてドラマの世界にしか存在し得ないが、その意味で白洲次郎は両方を兼備した上で歴史に残る働き迄なす事ができた、史上稀有(いや、もしかしたら空前絶後)の存在かも知れない。
「風の男白洲次郎」は国文学の専門家である青柳恵介氏が白洲正子夫人の依頼で執筆した評伝、「白洲次郎の流儀」は周囲の人々の回想を随所に織りまぜた写真集である。写真集を眺めつつ評伝を読めば、真にカッコいい男とはどんな男で、自分というちっぽけな存在が如何にそこから遠く離れた位置にいるかがよく分かる。「白洲次郎 占領を背負った男」も併せて読むべし。
坂本龍馬が自由で先見性のある視点を持てた所以は、彼が脱藩者であったからだとよく言われる。龍馬の脱藩者の視点、もしくは立場によく似たものが鶴見氏の言う「いかにも次郎らしい〈騎士道〉」なのではなかろうか。そしてそれは彼の方法でもあったと思う。(風の男白洲次郎・第四章4より)
[2009年3月12日] この日の感想・書評へ→

国家と人生
寛容と多元主義が世界を変える
佐藤優・竹村健一
竹村 僕は一時期「電波怪獣」と呼ばれていました。毎日のようにテレビかラジオに出ていたからです。いまテレビはフジテレビ系の『報道2001』だけですが、この番組は現在一六年続いています。前身の『竹村健一の世相を斬る』や日本テレビ系の『世相講談』を含めると足掛け三〇年以上も休まずテレビに出続けていることになります。(第2章「遠い日のルーツをたどる」より)
大学時代は「竹村健一マニア」だった。著書を読み漁り、TVの「世相講談」と「世相を斬る」は毎回録画し、ラジオの「ズバリジャーナル」も時間が許す限り聴いた。会員制の「世相クラブ(だったかな・・・?)」にも入会し、「英文誌にも目を通すべし」との声に推され「Newsweek」を定期購読した。当時の氏の言葉には青年の知識欲を手早く満たしてくれる明解さと力強さがあり、同時に、マスコミの論調と一味違う視点が持てる「知的優越感」を味わわせてもくれた。
社会に出ていつしか熱は冷めたが、今回たまたまブックオフで本書を見かけて購入、ほぼ25年ぶりに氏の言説に触れた。さすがに丸くなったかも・・・というのが正直な印象。そのぶん対談相手・佐藤優の博覧強記ぶりが引き立っていた。近々何か一冊読んでみようか。
佐藤 濫読は重要ですね。興味のあるものを手当たり次第に読むというのは。
竹村 それだから割合、年を取っても興味力というか、興味を持つ力は衰えていないね。 佐藤 興味を持つ力をなくしたら、知的なものは入ってこなくなるでしょうね。日本のいま、特に若い世代に問題なのは、興味を持つ力が落ちていることではないでしょうか。(第4章「知力を高める読書術、記憶術」より)
[2009年2月26日] この日の感想・書評へ→

すすんでダマされる人たち
ネットに潜む【カウンターナレッジ】の危険な罠
ダミアン・トンプソン 著/矢沢聖子 訳
説明のつかない出来事をすぐ陰謀と結びつける陰謀論が大好きな人が、あなたの周りにも一人や二人いるだろう。イエス・キリストとマグラダのマリアが子をもうけ、その子孫がフランスのメロヴィング朝の王となったが、教会がそれをひた隠しにしているとか、エイズはCIAの研究室でつくられたとか、MI5がダイアナ妃の死に関与していたとか。(1「知識と反知識」より)
原題は「counter-knowledge」。直訳すると「反知識」で、事実らしく見せかけているが、実は根拠のないでたらめ、がせネタのことである。例えばそれは「エイズはCIAが開発した」「9.11にブッシュが関与していた」という類の話で、中には「1421年には既に中国艦隊が米大陸を発見していた」と真面目に論じた本まで出ているとか。で、これらのネタを一流出版社が本や雑誌で紹介したり、政治家が引用したり、芸能人が番組で取り上げたりするうちに事実と信じる人が増え、その結果健康を害したり、金銭的被害に遭う人が出て悲劇が蔓延する。過日マスコミを賑わした「円天」が一つの例だろう。「何でそんな話に騙されるの?」と第三者的には思いがちだが、情報操作のされ方次第でいつ自分がバカを見ないとも限らない。特に権威ある学者や医者が本気でその種のデマに引っかかっていたら、素人がそれに引きずられない様にするのは至難の業かも知れない。
言い換えれば、インターネットを通して世界中の人が無意識のうちにポストモダンの相対主義に染まっていったのである。サイエントロジーのスローガンを借りるなら、「あなたにとって事実なら、それは事実だ」というわけだ。さらにインターネットのおかげで、どんな奇抜な思いつきだろうと、それに賛同する人とつながれるようになった。(「6「デマと生きていくには」より)
[2009年2月23日] この日の感想・書評へ→

酒道入門
島田雅彦
私のような酒にいやしい者はいつでも飲みたい。なにしろ酒の場も好きだが、酒そのものが好きなので、さまざまな種類の酒を堪能したい。飲み比べたい。あらゆる場所で、異なる時間帯に、いろいろなシチュエーションで、相手を変えながら、飲みたい。(第二章「人はどういう時に酒を飲むのか」より)
「酒道入門」とは、やけに大上段に構えた書名である。浅慮な美意識を振りかざす自己満足本だったら途中で放り出そうと思っていたが、豈図らんや、酒席での女性の口説き方とか、見知らぬ国や土地での酒場のなじみ方など、程良く下世話な著者なりの「酒道」が、押しつけがましくなく綴られている。
酔うためだけに飲むヤツは論外だが、「酒の飲み方はこうあるべし」としたり顔で一席ぶつ輩とも飲みたくない。その点自らを「酒にいやしい者」と自覚しつつ、「酒そのものが好き」だからこそTPOを含めた多様性を貪欲に楽しみたい、という酒への情熱には大いに共感できる。同い年でもあるし、一度どこかの酒場でご相伴したいものだ。片や有名作家で大学教授、片や名もなきただの酒飲みだが、酒を愛する心に貴賤はない。
酒飲みも、酒は身を持ち崩す危険といつも隣り合わせだから、せめて清潔に努めるとか、どこかに一つのこだわりをもちたい。美意識を忘れないというだけで、だいぶ緊張感が保てます。そこを崩さなければ、いい酔っぱらいになれる。(「第五章「東京の下町、居酒屋はしご酒」より)
[2009年2月19日] この日の感想・書評へ→

ヤバい経済学[増補改訂版]
悪ガキ教授が世の裏側を探検する
スティーヴン・D・レヴィット スティーヴン・J・ダブナー 著/望月衛 訳
インセンティブは現代の日常の礎である。そして、インセンティブを理解することが−−おうおうにして壊してしまうことになるけれど−−凶悪犯罪からスポーツの八百長、出会い系サイトまで、どんな問題もほとんど解決できる鍵になる。(序章「あらゆるものの裏側」より)
25年も昔のことだが、一応経済学部を卒業した。だから経済学が実社会でほとんど役に立たない学問である、ということは十分学んだつもりだ。結局経済学が人間を「常に合理的に利益の極大化を追求する存在」と仮定して理論を構築する限り、非合理性に満ちた現実の人間行動に当てはまるはずもない。だから経済学者の景気予測は天気予報程も当てにされない。これ程理論と現実の違いに寛容な学問は他にないだろう。
その点「経済学」と題してはいるものの、本書が扱うテーマは米国での犯罪率低下と中絶の関係や、相撲における八百長の検証、親のしつけと子供の成績、出会い系サイトで成功する自己紹介の書き方など、一見経済学らしからぬお題ばかり。ではここでの「経済学」とは何か?それは人のインセンティブ、つまり人を動かす動機は何かという問題意識である。そして結局のところ「合理性」や「極大化」という仮説に頼るより、インセンティブの方がはるかに“合理的に”人間行動を説明することができる。
近頃の若者は面白いことも「ヤバい」と表現するが、その意味で本書は結構「ヤバい」。
自分の欲しいものを手に入れようというとき、人はかなり洗練された形で積極的に意志決定を行うものだという考えを、私はどうしても捨てられない。・・・(中略)・・・だから、中絶の合法化のことを考えては、これは望まない妊娠に対する本当に胸が悪くなるような保険みたいなものだと思う。相撲の力士の一方が勝って得るものより他方が負けて失うものより大きいのを見れば、ああ裏取引するだろうなと思う。(「オマケ」より)
[2009年2月16日] この日の感想・書評へ→

ヘミングウェイの酒
オキ・シロー
ヘミングウェイはしばしば作品上でウィスキーを擬人化している。そして、その「彼」に鼓舞されたり、慰められたり、わが内なる声を代弁させたりしている。数ある酒の中でも、これはウィスキーに際立ってよく見られる現象。「ウィスキー君」と親しく語りかけ、己の心情を吐露する場面はあっても、「ジン君」とか「ラム君」とかいう言葉を見かけたことはないような気がする。(20「旧友ウィスキー」より)
日本酒が一番のご贔屓だが、ビールも飲めばワイン・焼酎も飲む。カクテルもシングルモルトも好きだ。酒には至って節操がない。
ただしウィスキーの水割りだけはほどんど飲む機会がない。かつて両親が経営していた酒場に顔を出した時だけ、親父のボトルで勝手に水割りを飲んだ程度である。店の名は「タンクロ」。親父を甲子園に導いてくれた野球部の恩師のあだ名らしい。その「タンクロ」も2006年末に閉店。四十年近くカウンターに立ち続けた母も昨年他界した。私が後を継げば店は続いただろうが、今となっては後の祭り。最後の夜に親父と一緒に店のシャッターを下ろした時、この店のおかげで自分は大人になれたのだと思うと、涙が溢れた。
だから先頃東京帰りの新幹線で、気紛れに缶入りのウィスキー水割りを買って一口飲んだ瞬間、「タンクロ」の光景がまざまざと甦ったのには驚いた。水割りとかつての記憶が、此程までに密接に結びついていたとは思わなかった。ほろ苦くも懐かしい味がした。
厳格な家庭に育ったアーネスト少年は、こうして酒、それもウィスキーを体験し、学び、親しんでいったのだろう。それから幾星霜。いつかウィスキーは、酒豪ヘミングウェイにとって、かけがえのない友となった。そして終生、その幼馴染みは「彼」と喜怒哀楽を共有したようだ。(20「旧友ウィスキー」より)
[2009年1月18日] この日の感想・書評へ→

脳はなにかと言い訳する
池谷裕二
大脳皮質の働きの一つは「理性」を生むことです。・・・(中略)・・・その大脳皮質をアルコールが抑制します。つまり、アルコールは理性を抑制します。飲むと、笑い上戸になったり、泣き上戸になったりなど、性格が少し変わることがありますが・・・(中略)・・・アルコールという化学物質を、大脳皮質の活動を抑える脳科学的ツールとして眺めてみると、そのような面白い側面が見えてきます。(5「脳はなにかと理性を失う」より)
「つい酒の勢いで・・・」と言い訳をする人がいる。本書で得た脳科学の知見によれば、「理性を司る大脳皮質がアルコールで抑制された結果、本性が野放しになっただけです」と、当人の脳が言い訳していることになる。もちろん、酒の力を借りなければ何も言えないというのは、あまり褒められた話ではない。とはいえ、逡巡するばかりで一歩も前へ踏み出せない時や、正しい事を行うのに勇気がいる状況であれば、アルコールという物質の作用で大脳皮質の出番を少し抑えるのも悪くはない。何事も程度問題である。
現に自分の場合も、多少アルコールが脳に入った方が仕事がはかどる(こともある)。日頃の優柔不断さが影を潜め、スパッと思い切った決断ができたりするのだ。ただ周りからは、単に仕事中に酒を飲みたいがための言い訳にしか聞こえない様だが。
つまり、「嫌な記憶」を思い出しながらアルコールを飲むと、その記憶は強化されてしまうようなのです。まだマウスの実験でしかありませんが、もしかしたらヒトでも、ショックな事件に遭った後、その記憶から逃れるためにお酒を飲み、結果として忌まわしい記憶がさらに強固になるなんてことも考えうるわけです。(20「脳はなにかと念押しする」より)
[2009年1月15日] この日の感想・書評へ→

ラーメン屋vs.マクドナルド
エコノミストが読み解く日米の深層
竹中正治
日本の歴代首相や政治家にも、まず問題や危機感の強調から始まるタイプが多い。「日本はこのままではダメになる!」方式だ。一方、米国の大統領、政治リーダー達はどんな困難な状況でもまず希望を語ることから始める。「私のリーダーシップを受け入れるならば、難局は打開できる」とまず希望を語るのが米国のリーダーの資質だ。(第2章「希望を語る大統領vs.危機を語る総理大臣」より)
多彩な“こだわりラーメン”が一大市場を形成する日本vs.マクドナルド的標準化で巨大市場の形成を狙う米国。このパターン思考を文化、政治、経済、宗教比較にまで敷衍し、論理的に日米を比較して見せたのが本書。B級グルメ本の様な軽い書名だが、各章のタイトルを見るだけで著者が言わんとする日米の違いが伝わってくる。
・マックに頼るアメリカ人vs.ラーメンを究める日本人/希望を語る大統領vs.危機を語る総理大臣/ディベートするアメリカ人vs.ブログする日本人/「ビル・ゲイツ」vs.「小金持ち父さん」/一神教vs.アニミズム/消費者の選別vs.公平な不平等
なぜ日本では家計の貯蓄が郵貯に集中し、株式投資に向かわないのか、サブプライム問題を日本はどう活かすべきか、「新銀行東京」の失敗の本質は何か、ホントに日本は格差社会に進んでいるのかetc.・・・、ふだん敬遠しがちな固い話題がスラスラと頭に入ってしまった。
知識人を目指す中国や日本の子弟は文章作成訓練により多くの時間を費やし、複雑な文字体系を駆使した文章文化を発展させた。一方で、西洋の子弟は別のプレゼン技術の訓練に時間を費やした。その結果生み出されたのが弁論文化である。・・・(中略)・・・弁論か文章かの表現形態こそ違え、私達日本人にも旺盛な「俺にも言わせろ」衝動があるのだから、公論の場でもっと自己の主張を解き放ってみたらどうだろうか。(第3章「ディベートするアメリカ人vs.ブログする日本人」より)
[2008年12月19日] この日の感想・書評へ→

日本溶解論 この国の若者たち
三浦展+スタンダード通信社
なんと女子全体の二二%、高校生の二〇%、大学生の二一%、正社員の三三%がキャバクラ嬢になりたい、してみたいと答えているのだ。ちなみに公務員は一八位で一五%である。(第2章「キャバクラ嬢になりたい女子」より)
本書の定義では、1985〜92年生まれに当たる現在の高校生、大学生などが「ジェネレーションZ」。ちょうど我が家にも二人いる。
著者によると、彼らは文明の利器を使いこなしているのに奇跡を信じ、自由なのに他人に決めてもらいたがり、人生が運命によって決められていると信じている。ついでに言えば、Jポップが好きで、日本的伝統が好きで、地元が好きで、女子学生の5人に1人はキャバ嬢になりたがっているとのこと。で、結局のところ、従来型の社会的価値観・世界観が「溶解」し始めたことが、彼らの人格形成に影響したのかも、と結論づけている。
職業柄、世の統計データを恣意的・主観的視点で援用しつつ、論理的装いの下に説得する手法はある程度心得ている。ただそんな同業者的好意を持って読み進めても、データの読み取り方が結構突っ込み所満載で、少々無理な世代論になっている様な気がした。
Z世代調査の結果には、いろいろと驚くべき結果があるが、その中でも特に驚いたのは、彼らが、前世、死後の生まれ変わり、奇跡を信じるなど、非合理主義的傾向が強いことである。
たとえば携帯2次調査では、女子高校生の六七.五%、(男子高校生の七五.七%)が「奇跡」を信じているし、女子高校生の五四.四%(男子高校生の四一.九%)が「人間には前世がある」と信じている。(第3章「スピリチュアルにはまる若者」より)
[2008年12月11日] この日の感想・書評へ→

適当な日本語
金田一秀穂
「汚名挽回できるようにがんばります!」と部下に張り切って言われたが、どうしたらよいか。
汚名は、悪い評判のことです。「挽回」は、それを取り戻す、という意味です。従って、「汚名挽回」というのは、悪い評判をもう一度取り戻すことになってしまい、ちっともいいことになりません。(「相談14」より)
言葉は生き物であり、変化することが本性である。そのことは、学生時代に古文の授業で苦しんだ経験のある人なら分かるだろう。“正しい”日本語が未来永劫変化しないものなら、そもそも現代国語とか古文とかの線引きは不要だ。
そこで著者は「正しい言葉は、ひょっとすると、古い言葉かもしれません」という理由で、本書に“適当な”日本語というタイトルを付けた。適当とは“適切”でもあり“いい加減”でもあり、この二つの意味を兼ね備えたタイトルである。この言語学者らしからぬテキトーなユルさ加減が絶妙だ。いや、言語学者だからこそ、“正しい”日本語に拘泥しすぎない大切さをよく分かっておられるのだろう。
たまにこうした本を読みながら、言葉の“今”についてきちんと把握しておくことも重要である。
皆が出来ることを志望してしまうと、競争が激しい。誰もしたがらない。誰にも出来ないようなことをやれば、簡単に一番になれる。それがオンリーワンの思想である。つまり、ナンバーワンよりオンリーワンになろうというのは、その裏に、本当はナンバーワンになりたいというぎらぎらした野望が見え隠れする。その辺が嬉しくない。(「例題27」より)
[2008年12月 1日] この日の感想・書評へ→

帰省
未刊行エッセイ集
藤沢周平
問題なのは、読んでいる間少しも読者の気持ちをひきつけず、読み終わっても何の感興も残さない小説があることです。と言っても他人のことなど言えた義理ではなく、深い反省をこめて自分の小説を振り返りながらそう思うわけで、たとえば私が発表している小説の中からその種の小説をあつめたら、たちどころに五巻仕立てほどの「藤沢周平駄作集」が出来上がることは間違いありません。(「『ずっこけ』た魅力と面白さ」より)
司馬遼太郎や池波正太郎についてはまだまだ未読の作品が結構残っているが、藤沢作品は全巻読破し、全て文庫本ではあるが我が家の書棚に揃っている。だからこそ敢えて言い切るが、上の引用文で本人が謙遜している様に「五巻仕立てほどの『藤沢周平駄作集』が出来上がること」は断じてない。もちろん作品に対する個人的な好み(陰鬱な作風の前期より、痛快さや人情味が冴える後期の方が好きetc.)はあるが、むしろどの作品をどの様な基準で駄作と考えているのだろうと、あの世の著者にそっと尋ねてみたい位だ。ただ、こうした謙虚さ、創作へのストイックさこそがいかにも藤沢周平らしいなと思うし、今回のエッセイ集からも随所にその生真面目な人柄が窺える。
歴史小説の面白味というのは、発見ということでないかと思う。発見は必ずしも新しい事実の発見だけでなく、新しい解釈の発見というものも含まれ、そこに小説の面白さが出てくるように思われる。
これにたいし、時代小説の面白味は、ひと言でいえば創られるものの面白さだろうと思う。元来何もないところに、想像の力で一篇の物語を組み立て、そこに読者を案内出来るのが、時代小説の面白さだろう。(「『呼びかける女』の連載を終えて」より)
[2008年11月20日] この日の感想・書評へ→

ゆらぐ脳
池谷裕二 木村俊介
効果的な解析の方法を模索する最中では、実験のデータを元に、神経活動を音楽にも変換しています。これは何も遊んでいるわけではありません。
「この神経細胞の活動はファ#、あの神経細胞の活動はミb・・・」
と、音を割り当て活動時間に即して、音楽に変換したら、不思議にフワフワと浮きあがるような曲ができました。(第一章「脳を分かる」より)
楽しく読めて賢くなれる。本好きにとってこれ程ありがたい話はない。それも薄っぺらい雑学やハウツーではなく、アカデミック&インテリジェントな内容であればある程、受け売りでウンチクを垂れるのに都合がよい。その点で「記憶力を強くする」「進化しすぎた脳」「海馬−脳は疲れない」etc.、池谷氏が関わる本はハズレがない。本書も「脳のゆらぎ」「心のゆらぎ」「科学のゆらぎ」を軸としながら、一流科学誌への論文掲載に血眼になる科学者たちの泥臭い日常、きれいごとではない世界が垣間見られて大いに興味深かった。高潔なサイエンティストを志す純情な学生が幻滅しかねない内容も含まれているが、「実験や発見ができても、論文が書けなければオタクで終わる」のだから、プロのサイエンティストを生業とする以上、象牙の塔にこもって実験に明け暮れる訳にはいかない。政治力、プレゼンテーション力を駆使して研究資金をかき集める図太さ、俗っぽさが欠かせない様である。
プロのサイエンティストの活動を継続するためには、政治や学閥を無視するわけにはいきません。サイエンティストとしてサバイバルしようとすると、「サイエンスの真理も政治や派閥が決めてゆく」側面はどうしても目の当たりにしてしまう。何が正しい発見かということさえも、政治やプレゼンテーションのうまさによって決まってしまうケースはいつもあります。この戦いに負ければ、いかに自分が正しかったとしても、研究のチャンスを奪われかねません。(第二章「脳を伝える」より)
[2008年11月13日] この日の感想・書評へ→

ポスト消費社会のゆくえ
辻井喬 上野千鶴子
辻井 ですから、サホロリゾートの失敗は、経営者に責任がありますね。
上野 それはどなたの責任ですか?
辻井 私の責任。
上野 あ、そうですか(笑)。
辻井 それははっきりしています。 (第三章「1990's」より)
1980年代。西武百貨店やパルコの広告は、紛れもなく当時のクリエイターにとって一つのシンボル的存在だった。堤清二というアーチスト的資質を持つ経営者の下、糸井重里が紡ぎ出した「不思議、大好き」「おいしい生活」など一連のキャッチコピーは、鮮やかな時代の徒花として空前の煌めきを帯びていた。また都会的な若者文化の発信地として、渋谷が持てはやされ始めたのも丁度この時期。当時二十代だった私もご多分に洩れず、東京へ行く数少ないチャンスを見つけては渋谷の“西武村”へ足を運び、SEED館など最先端の香りがする店舗ディスプレイやマーチャンダイジングに触れることで、東京以外の地にいることの “遅れ”や“ズレ”を取り戻そうと躍起になっていた。
まさに“感性のバブル”とも言うべきあの頃。時代遅れになるなと焦らされ、踊らされていた二十数年前の自分達を振り返り、その実体を確認するのに格好の書。
上野 堤清二は戸籍名ですから、辻井さんの本名は堤さんには違いないのに、堤さんと辻井さんとの関係は、本名とペンネームの関係が逆転していると、私は受け止めています。辻井さんのほうが幽体離脱して堤清二さんを見下ろし堤清二批判をしているので、超自我という感じを受けます。だから、お二人の関係としては辻井さんのほうが大きくて、堤さんのほうが部分集合だというふうに見えてきます。
辻井 はあ、なるほど。(第四章「2008」より)
[2008年11月10日] この日の感想・書評へ→

天切り松読本
浅田次郎 監修
言葉は精神である。したがって江戸弁が滅びると、江戸っ子の気性も消えてなくなった。言葉そのものは歌舞伎や落語などの古典芸能の匣に温存されているけれども、言葉の根である精神までもが正しく伝承されるとは言い難い。私が『天切り松 闇がたり』に企図したものは、言葉とともにある精神の保存である。(「浅田家の長男」より)
通常、小説にとっては描き出される「物語」こそが主であり、言葉はあくまで「物語」を創作するための手段だ。しかし「天切り松闇がたり」という小説においては、江戸前のダンディズムを体現する「言葉」こそが主である。その美しい「言葉」を語るに相応しい精神を持つ人物が、相応しい所作と振る舞いを重ねていく中で、物語の世界観が構築されていったのがこのシリーズであると言えよう。
だからこそこの小説の登場人物達は皆、一本ピンと筋が通っていて格好いい。彼らが発する言葉は常に生き様と表裏一体であり、自らの言葉を裏切る行動を取ることは、即座に自らの精神の死を意味するという覚悟が伴っているからだ。
と、まあ堅苦しく書き連ねたが、どうやら著者はこの先も大正と昭和を行きつ戻りつしながら、新作を書き継いでいってくれるらしい。まずはひと安心といったところ。
物語の登場人物たちは、私の記憶する限りの美しい言葉をしゃべり、その美しい言葉にふさわしい挙措をし、精神を顕現する。一言でいうなら、今はなき江戸前のダンディズムである。
叶うことなら『天切り松 闇がたり』の読者は小説の鑑賞者ではなく、彼らの贔屓であってほしいと切に希う。(「浅田家の長男」より)
[2008年11月 4日] この日の感想・書評へ→

シェーの時代
「おそ松くん」と昭和こども社会
泉麻人
チビ太は初期の頃から様々な役柄で登場している。寺の坊主、マドロス、旅館の番頭、歯医者、魚屋、家庭教師、チンピラ、忍者、王子様・・・・(中略)・・・・当時、めまぐるしく変わるチビ太の役柄に違和感を覚えなかったのだろうか?前の回で六つ子と一緒に遊んでいたチビ太が、次でいきなり法被姿のオヤジくさい旅館の番頭となって現れて、ヘンだと思わなかったのだろうか?(第四章「名優チビ太の考察」より)
8月に亡くなった赤塚不二夫の葬儀の席で、タモリは、「私もあなたの数多くの作品の一つです」という印象的な言葉で弔辞を締め括った。そのタモリを赤塚作品の“トリ”と位置づけるなら、赤塚が一気にブレイクした記念すべき作品が「おそ松くん」である。
その一味違うギャグのセンス、とりわけ「シェー」の威力は、子供のみならず大人社会をも巻き込んだ。大阪人の家庭には必ず一家に一台「たこ焼器」がある (!)ように、昭和40年前後に小学生だった人のアルバムには、必ず一家に一枚「シェー」のポーズで撮った写真があるだろう。もちろん我が家にも、ある。
著者より5つ年下のせいか、実は赤塚作品では「おそ松くん」より「天才バカボン」の方が印象深い。ただ確かに自分も、「シェーの時代」を生きた昭和の子供の一人だったことに違いはない。
40年代初めのこの頃、多くの漫画にこういうヤセっぽちでメガネを掛けた、ガリ勉や上流家庭のお坊ちゃんキャラが登場するようになった。
この種の少年は俗に「もやしっ子」と呼ばれたが、当時もう一方で「肥満児」が社会問題になり始めた。「おそ松くん」では時折社長の息子役などで小太り気味のキャラが描かれているが、さほど目ぼしい役柄では登場していない(デカパンはデブキャラだがこれはオトナだ)。(第八章「昭和こどもカルチャー」より)
[2008年10月20日] この日の感想・書評へ→

オヤジの細道
重松清
しかし、誰よりも意外だったのが、故・石原裕次郎−−『太陽にほえろ!』が始まった一九七二年、あのひと、まだ三十八歳だったのである。三十八歳にして「ボス」。四十前にして、あの貫禄。なんというか、ふやけた平成のオヤジ世代には真似のできない話ではないか・・・。(「ボスの似合う男になりたい」より)
「卒業」「青い鳥」etc.数々の切ない物語を世に送り出している重松清が、厄年を終えたのを機に「オヤジのビギナーとしての目で、来るべき中堅オヤジの日々を見据えよう」という主旨の下、夕刊フジに2年半余り連載したコラムを文庫化したもの。ドリフ、ウルトラ兄弟の話題から、エロ本の買い方、LPレコードの記憶、老眼鏡デビューまで、メタボ腹を抱えた同世代なら思わず頷いてしまう話題が目白押しで、自己主張の強い団塊世代とはひと味違う、60年代生まれならではの、どこか大人になりきれない自分を自覚した少し気弱なオヤジ節が全開である。
“上から目線”で賢そうに世の中を斬りたがるヤツが多い中、自虐ネタにくるんで毒舌を吐こうとしながらも、イマイチ毒を撒き散らせない優しさと哀しさが漂っていて、個人的には好感度大である。
この七月、シゲマツはついに中堅オヤジの必須アイテムを手に入れてしまったのだ。
老眼鏡である。遠視用メガネとか手元用メガネとか読書用メガネとか、シニアグラスとか、姑息に言い換えるのは潔くない。老眼鏡は老眼鏡である。「中年」太りの日々から、とうとう「老」と名の付くものに手をつけてしまったのである。(「中堅オヤジ宣言」より)
[2008年8月29日] この日の感想・書評へ→

心の科学
戻ってきたハーブ
エリザベス・ロイド・メイヤー 著/大地舜 訳
まずはこれまで概念化されたことがない交流について見てみよう。私たちがメンタル(心)とマテリアル(物質)と呼ぶ領域の間で起こる交流だ。これは、現代心理学や神経化学や認識科学で理解されている無意識の心の働き、さらに、量子力学などが探究を始めている見えない物質活動の領域で起こる(第1章「戻ってきたハーブ」より)
著者は女性の精神科医。盗まれた娘のハープがダウジングによって見つかり、「科学に対する見方が音をたてて崩れるのを感じた」。そして超常現象に対して懐疑的だった著者は、それから15年にも及ぶ真実探究への旅に出ることになる。
ダウジングとは、水脈を探すために金属の棒を持って土地を歩き回る怪しげなアレである。また本書で取り上げられているのは、遠隔透視やテレパシー、予知能力etc.一歩間違うとトンデモ本になりかねないテーマばかりだが、科学者としての己の世界観が崩れそうになる戸惑いも含め、努めて客観的にこれらの超常現象に向き合おうとする姿勢が随所に窺えるので、ヘンな怪しさはない。
科学的な見方こそが絶対だ、と決めつけている限り、決して見えてこない世界があるのではないか・・・なんてことを考えさせてくれる本。残念ながら本書の脱稿後まもなく、著者は急逝したとのことだ。
時間と空間を超えた「超常的な知覚」を鍛える方法が見つかり、人について知る能力が増し、共感や思いやりを深めることができるだろうか?一部のヒーラーが持つと思われる特異な治癒能力を、普通の人が身につけることができるだろうか?私たちが日々直面する問題に、直観知能を駆使して対処できるだろうか?とくに、特異と言われるレベルの直観を、当然のこととして利用し、必要な情報を得ることができるようになるか?もし私たちが、こうした可能性を真剣に考慮し、最高の科学で精査したらどうなるだろう?私がこの本で取り上げたかったのは、そうした疑問だ。(エピローグ「再出発」より)
[2008年8月11日] この日の感想・書評へ→

経験を盗め
奥の深い生活・趣味編
糸井重里
矢島 セミの幼虫はおいしいですよ。
川上 やっぱり、おいしいですか。
矢島 素揚げにするとフライ・ビーンズ風の味でね。木の汁を吸ってるからクセもない。ビールのおつまみに最高です。
糸井 イナゴならよく食べてたけどな。・・・(略)(「虫は好きですか」より)
毎日の生活に欠かせないものから、暮らしに潤いを与える(だけ)のどーでもいいものまで、15のテーマに関するウンチクをその道を極めた30人が糸井さん相手に語り尽くす鼎談集の文庫版第2弾。人選の基準は全くわからないが、くだらないダジャレを出力し続けるマシンを造った大学教授、恐竜オタクのジャズピアニスト、歩き方を指導するウォーキング・ドクター、通販コンサルタントetc.、世の中にはいろんな趣味やこだわりを持つ人がいて、結構その延長線上で生きて行けるもんだなと改めて思う。
それにしても、どんな話題にも自分なりの食いつき方できっちりと話題を広げられる、糸井さんの会話のコーディネート力には毎度敬服する。
糸井 さっきの話だけど、クマさんは結婚していたとき家に帰らなかったんだよね。僕は待つ人がいようがいまいが、家に帰るのがすごく好きなのよ。とにかく帰る。
橋本 家で仕事しないからだよ。おれもクマさんも家には帰るよ。だけどそれは、家に帰らないと仕事にならないんだもの。
篠原 ならねえの。だから海外なんか行ったりするとイライラしてくるよ(「独身上手と結婚上手の間で」より)
[2008年7月25日] この日の感想・書評へ→

オタクはすでに死んでいる
岡田斗司夫
つまり、「俺たちは同じだ」っていう感覚よりも、「俺たちとあいつらとは違う」っていう差異の方がどんどん気になりだしている。そういうオタクが増えてきた。だから、すぐに「あいつはわかっていない」と排除をしたがる。それが現状だと思います。
これが「オタクが終わりつつある」ということの本質なのです。(第2章「『萌え』はそんなに重要か」より)
「オタクは死んだ」。本書で著者はそう宣言している。オタクでも何でもない大多数の読み手にとっては、そんなの関係ねぇ話。ただ何となく気にかかって読み始めると、どうやら著者が本当に論じたかったのは「昭和の死」であり、昭和的価値観の消失による社会の変容であることが透けて見えてくる。
「働くのは損」「大人になるのは損」「自分に都合の悪い奴は悪者」という感性が幅を利かせ、日本国民はどんどん「お子様化」しつつある。給食費を払わない親、病的なクレーマー、「オンリーワンの自分」を探し続ける大学生、何かとバッシングを仕掛けたがるマスコミ・・・。これらがすぐ隣にいる平均的日本人の姿となった。「××の品格」といった類の本が売れるのも、見本となる大人が周りに見当たらず、マニュアル本から「品格」を教わるしかないからだ。そしてこんな世の中が進んでいくと、オタクはもはや特別な存在ではなくなる。故に「オタク民族」は、死ぬ。
先頃読んだ「世界征服」は可能か?もそうだが、この著者は取っつきやすいタイトルの陰に、やや別の「本題」を仕込んでいる様だ。
これからは、「アニメが好きだ」「ゲームが好きだ」「鉄道が好きだ」といった「好き」の気持ちは、各個人が守って育てるしかありません。もう「オタクだから」という言い訳はききません。そんな逃げ場になる大陸はなくなりました。
「オタク」だからということで、それぞれの気持ちを支えてくれたり、正当化してくれたりする権威ももういません。・・・(中略)・・・「わかってもらえなくても平気」という貴族主義はもう通用しませんし、「こんないいものがあるんだ、わからないおまえらが悪いんだ」というエリート意識も通用しません。(第7章「貴族主義とエリート主義」より)
[2008年7月22日] この日の感想・書評へ→

ラブホテル進化論
金益見
ラブホテルには、古城のような外観や、回転ベッドに代表されるような、夢のような非日常空間が追求された時代があった。しかし現在のラブホテルは、夢のような非日常空間から、カップルが二人きりでくつろげる癒しの非日常空間へと変化している。(第一章「あこがれのラブホテル」より)
「ラブホテル」で始まるタイトル、帯に踊る「現役女子大学院生による・・・」のキャッチ、そして極めつけとも言える美形の著者の顔写真。この“アカデミックなエロチシズム”にそそられ、本書をつい手に取った男性諸氏も少なくないはずだが、内容は至って正攻法で資料的価値の高い、それでいて読みやすいラブホテルの研究書である。「そうそうあの頃のラブホは・・・」と郷愁をそそる記述も随所にあり、本文と自らの回想の間を行きつ戻りつしながら楽しく読み終えた。多様な関係者に丹念かつ誠実な取材が行われていることが文面からもうかがえる。
誰もが一度は利用していながらも、正面切って論じられることがなかったこのテーマに、好奇な視線に耐えつつうら若き女性の身で果敢に挑んだ勇気に敬礼!
外観がおしゃれで、料金は高めのホテルは不倫客が多く、それとは反対に、古くて安いワンルーム・ワンガレージ式のホテルは高齢者の利用が多い。ちなみに年金受給日の翌日は、そういったホテルには高齢者が溢れかえるという。(第六章「ラブホテルを利用する」より)
[2008年6月17日] この日の感想・書評へ→

「モテ」の構造
若者は何をモテないと見ているのか
鈴木由加里
結局、『LEON』のような雑誌が、「見立て」てくれる衣服や時計、アクセサリー、自動車やしゃれたレストランやゴルフ用品などの「モノ」の「物語」を提供しているのと同じように、アンチ派の人生論は、「男の生き様」や「品格」などの精神的な豊かさのほうが、金で手に入れられるものより優れているという物語を提供しているという違いがあるだけで、読者に売ろうとしているものは、それぞれ同じような「見立て」なのである。(第4章「『モテの教科書』を点検する」より)
現代の若者(男)にとっての「モテ」の条件として、何より最低限の見た目へのケア=身だしなみへの気配りは欠かせない。それは単純におしゃれという意味だけでなく、汗の匂いやむだ毛の処理、肌の手入れなど、細かい点にまで及んでいて結構ハードルが高そうである。また20年程前には「三高」(高学歴・高身長・高収入)などと云われていた理想の男性像は、今や「三低」(低姿勢=偉そうにしない/低依存=束縛しない/低リスク=安定した職業)へと変化しているらしい。
別に不特定多数の異性に「モテ」たいとは昔も今も思わないが、男にも「キレイ」が求められる今の時代に若者をやってなくて良かったと、「LEON」さえ手に取った事のないおしゃれ無関心派のオジサンはつくづく思う。
本当のところ「見た目」とは顔の造作や身長や体型ではない。「見られている存在」であるということをどう意識して、外見を支配、統御、ケアし、作っていくのか、ということの総体が「見た目」なのである。(第5章「モテないということ、モテるということ」より)
[2008年4月10日] この日の感想・書評へ→

スタア・バーへようこそ
岸久
細かい説明をしますと、ある程度お酒に浸されてオリーブから油も味も出るので、途中までは入れておいて、かつ、お酒が残っているときに食べるのがもっとも双方が味わえるとは思います。オリーブを食べてその味が口の中に残っているときにお酒を飲むと、味にふくよかさが出る、と僕は感じます。(第一章「カクテルの話」より)
いろいろあって、行きつけのバーは今のところ一件しかない。特にその店にこだわりがある訳ではなく、日本酒党であるがゆえ年に数回しかバーに行かず、ちゃんとした店を一軒知っていれば十分事足りるからである。
バーではギムレットやマティーニをオーダーすることが多い。「ジンは何になさいますか?」と聞かれると、タンカレとかビーフィータとかゴードンとか適当に答えるが、違いを真剣に比べたことがないので実は意味がない。でも毎回同じ様に聞かれて同じ様に答える、そんなやり取りが心地良かったりする。結局バーの良否はバーテンダー次第だから、作り手が醸し出す雰囲気が端正で、真摯で、洗練されていればそれだけで美味いと感じてしまうし、それ以上味についてあれこれ語っても野暮なだけだろう。
我々が使うのは、中でもビシッときれいにクリスタル状に固まった、氷の芯みたいな部分なんですね。油断すると、あまり良い状態ではないところを持ってこられたりする。ですから、常に氷の状態は確認して、厳しいくらいにチェックしています。マグロで言えばトロとでもいいますか、そういう部分を僕たちは使いたいし、そのために氷屋さんにもうるさいことを言ってると思います。(第四章「バーの仕事から」より)
[2008年4月 7日] この日の感想・書評へ→

欲望する脳
茂木健一郎
小林秀雄は日常生活の細かい点まで美意識を貫いた人だった。毎日晩酌を欠かさなかったが、そのお酒を美味しく飲むために、昼間から水を一滴もとらずに夜に備えたという。・・・(中略)・・・極端なことを言えば、酒をより美味しく飲もうという工夫から、文明が始まり、文化が生まれると言っても良いだろう。(09「『精しさ』に至る道筋」より)
ぶっ倒れるまでグラウンドを走るのと、ふらふらになるまで勉強するのとでは、どちらを選ぶか。要は「肉体」の酷使と「脳」の酷使のどちらに耐えられるかということだが、自分は断然後者である。受験生の頃は一日10時間以上机に向かっても平気だったが、肉体的な根性がないため、長距離走では少し走るとすぐ音を上げて歩き出した。ちなみに息子に尋ねると、何時間も勉強する位なら走らされる方が余程マシだと云う。来年大学受験だが、まあ、人それぞれだ。
勉強が好き、とはなかなか口にしづらい言葉である。だから著者が本書で学習への欲望を全面肯定しているのを読むと、心密かにうれしくなる。実際脳は心臓と同様、休むことなく学習を続ける機能を持つらしいので、時折アルコールで柔らかくしながらこれからもコツコツ鍛えていきたい、と改めて思う。
学ぶことには、終わりがない。だから、学びの喜びは、尽きることがない。学習においては、苦しいことが付きものである。苦しい時間を経過しなければ得られない快楽の領域があることを、私たちは体感的に知っているはずである。 (中略)・・・現代日本人の多くは、実際、質の良い「学習依存症」のもたらす喜びを忘れてしまっているのではないか。(20「学習依存症」より)
[2008年3月30日] この日の感想・書評へ→

おとなの男の心理学
香山リカ
男性はいつまでも恋愛したい。モテたい。でも、その相手は決して若い女性、ということではない。本当にモテたいのは、すぐそばにいる妻なのかもしれない。 そのことに、男性も女性も気づき、そしていったん気づいたら、男性はそれを積極的に表現することが大切なのだ。(第3章「ちょいモテオヤジか更年期男性か」より)
「心理学」とは名ばかり。中身は要するに、「妻に見捨てられないために熟年男はどう振る舞うべきか」、「真に身も心も成熟した大人の男になるには、何を知っておくべきか」を、あくまで女性の視点から男に意見した一種の生き方指南の書。定年後も自室で昔の“重要書類”を大事そうに眺める、「非常勤顧問」という名の下で用もないのに何年も会社に顔を出す、愛人に娘の就職を取り持たせようとする・・・etc.、頁を捲るたびにみっともなくも物哀しい熟年男の見本が目白押しだ。
幸い本書で言うところの「おとなの男」とは、主に団塊世代を核とする50、60代前後、いわゆる熟年・シニア世代を指す。まあ振りかざす肩書きもなければ愛人もいない40代のガキの身としては、せいぜいこの様なみっともない“おとなの男”にはなるまいと、改めて我が身を振り返りつつ自戒の念を抱いた次第。
ネットにも、「○○老人日記」というタイトルでブログを書いている人たちが少なからずいる。・・・(中略)・・・彼らは、世の中にあれこれと勝手にもの申す権利を得るために、自分を「老人」というある種の特権的な立場に置いているだけ、という気もする。もしかすると、「そんな鋭い意見を言えるのだから、まだまだ老人なんかじゃないですよ」と言ってもらいたいのかもしれない。(第6章「老い方を知らない男たち」より)
[2008年3月18日] この日の感想・書評へ→

日本の行く道
橋本治
とりあえず「世界全体」は無理なので、日本だけで「一九六〇年代前半に戻す」ということをしてみます。そして、今の二十一世紀の頭で、「この先をどうするのか?」と考えてみます−−これだけで、けっこう建設的です。(第三章「いきなりの結論」より)
いじめの深刻化、年間自殺者三万人、ひきこもりの増加、社会格差の拡大等々・・・、今の日本って何かヘン!と感じている人は多い。で、その原因は本来一筋縄ではいかないが、産業革命(日本の場合は明治)以降の近代化が行き着く所まで来たせいだ、というのが基本的な著者の見解。そこで、日本を江戸時代に戻すか、せめて60年代前半に戻して歴史をやり直せば、多少はマシな国になるかも、その象徴的行動として超高層ビルを全部壊そう云々と、突拍子もない論旨が展開されてゆく。一見無茶苦茶な議論だが、著者一流の問題提起として楽しめばそれなりに面白い。
ただ、経済発展や技術進歩の豊かな果実を最も享受してきたのは、他ならぬ著者を含めた団塊世代の方々である。にも関わらずいざ自分達がリタイアし始める頃になって、「経済発展は間違いだった」「貧乏な時代に帰るべき」と言い出すのって如何なものか、と少し思わなくもない。
一九六〇年代前半に戻すために、「一九六〇年代前半になかったもの」を探しているだけです。で、なにがないのかと言うと、意外なことに、一九六〇年代前半の日本には、まだ「超高層ビル」がないのです。・・・(中略)・・・日本から超高層ビルをなくしてしまうと、形の上では「一九六〇年代前半」になってしまうのです。(第三章「いきなりの結論」より)
[2008年3月 1日] この日の感想・書評へ→

合コンの社会学
北村文・阿部真大
突然に訪れるはずの出逢いを、人為的につくだしたうえで、さらにその「出逢い」というなまなましい目的を隠す。それも参加者全員で。ここに合コンのいっそう複雑な矛盾がある。本書は、未だ語られざる合コンの深層を描き出し、そして読み解くための試みである。(第一章「出逢いはもはや突然ではない−−合コンの社会学・序」より)
かつて合コン(または死語となった「合ハイ」)は、学生による学生のための出会いの場であった。友人の中には平均週2回、年間で約100回の合コンに参加しまくった猛者もいた。やがて若手サラリーマンとOLの世界に広がり、今では合コン熱の余り(?)家庭を崩壊させた芸人もいる程、世に遍く定着した。本書はそんな「社会制度」としての合コンを、2,30代の男女31名への面接調査をベースに、「合コンという小さな社会を覗きこむと同時に、大きな社会のなかで合コンを俯瞰する」視座で考察したもの。自分が当事者だった頃と比べて、合コンの位置づけや在り方は随分複雑になった様で、リアルなコメントから滲み出る駆け引きや人間模様が興味深い。
ヒトが合コンに求めるのは、詰まるところ「“運命の”出会い」であり、その辺りがお見合いパーティや出会い系とは違う。「人数合わせで〜」とか「ただの飲み会と思って」とカッコつけたところで、例え微かでも期待と幻想があるから、A君もB子さんも合コンの席に足を運ぶ。ではそんな“運命の”出会いが本当にあるの?と言えば、ないことはない。少なくとも私の場合は・・・。
合コンがジェンダー・パフォーマンスの競演の場である以上、男女の出逢いは限りなく虚構に近い。ふだんの生活からは分断された空虚な舞台の上で、本来の自分とはかけ離れているかもしれない「女」や「男」を互いに装い、演じる。定められた役割を意識しながら自らを演出し、複数の基準が錯綜するなかで相手を見定めようとする。魅力そのものが何かわからなくなりながら、それでもなお、私たちは競争している。(第四章「運命の相手を射止めるために−−女の戦術、男の戦略」より)
[2008年2月21日] この日の感想・書評へ→

社会脳
人生のカギをにぎるもの
岡田尊司
進化的に見て、人間の社会脳はヒエラルヒー型の社会集団を前提として発達してきたものであった。つまり、蟻が無意識のうちに蟻塚を作るように、人間は本性として、集団内にヒエラルヒーを作ろうとする。霊長類以来の遺産である、ヒエラルヒー型社会を乗り越えることができるかどうかという局面に、我々はいる。(第七章「ヒトはどこへ向かうのか」より)
ひきこもりやニート問題、学力低下等々、現代社会が抱えている諸問題の背景には、パーソナリティの根底にある「社会脳」が育たなくなっていることが原因としてある、というのが本書の論旨。「ゲーム脳」とか「脳内汚染」とか、世の中の問題点を何でも「脳」の機能不全で説明を付けるのもどうかと思うが、サルの世界でさえ社会性がなければ生きて行けない程だから、世知辛い人の世なら尚更だ。
ところで本の内容よりも興味を惹いたのが、著者の経歴である。東大哲学科を中退、京大医学部に入り直して脳科学と精神医学を学び、現在は医療少年院の臨床医として、問題を起こした若者達の精神的危機と向き合っているとのこと。哲学的思索と科学的考察が脳内で融合し、旺盛な言論活動に活かされているのかと思うと、その出来の良い脳みそが少々うらやましくもある。
顔を介さない関係は、社会脳を素通りし、社会的関係を言語的な記号の関係に置き換えることを容易にする。顔をもたない他者は、純粋に言語的、記号的操作により、コミュニケーションを成り立たせ、相手に影響を与え、その行動を支配することもできる。そこでは、本来の共感性は、もはや必要条件でなくなる。(第七章「ヒトはどこへ向かうのか」より)
[2008年2月 8日] この日の感想・書評へ→

経験を盗め
文化を楽しむ編
糸井重里
仲畑 古書も骨董も、たくさんの浅い目を楽しませるより、何人かの深い目を楽しませたほうが、ずっと価値がある。
糸井 古いものを、ただ保存しておくことが最良じゃないってことだ。
出久根 個人が愛蔵するから、モノも呼吸するし、生きているんですね。(「男は《歴史の垢》を愛でる」より)
仕事柄、有名人でも何でもない“フツーの”ビジネスマンを取材する機会が多い。業種や仕事内容は様々。性別・年代・役職もまちまち。ルーキーもいればトップもいる。ふだんの営業活動や研究開発、商談、モノ作りなど、ご本人達にとっては何の変哲もない、日頃の仕事内容や経験、やりがい等を語って頂くだけなのだが、これが意外と面白い。ああ、世の中にはいろんな“プチ“プロジェクトX風の物語が転がっているんだなあと、改めて勉強になる。かつて糸井さんに「サラリーマンという仕事はありません」という名作コピーがあったが、まさにその通り。十把一絡げで語れる様なサラリーマンの姿は、そこにはいない。
さて、フツーの人達からも面白い話が聞けるのだから、フツーじゃない各界の人達なら、余計に面白い話が聞けるチャンスは多い。という訳で、本書は「食」「お墓」「ウンコ」「深夜放送」「祭り」「水族館」etc.、多彩な分野のエキスパートによる、とっておきのネタがてんこ盛りである。
山戸 便所が汚れるから・・・・・・。
清水 おしっこの時も座ってください!と奥さんにいわれる。
糸井 たしかに、はねるんだから、汚します。でも、「座れ」と強制されるのはね
え・・・・・・。僕は、大でも小でもどっちでもいいやって気持ちの時は、本を持ち込んで自ら座りますけど、「必ず座ってね」と言われると、何かが失われる様な。
清水 男としての尊厳が。(笑)(「汲めども尽きぬトイレの話」より)
[2008年1月 1日] この日の感想・書評へ→

カーニヴァル化する社会
鈴木謙介
「自己への嗜癖」は、確固たるアイデンティティに基礎づけられることを必要としない社会故にこそ生じる、不可避な現象と見なすことができよう。逆に言えばこうした社会では、「本当の私」や「本当の愛情」や「本当にやりたいこと」を望めば望むほど、それが手に入れられず、結果として立ちすくんでしまわざるをえない。なぜならば、最初からそうした「本当のもの(=アイデンティティ)が手に入らないところに、個人化の本質があるからだ。(第3章「『圏外』を逃れて−自分中毒としての携帯電話」より)
近頃は「祭り(カーニヴァル)」が世の中の駆動原理になり始めているんじゃないの?というのが本書の問題提起。確かに多くの人々が、何でも構わないから「その瞬間に盛り上がれるネタ」を、イナゴの大群の様に次から次へと消費の対象にしている感がある。イラク人質事件然り、沢尻・亀田バッシング然り、反対にW杯や野球五輪での盛り上がり然り。そこには対象への一方的な「非難」もあれば「賞賛」もあるし、「論争」もあれば「感動」もある。要は何でも良いのだ、「お祭り騒ぎ」さえできれば・・・。
という訳で、明確な動機や理念、物語を欠いた祝祭が日常化する背景とその意味を考察しているのが本書である。雇用問題から監視社会、データベース等々主題が各章でめまぐるしく変わるので、何かまとまりのない印象は否めなかったが、とりあえずはこの問題提起だけでも十分価値のある本かなと。
こうした「自己目的化する感動」が、カーニヴァル化の源泉となるわけだが、こうした動きは何もインターネットのイベントだけにとどまらない。始まる前から「感動をありがとう」がコピーになっていた二〇〇四年のオリンピックにせよ、問題は、日本という国への帰属感ではなく、感動のネタとしての「オリンピック」であり「日本」だったわけだ。(第4章「カーニヴァル化するモダニティ」より)
[2007年12月29日] この日の感想・書評へ→

「科学的」って何だ!
松井孝典/南伸坊
松井 だから、あるとき物理的にいなくなったといっても、内部モデルまでは抹消されない。するとそれは、今言ったような意味では、生きていることなんですよね。
南 ああ、はい。
松井 死に関連していろいろ宗教的な行事があるのは、結局、近親者や親しい友人が故人に関しての内部モデル(メモリー)を消さないためにやっているようなことだと思えばいいのではないでしょうか。(第一章「未来はなぜわかるわけがないのか?」より)
冒頭でいきなり血液型性格判断を一刀両断し、スピリチュアルブームを一種の宗教と定義づけ、タイムマシンやUFOがあり得ない理由を明確化し、ヨガや瞑想を「現世でのやる気」を奪う格差社会のシステムと喝破する。さらには宇宙に果てがあるのか、人間の欲望がなぜ尽きないのか、研究するとはどういうことか等々、文系人間が“科学的に”、手っ取り早く理論武装するにはもってこいの平易な対談集。
なおこの本とは直接関係ないが、先日あるバラエティ番組に元F1レーサーの片山右京氏が登場。時速360kmで直線を走った時、「音速を超えると、エンジン音が追いついて来れないので周りが静かになる」と語ったのを聞き、へぇ〜と驚いた後、そりゃそうだよなあと納得した。科学的に説明されるより、実体験としてリアルに語られると、妙に納得感があるものだ。
松井 科学者ならふつう、「科学的」などとは言わずに理屈を言うものですよ。「こういうことでこうだから、こうだ」と説明するのを、単に「科学的だ」というようなことを言っている人のことは信用しないほうがいい。
南 これはすごくわかりやすいお答えですね(笑)。(第三章「日本はなぜ不合理がまかり通る社会になったのか?」より)
[2007年12月26日] この日の感想・書評へ→

ゲーム的リアリズムの誕生
動物化するポストモダン2
東浩紀
キャラクターの物語からの自律という現象は、物語のほうから見ると、キャラクターがメタ物語的な結節点として与えられているがゆえに、あらゆる物語に対して別の物語への想像力が半ば自動的に開かれてしまうことを意味している。オタクたちは、特定の物語を読みあるいは観ているときも、同時にそこに登場するキャラクターが別の物語に登場する光景をたやすく想像することができる。(第一章14「キャラクターII」より)
前著「動物化するポストモダン」の5年半越しの続編。オタクの文学とも言える「ライトノベル」と「美少女ゲーム」を真正面から文芸批評の俎板に乗せ、ポストモダンな社会における物語の可能性について論考している。
本書の主題は、「物語の力が衰えた世界の中で、物語を語ろうとすればどうなるのか」ということ。その一つの帰結が、「ライトノベル」であり「美少女ゲーム」であると著者は位置づける。私自身はこの両者に全く関心を持たなかった(というより軽視してきた)が、読み手の感情移入をより強く促すための「第三視点=プレーヤー視点」の導入をはじめ、どうやら技巧的に極めて手の込んだものになっているようだ。読者を物語空間に引き込む職人的技能と発想力は、もはや通常の「純文学」と比べて何十倍も進んでいるのかも知れない。でも、やっぱりまだ読む気になれないなあ。
近代の自然主義的な文学においては、読者はキャラクターに感情移入し、キャラクターは物語のなかで生を全うし、物語は現実を反映していると想像された。それに対して、ポストモダンの文学、少なくともその一部の作品に置いては、物語と現実の反映関係が確保できないため、キャラクターの生はメタ物語的な人工環境あるいはデータベースへと拡散し、それに呼応して読者の感情移入の場所も、キャラクターからプレイヤーへと、言いかえれば物語の主体からメタ物語の主体へと移動してしまったのだ。(第二章15「プレイヤー視点の文学」より)
[2007年12月23日] この日の感想・書評へ→

動物化するポストモダン
オタクから見た日本社会
東浩紀
近代からポストモダンへの流れのなかで、私たちの世界像は、物語的で映画的な世界視線によって支えられるものから、データベース的でインターフェイス的な検索エンジンによって読み込まれるものへと大きく変動している。その変動のなかで日本のオタクたちは、七〇年代に大きな物語を失い、八〇年代にその失われた大きな物語を捏造する段階(物語消費)を迎え、続く九〇年代、その捏造の必要性すら放棄し、単純にデータベースを欲望する段階(データベース消費)を迎えた。(第二章「データベース的動物 5 データベース消費」より)
「オタク」の分析を通じて、80年代以降の日本の文化状況を分析しようというのが本書の趣旨。ああ、なるほど「ポストモダン=大きな物語の終焉」ってこういうことだったのかとよく分かった。要するに、社会を一括りにする共通の価値規範が機能しなくなった今。特に若い世代の間では、各々が自分なりの「萌え要素」を断片的に収集し、その中に閉じこもる社会になりつつあるということ。ただ、それでは「大きな物語」は求められていないのか、というと案外そうでもなさそうだ。
このところ「昭和」(それも特に昭和30〜40年代)が見直され、当時を知らない若い人達までが、「ALWAYS〜三丁目の夕日」的世界観に強く心惹かれているのは、「一生懸命働けば暮らしは良くなる」「技術の進歩は人間を幸福にする」といった“大きな物語”を誰もが信じ、前向きに生きられた時代への無意識の憧れが潜んでいる様な気がする。
ポストモダン=動物の時代においては、世界は、小さな物語と大きな非物語、シミュラークルとデータベースの二層構造で捉えられる。そしてそこでは、深層に大きな物語がない以上、生きる「意味」を与えてくれるのは表層の小さな物語だけである。データベースは意味を与えてくれない。だからこそ九〇年代のオタクたちは、作品を解体し、分析し、再構成する欲望をもっていながら、いや、むしろそれゆえに、作品の表層に宿るドラマに素直に感動していくのだ。(第二章「データベース的動物 9 動物の時代」より)
[2007年12月21日] この日の感想・書評へ→

最高学府はバカだらけ
全入時代の大学「崖っぷち」事情
石橋嶺司
◆バカ学生は就職活動時には会社のロビーで着替えだします。
◆バカ学生は一般企業の営業を嫌がりますが、「提案を営業」するコンサル会社は愛しています。
◆バカ学生は講義に真面目に出席しますが、ネットカフェとして利用しているだけです。
◆バカ学生は起きてから寝るまでの一日中、携帯でメールのやり取りをしないと気が済みません。 (「第一章のまとめ」より)
昨今の大学受験事情は、私が大学生だった80年代前半とは大いに様子が異なる。かつては受験イコール入試による一発勝負で、推薦枠を使う者は一握りだったが、今では相当数の学生が指定校推薦や自由枠推薦、AO入試といった方法で入学を決めている。昔ながらの入試に関しても、「センター試験」を利用すれば、一つの試験結果を複数校への志願に使い回しできるそうな。まあ“受験地獄”という言葉が今や死語となり、受験苦で命を絶つ若者が減ったのは結構なことだ (但しその分今日はイジメという別のストレスが・・・)。
本書では“バカ学生”にスポットが当てられ、Oh my God!な“武勇伝”が幾つも紹介されているが、反対に私がインターンシップの取材等を通じて出会う子らは、80年代の大学生達よりは数段真面目で、時には「社会人の真似事なんかするより、今のうちに広い世界を見に行きゃいいのに・・・」と、かえって痛く感じることさえある。
◆バカ学生発生について、「悪いのはウチ以外」と大学関係者は思い込んでいます。
◆大学職員はつき合いのない高校に行くとき、指定校推薦枠を用意しないとお茶も出てきません。
◆秀才を確保するための就活早期化は、逆にバカ学生を増やしています。
◆企業は、バカ学生の発生原因は大学にあると断言します。 (「第二章のまとめ」より)
[2007年12月17日] この日の感想・書評へ→

なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?
岸本裕紀子
選手のみなさんは僕らに勇気をくれました。
試合を観て、元気とパワーをいっぱいもらいました。
感動をありがとう、といいたい!
もうあまりにお馴染みのフレーズである。・・・(中略)・・・よく聞くフレーズだし、流行っぽい表現だから口からふと出てしまうだけかもしれない。が、それにしても、勇気とか、感動とか、日常生活ではめったに経験することがないような感情の表現を、あまりに安易に使いすぎるとは思う。(第五章「『半径1mでまったり』が好きな若者たち」より)
本書によれば、最近の若い人達(10代後半〜20代前半)の間では、男性の車離れが進み、パリやニューヨークよりも温泉旅行の方が人気で、都会より「地元」が好きで、職人を目指す人が増え、若い女性の高級ブランド品離れが進み、マンガ雑誌を読む人が減ったらしい。
これらの表面的な現象だけ取り上げれば、自分の若い頃とさして変わりはない。団塊世代ならいざ知らず、周りを含めて振り返っても、ギラギラした野心家はいなかったし、海外旅行なんて話題にも上らなかったし、ブランド品に興味はなかったし、東京に住みたくもなかったし、毎晩の様に友人達とファミレスでうだうだと、他愛もない話をしていたものだった。あの頃にもしケータイがあったら、今の若い連中と変わらない生き方・考え方を二十数年早く実践していただけのことだろう。
「半径1m以内」は、現代の若者を象徴する言葉だが、決して否定的に用いているわけではない。こぢんまり生きる、人と比べない、身の丈にあった暮らしを求める、日本のよさを見直す、自分にとっての幸せの軸を打ち立てる・・・・・・。それこそが、競争社会という大変な状況の中で彼ら自身が身につけたサバイバル術かな、と感じている。(「おわりに」より)
[2007年12月 7日] この日の感想・書評へ→

キャラ化するニッポン
相原博之
グループ(社会)から「ボケキャラ」というアイデンティティをもらった若者は、嬉々としてひたすらボケをかまし、ボケキャラを全うすることで、安堵の日々を送る。それがキャラ化社会の人間関係であり、そこで、少しでも、「俺の本当のアイデンティティは?」などと考えたら、とたんに奈落の底に落ちてしまう。(第五章「『キャラ』の持つ社会的存在の意味」より)
キャラとはキャラクターの省略形でありながら、まさに「藍より青く」で、元の言葉を呑み込む存在感と独自性を持つに至った。英語のcharacterは「人格・性格」という意味を有するが、「キャラ」と略されたことで「人格“のようなもの”」へと肥大化した。今の若者にとって「キャラ」とは、仲間内での自分の「居場所」であり「仮面」である。そのため誰かとキャラが被った場合、相対的に自分の方の「キャラが薄い」と判断すれば、早々に別の仮面に付け替え居場所を確保する。もちろん本来の自分のキャラクター(人格)とズレて構わない。内面に踏み込んだコミュニケーションなど互いに求めていないから、アイデンティティよりも居場所の方が大事なのだ。こうしたキャラ主体のコミュニケーションでは、互いを平面的なステレオタイプで理解し合うことになり、中には誰かにキャラを決めてもらわないと安心して生きられない人も出てくる、という。
マイペースで生きている私の様なおじさんには何だかよく判らんが、やたらと「空気を読む」ことを強いる人間関係と、一脈通じるヤな感じがそこにある。
しかし、それはかつての「憧れの存在」たちのように、その発言や生きかたへの共感というものではない。若い女性たちはエビちゃんという「キャラ」そのものにあこがれるのだ。そして、彼女たちがエビちゃんに対して使う言葉はただひとつ、「かわいい」だ。
彼女は、その意味で、まさに「かわいい」という純粋な記号、純粋なキャラだけで成立する稀有な存在と言っていい。(第六章「消費・ブログ・ケータイ・セカイ化」より)
[2007年12月 4日] この日の感想・書評へ→

ぼくには数字が風景に見える
ダニエル・タメット著/古屋美登里訳
数字はぼくの友だちで、いつでもそばにある。ひとつひとつの数字はかけがえのないもので、それぞれに独自の「個性」がある。11は人なつこく、5は騒々しい、4は内気で静かだ(ぼくのいちばん好きな数字が4なのは、自分に似ているからかもしれない)。堂々とした数字(23,667,1179)もあれば、こぢんまりした数字(6,13,581)もある。 333のようにきれいな数字もあるし、289のように見映えのよくない数字もある。ぼくにとって、どの数字も特別なものだ。(「青い9と赤い言葉」より)
サヴァン症候群とアスペルガー症候群という自閉症に近い脳障害を持つ著者は、対人コミュニケーションがうまく取れず、物事の細部に異様なこだわりを見せたり、些細な事でパニックを起こすなどの“生きにくさ”を抱えている。一方で数字の羅列が美しい風景に見えるという不思議な共感覚を持ち、独自の言語感覚によって10ヵ国語以上を使いこなす。その当事者が自らの生い立ちと絡めつつ、脳の中に浮かぶ独特な風景や心情を平明かつ素直に文章化したのだから、面白くない訳がない。言ってみれば、天才の頭の中をのぞくような感覚だ。
ある程度の期待感はあったが、それを超える興味深い本だった。
「67657486953587」
そして終わったという合図をした。ぼくは、πの小数点以下二二五一四桁まで、ひとつの間違いもおかさず暗唱したのだ。そして五時間九分というイギリス及びヨーロッパにおける新記録を達成した。
見学者たちが大歓声をあげ、サイモンが駆け寄ってきてぼくを抱きしめたのでびっくりした。(「πのとても大きな一片」より)
[2007年12月 1日] この日の感想・書評へ→

なぜ日本人は劣化したか
香山リカ
日本人に、何か重要な変化が起きているのではないだろうか。
では、何が起きているのか。私は、年齢に関係なく、いま私たち日本人に起きていること、それをひとまず「劣化」と呼んでおこう。・・・(中略)・・・この「劣化」が、いま日本人や日本社会でのマクロなレベルからミクロなレベルまで、知的な活動からものづくり、モラルまで、ありとあらゆるところで同時多発的に起きているのではないだろうか。(第一章「活字の劣化」より)
とりあえず「なぜ日本人は劣化したか」という題名を編集者から与えられ、都合の良いデータや風聞、私的な経験を強引にその枠組みに当てはめ論じ切った一冊。近頃の新書はこうしてお手軽に作られるという良い見本だ。ただ、嘆かわしい諸々の事例とそれらへの批判には、肯けることも多い。
実は読んだばかりの新聞にも、目が点になる様な昨今の保護者達=「モンスターペアレンツ」の横暴ぶりが載っていた。曰く「朝うちの子を家まで起こしに来て」「遠足の写真でなぜうちの子が真ん中に写ってないの?」「ガラスを割ったのはそこに石が落ちていたのが悪い」「無理矢理食べさせられているのに給食代を払うのはおかしい」・・・。ごり押しと分かった上で強引に我を通す輩は昔からいたが、昨今のモンスターは全くの真顔で、自分がおかしな要求をしているとは夢にも思ってない分余計に始末が悪い。その意味で「日本人の劣化」というテーマを精神科医の視点で書かせた本書の編集者は、巧く時代の空気をすくい取っているのだろう。
たとえば、「もしまた犯罪を犯すとしますよね。そうするとだいたい何割の確率で逮捕されることになって、それから服役しているあいだの損害はいくらで・・・」(中略)・・・目の前にはっきり「犯罪は損」という数字が示されると、彼らの多くは「じゃ、やっぱりやめておいたほうがいいかな」と言い出す。・・・(中略)・・・良心や道徳と直接かかわることでも、損得に基づいて話をし、得なほうを選ぶ契約をする、というやり方で解決できる問題もあるのだ。(第九章「劣化を防ぐことはできるか」より)
[2007年8月25日] この日の感想・書評へ→

「悩み」の正体
香山リカ
私が勤める大学で接する、最近の学生たちを見ても、この「場の空気を読む」ということに必死になっているように感じる。誰かが「昨日のあの番組、見た?」と口を開いたときに、・・・(略)・・・たとえ自分ではその番組が気に入らなかったとしても、場の空気が肯定的だと感じたら、「おもしろかったよね!」と明るく言わなければならない。そうしなければ、後から「あいつは空気が読めないヤツだ」と言われ、敬遠されてしまう結果にもなりかねないからだ。(1「嫌われるのがこわい」より)
「場の空気が読めない」「働いても生活できない」「まじめに生きて損をした」など、従来なら悩みにならなかったことが“悩みに昇格”する現代社会。そんな現代人ならではの約30の「悩み」を取り上げ、自分を責めるだけじゃなく世の中を疑ってみるのも大切だよ、と本書は優しく説いている。
中でも考えさせられたのが、「場の空気が読めない」という悩み。そもそもは明石家さんまを筆頭とするお笑い芸人が盛んに使う「空気を読め!」のセリフから広まったようだが、番組内の「笑い」へ昇華していた間はともかく、近頃の若い世代の間では「あの子ってKY(=空気が読めない人)だよね・・」なんて陰口に使われ、人間性の優劣の基準となりつつある。このままいけば国家権力がメディアを総動員し、巧妙な「空気を読め!」キャンペーンを若い世代向けに展開することで、いとも簡単に戦前の様な「一億総火の玉の“空気”」が作れるかもしれない。
しんどいときは、「しんどい」と言える社会。それは必要だ。しかしそこには、「損な人が出ずに、誰もがそう言えるような」という但し書きがつく。そして、「黙ってフォローした人が損をしないような仕組みも必要」というさらなる但し書きがつくことは、言うまでもない。(6「まじめに生きてきたのに」より)
[2007年8月 1日] この日の感想・書評へ→

「愛」という言葉を口にできなかった二人のために
沢木耕太郎
間違いなく、「愛」という言葉は状況を斬り拓き、新しい関係を作り出す。しかし、仮にその「愛」が成就したとしても、それが最終的なハッピーエンドに結びつくとは限らない。成就した「愛」は変容するからだ。姿や形を変え、それが「愛」であったかどうかということすら不分明になるほど色褪せてしまうことが少なくない。一方、成就しなかった「愛」は色褪せることなく、むしろ年を経るごとに鮮やかにすらなっていく。(「『愛』という言葉を口にできなかった二人のために」より)
「愛してる」なんて言葉を素面で言える程神経は太くないが、真剣に思いを寄せた人に、想いを告げないまま済ませたことは一度もない。「我ことにおいて後悔せず」という宮本武蔵の言葉を、少なくとも色恋沙汰に関しては実践してきた訳だ。
本書にあるように、「映画には多くの《「愛」を口にできなかった者たち》が登場してくる」。そして「愛」とは何も男女間で語られるだけの言葉ではない。過日、日清食品の故・安藤百福氏の葬儀に参列した時のこと。喪主を務められた安藤宏基社長のご挨拶の中に、「かつて父が私に『お前を愛している』とはっきり言ってくれたことがあった。でも私は照れて何の言葉も返せず、そのことを今本当に悔やんでいる」との下りがあり、思わず胸を衝かれた。私にも子供がいるが、さすがに面と向かって言葉にはできない。やはり日本が世界に誇るインスタントラーメンの父、我々の様な凡人とは違う。
もちろん、「愛」という言葉を口にできなかった経験は男と女のあいだだけに存在するのではない。親と子のあいだでも、あのとき「愛」という言葉を口に出せていたら、という痛切な思いを抱くことは大いにありうる。(「『愛』という言葉を口にできなかった二人のために」より)
[2007年7月29日] この日の感想・書評へ→

一号線を北上せよ
沢木耕太郎
ここに収めた文章は、この十年余りにおける、その時その時の、私の「一号線」を求めての旅のスケッチである。それは誰かの跡を追う旅だったり、何かを知るための旅だったり、スポーツの試合を見るための旅だったり、その時々によって「一号線」は変わっていったし、「北上」の仕方もいろいろだったが、常に私の「夢見た旅」だったことは間違いない。(「一号線はどこにある?」より)
カッサンドルのポスターと特徴的なタイポグラフィを組み合わせた装丁は、あの懐かしき「深夜特急」が帰ってきた様で、表紙を捲る前からいやが上にも期待が高まる。中でも、バックパック片手にバスに揺られながら安宿を転々とする・・・という「ヴェトナム縦断」の旅のスタイルは、まさに「深夜特急」そのものだ。
ただ読み終えた後でふと思う。今の沢木にとって、若き日の貧乏旅行をなぞる必然性がどこにあるのだろう? 過ぎ去った若き日への感傷? 単に読者が期待する“沢木らしい”紀行文を綴るための設定だとすれば、少し哀しい。
そして本書の掉尾を飾る「記憶の樽」は、まさに二十年前の旅の記憶を頼りに、かつての“夢の酒場”を再び訪れようとする、中年男の“センチメンタルジャーニー”の記録だ。かつての沢木のダンディズムからすれば、この様な過去を振り返るため“だけ”の旅を文章にはしなかっただろう。彼自身本書の中で、《若いうちは若者らしく、年をとったら年寄りらしくせよ》というペルシャの箴言を引きながら、年配の日本人団体旅行者に優しい目線を送っている。
そう。我らが沢木耕太郎も今年で還暦なのだ・・・。
以前、私が日本の団体客とそうした欧米の個人旅行者と比較したらどう思っただろう。外国を緊張感もなく旅しているツアー客を困った存在と見なし、一人か二人で毅然と旅行している欧米の旅行者を肯定的に捉えたことだろう。
しかし、いま、私はこの日本の団体旅行者たちのことを「いいなあ」と思いはじめている。(「ヴェトナム縦断」より)
[2007年7月26日] この日の感想・書評へ→

わが家の夕めし
池波正太郎
私の晩酌は、冷酒を茶わんで二合。
外でのんでも、五合までなら、どうにか帰宅して仕事が出来る。しかし、そのようなことは月に一度ぐらいなもので、できるならば、今夜は仕事をしなくてもよい、というときに出かけてのみたい。
私は、のむと、きげんがよくなる。(酒・昭和四十五年二月号「私の酒ぐせ」より)
「オール讀物」で「鬼平犯科帳」の連載が始まった昭和43年1月、私はまだ幼稚園児だった。本書はその「鬼平」のほか、「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」など17本の連載を抱えていた昭和44〜49年に、様々な媒体に散発的に書かれ、そのまま埋もれていたエッセイを全て集めたものである。
1923年生まれの著者は、当時がちょうど四十代半ば。まさに今の私とほぼ同世代の頃に書かれた文章、ということになる。何せ十代後半にして株の相場を生業とし、吉原通いを続けていた著者であるから、同じ四十代半ばでも人生への見方が違う。同世代とはとても思えず、自分の未熟さを否が応でも思い知らされる気がした。
×月×日
H君は車なので先へ帰る。
昼前に[小島]へ行く。K氏T氏来る。
小福、浜勇、鶴松来り。ビールをのむ。
旧知の間柄とて、女たち高声に世間ばなしをしているのを、居ねむりしながらきく。
当節、芸妓も大変なり。もっとも、私の商売も大変なのである。(スクラップブック昭和四十五年「梅雨の北陸路」より)
[2007年7月15日] この日の感想・書評へ→

池波正太郎劇場
重金敦之
「花ぶさ」でも「新富寿し」でも、カウンターの隅を好んだ。定連となっても、定連を誇示するようなことは嫌った。「新富寿し」によく同行した女性の話だ。ネタがよく見える正面の席に座りたいと言っても、「ここでいいのだ」といって、隅のネタがみえない席を選んだという。正面には、長く通い続けている年輩の定連客がいつも座ることがわかっていたからだ。((4)「食卓の演出家たち」より)
東京出張の際、三回に一回は浅草に宿を取る。無論、池波ワールドの物語空間に浸るためだ。浅草は氏が育った街で、ご贔屓の店も少なくない。西浅草にある「池波正太郎記念文庫」では、書斎が生前のままの佇まいで再現され、肉筆の原稿を間近に見ることができる。ああこの界隈を鬼平や秋山小兵衛が歩いていたのだなと、物語の中の様々なシーンを脳裏に浮かべつつそぞろ歩くのは実に心地よい。
ただ残念なことに浅草の夜は早く、いつものペースで仕事を終えて宿に戻ると、お目当ての店はほとんどが閉まっている。そんな時は当てもなく浅草寺の境内をぶらぶらし、冬場ならコンビニのおでんでも買い込んで、宿で寂しくカップ酒を飲むことになる。だから結局浅草に宿を取っても仕方ないのだが、少し間が空くと無性に行きたくなるから困ったもんだ。
人それぞれによって、多様な読み方ができることこそが、池波文学の真骨頂であり、「池波正太郎劇場」の舞台を楽しむ観客の特権である。まあ、いってみれば、本書は「池波正太郎劇場」の「プログラム」みたいなものかも知れない。(「あとがき」より)
[2007年7月11日] この日の感想・書評へ→

まだある。〜玩具編〜
初見健一
野球盤といえばエポック社だが、そもそも同社は、創業者の前田竹虎氏が野球盤を販売するために設立した会社なのだ。1号機は家具職人によって製作された高額な商品だった。が、画期的なアイデアが人気を呼んで大ヒット。ブームとなった「消える魔球」搭載機は1972年に発売(「野球盤スタンダード」より)
食品編と並ぶシリーズ第5弾。「かんしゃく玉」「ジャンプ玉」「パチンコ」「探偵ミラー(潜望鏡)」「銀玉鉄砲」「スーパーボール」「ようかいけむり」etc.、これらの名前を並べているだけで、子供時代に通った駄菓子屋のほの暗い室内や、秘密基地に見立てて遊んだ廃材置場、河辺の空き地、路地裏の匂いが甦ってくる。小学校低学年の頃、祖父からもらったお小遣いの十円玉を握りしめ、「当て物」にしようか怪獣の「ブロマイド」にしようか、あるいはかんしゃく玉など火薬系で派手に遊ぼうかと思案に暮れたものだった。
中でもヘンな駄玩具として忘れられないのが「ようかいけむり」。薬品が塗られたカードに人差し指をなすりつけ、親指とくっつけたり離したりすると“煙”(ホコリ?!)がゆらゆら・・・というアレだ。現代の子供達にやらせてみたらどんな反応を示すだろうか?
ちょっと悪質なのが「車道に撒き散らす」。信号の変わりめにパッと置いて、サッと逃げる(マネをしないでください)。・・・(中略)・・・が、王道はやはり別項の「パチンコ」を使用した射撃。近所の家のブロック塀で射撃練習を繰り返し、火薬の跡でまっ黒に染めたりした(マネをしないでください)。(「クラッカーボール(かんしゃく玉)」より)
[2007年6月18日] この日の感想・書評へ→

バーのある人生
枝川公一
バーにメニューは要らない。メニューがないことがバーの証明だと言い切ってしまってもいいくらいではないか。つまり「メニューはありません」とは、バーテンダーと相対で、ご自分のお好みのものを注文してくださいよ、という意味である。また、バーテンダーは、お客さんのご注文でなんでもつくりますよ、という意味にもなる。(4「バーの時間の過ごし方」より)
生田神社西の路地を入った所に、バー「ローズブーケ」はある。オーナーバーテンダーのH氏は、舞子ビラのメインバーで修行を積んだ正統派。店名はコンクールで入賞した自作のカクテルの名前だ。年に数回しか訪れない私は、決して上客とは言えないくせに、図々しくも「長いお別れ」に出てくるレシピ通りのギムレットを注文したり、毎回微妙に配合を変えてマティーニを作ってもらったりと、H氏の腕に甘えてわがままな注文をしている。幾度通っても決して狎れることなく、物静かに、折り目正しく、どの客も平等にもてなす態度が美しい。通い始めて3年近くになるが、どうやら酒だけでなくシガーも扱っているようなので(先日初めて知った)、次回は是非にと楽しみにしている。
今、行きつけのバーはこの一軒しかなくなったが、一軒いい店があれば、それで十分だ。
次の瞬間には、ガシャッという音がして、グラスは消え、ガラスの破片が、カウンターを流れる液体のなかに散らばっている。割ってしまった。
「触らないでください」と制してから、バーテンダーは、手早く残骸を拭き取り、「形あるものは壊れるのですから」と言った。これが、この場合の常套句だとはかねがね聞いていたけれど、やはりそうだったかと思う。不謹慎だけれど、これにはとても感動した。(4「バーの時間の過ごし方」より)
[2007年4月 5日] この日の感想・書評へ→

まだある。食品編
初見健一
七〇〜八〇年代前半ごろまで、チェリオは「少年少女ドリンク」の定番だった。・・・(略)・・・筆者の場合、中学の部活の練習後、学校側からは厳重に「登下校時の買い食いは厳禁」というお達しが出ているにもかかわらず、学校裏の「福島文具店」で目にも鮮やかなピンク色のストロベリー味のチェリオと井村屋の肉まんを購入。(「チェリオ」より)
中学の部活の帰り、学校近くのパン屋「サトウ商店」でカラカラの喉をいつも潤してくれたのが瓶入り「チェリオ」だった。特別味が気に入っていた訳ではない。同じ炭酸飲料の「ファンタ」や「ミリンダ」が200mlなのに対し、同じ値段で300ml入って飲み応えがあったからだ。当時それでも飲み足りない奴は、コカコーラのホームサイズ(500ml)をがぶ飲みしていた。
本書では他にも「カルミン」「ジューC」「クッピーラムネ」の“遠足系三大ラムネ”(独断です)をはじめ、「丸美屋ふりかけ3色パック」(いつも「ごま塩」だけが残る)や瓶入りの「森永コーヒー牛乳」(銭湯の記憶と表裏一体)、「マルシンハンバーグ」(夕方子供向け再放送アニメの定番CMだ)、「ホワイトロリータ」(なぜか法事の席でよく食べる)etc...、70年代に少年時代を過ごした者にとって懐かしさ満点の“現役”商品達が、諸々の記憶を鮮やかに呼び起こしてくれる。
お菓子屋さんの店先だけでなく、縁日の屋台などでもよく見かけた。当時は裸のまま売られている場合が多く、もちろん「食品表示」などとは無縁。正式な商品名すらないのである。子どもたちは「風船アイス」「ゴムアイス」など、勝手な「あだ名」でこのアイスを呼び、筆者の周辺では「ボンボンアイス」の呼称が一般的だったと思う。(「たまごアイス」より)
[2007年3月19日] この日の感想・書評へ→

他人を許せないサル
正高信男
細木数子がブームになるのも、脳科学がブームになるのも、結局はいっしょと言える。常に何らかの因果関係、理由付けを求めているからにほかならない。「どうしてそんな行動をするのですか」と質問したときに、「実は脳がそういう設計になっているのです」とあまりにストレートに答えられると、我々は「ああ、そういうものなのか」と納得してしまう。(第2章「理由付けを求める現代人」より)
「科学をあなたのポケットに」というキャッチフレーズの講談社ブルーバックスは、私の様な文系人間にとっては少し敷居の高い、その分科学的・客観的知識が必要となる際には頼りになる新書シリーズだ。その意味で本書はこのシリーズにふさわしい内容ではなく、「ついにブルーバックスも売れ線に迎合し始めたか」と正直残念に思った。
内容はベストセラーになった著者の「ケータイを持ったサル」(中公新書)同様、ケータイメールの送受信に血道を上げる若者達へのボヤキ節に、大して科学的関連性があるとは思えない調査データやグラフをくっつけ、ブルーバックス風に仕立て上げたもの。ヘンに“科学的”に見せようとせず、「オジサンは怒ってるんだゾ!」的な評論だったら読み物としては悪くないのだが。
それに前掲書で著者は「私は携帯電話を持っていない。だから『メル友』もいない。」と変に自慢気だったが、今も変わらず携帯電話を試しもしないまま、ケータイ文化を論じようとし続けているのだろうか?
ケータイがあるが故に、物理的には一人でいても、常に誰かと時間を共有していることになる。たとえ一人になりたいときも、心理的に完全に一人になれることがなくなる。大変疲れる時代になってくる。(第3章「IT世間の出現」より)
[2007年3月11日] この日の感想・書評へ→

「かわいい」論
四方田犬彦
それは欧米のように未成熟を成熟への発展途上の段階を見なし、貶下して裁断する態度とは、まったく異なっている。「かわいい」を二十一世紀の後期資本主義社会の世界的現象とのみ理解するだけでは、それが日本から発信されたことの理由が理解できなくなってしまうだろう。共時的な認識と通時的な認識とを同時に働かせないかぎり、「かわいい」の美学、神話学に接近することはできないのだ。(第1章「『可愛い』現象」より)
「『かわいい』を21世紀の美学として位置づけ、その構造を通時的かつ共時的に分析する、はじめての試み」という宣伝文句通りの書。深い問題意識と能力・教養を備え持つ学者が取り組めば、「かわいい」という言葉の中に元来備わる歴史性、今日的な文脈の中における意味の広がり、及び「かわいい」を取り巻く諸々の現象は、社会学的に十分学問の対象となり得るのだなあと感心させられた。
読んでいて説得力を感じるのは、東京と秋田の大学生245人に「かわいい」をテーマにした記述式アンケートを行い、その回答を綿密に分析した上で論考を行っているためだろう。これまで感覚や私見で語られがちだった若い世代の「かわいい」にも、実は性別や各人の成育環境・経験によって結構ニュアンスに違いがあるんだなと解り興味深かった。
『セーラームーン』が興味深いのは、主人公の五人の少女が変身の後にいかなる活躍を見せるかではなく、悪を眼前にした彼女たちの変身にこそ語りの上で大きな力点が置かれていることにある。・・・(中略)・・・この変身は、ロジェ・カイヨワが定義する意味での遊戯の四つの定義を、すべて完璧に兼ね備えたものといえる。すなわち偶然、競争(闘争)、模倣、そして圧倒的な陶酔が、みごとに集約されて登場しているのだ。(第6章「なつかしさ、子供らしさ」より)
[2007年3月 1日] この日の感想・書評へ→

梶原一騎伝
斎藤貴男
主人公のイメージは子母沢寛が『父子鷹』で描いたところの勝麟太郎(後の海舟)をタテ軸に、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』をヨコ軸とする。彼は常に悲運を背負い、何度となく傷つくが、決して闘うことをやめない・・・(中略)・・・野球はあくまでも手段であって、目的ではない。描くべきは「男の人生」なのだ。
名作『巨人の星』が、梶原一騎の中で胎動を始めていた。(第一章「スポ根伝説〜栄光の時代」より)
今の30代後半〜50代の、特に男性で、梶原一騎原作による劇画の影響を全く受けなかったという人はいないだろう。私自身も「巨人の星」のTV放映がきっかけで野球を始め、一徹・飛雄馬親子の気分になりきって毎日親父とキャッチボールをしたもんだった。そのほか「あしたのジョー」「タイガーマスク」「空手バカ一代」「愛と誠」「柔道一直線」「赤き血のイレブン」「侍ジャイアンツ」etc...。当時の少年たちの生き方・考え方に与えた影響力だけで言うなら、間違いなく手塚治虫以上の存在感があった。
晩年の数々のスキャンダルによってマスコミから抹殺に近い扱いを受け、作品の評価自体も不当に貶められていた感があるが、没後20年を迎えた今も、個人的な思いとして上記の作品たちが放つ輝きは永遠に失せることはない。そして本書にはこうした不滅の作品群を生み出した男の、太く短く、豪快かつ哀しい生き様が、“ゴッドハンド”大山倍達をはじめ身近な第三者への綿密な取材を通じて丁寧に描かれている。
梶原一騎の作品を通して読むと、それらの主人公たちは例外なく作者である彼自身の投影された姿であることがわかる。創作する者は多かれ少なかれそうした傾向はあるものだが、梶原の場合は他の誰よりも顕著だった。
「中でも、ジョーは最もよく兄貴自身が投影されたキャラクターだった」 と、真樹日佐夫は言う。(第四章「あしたのジョー」より)
[2007年2月16日] この日の感想・書評へ→

日本人の正体
養老孟司・テリー伊藤
養老 ・・・参議院は一切、只今現在のことを議題にしちゃいけないようにすればいいんです。ここから先、50年以内の問題を考えちゃいけないって法律で決めちゃう。そこで、少なくとも50年のスパンで考えて教育や環境、その他の問題を議論して法律を作ればいいんです。
テリー なるほど。見事な提案ですね。(第3章「日本人は自分の人生を生きているか?」より)
つい先日、ある企業の社長との会話の中で「理想の人材像」に関して話題が及んだ時のこと。その社長はズバリ「男は男らしいヤツ、そして女は“より一層”強い人」と言い切られた。「男らしい」とは、何も体育会系の硬派なヤツという単純な話ではなく、責任感や行動力といったトータルな能力を意味しているのだが、一方の女性に対しては「女らしい」ではなく、「“より一層”強い人」が基準となっていたのが新鮮だった。要するに女性の方が確率的に優秀な応募者が多いので、そうした中でも“より一層”優れた人が基準になる。良い意味で、はなから期待のハードルが高いのだ。
さて、本書の原題は「オバサンとサムライ」である。新書化にあたり「日本人の正体」と改題されたが、結論は「長生きしたけりゃ、ストイックなサムライ道より元気が出るオバサン道」を目指そう、ということ。あえて付け加えるなら、「大阪のオバチャンやったら“より一層”無敵やで」と言いたい。
養老 僕の先輩が名セリフを言ったんだよ。「男は現象だが、女は実体だ」って。男と女の違いは、それに尽きる。
テリー そうか。オバサンは実体なんだ。これ以上、強い者は他にないですね。サムライ道なんか求めてもしょうがないな、こりゃ。サムライなんて、まさに現象に過ぎないんだから、実体にはかないっこないもん。これからは「オバサン道」だよ。(第6章「“オバサン道”宣言!」より)
[2007年2月 5日] この日の感想・書評へ→

人は見た目が9割
竹内一郎
心理学では、実は人間が伝達する情報の中で話す言葉の内容そのものが占める比率は、七%に過ぎない、という研究結果が出ている。
我々は言葉では、七%の情報しか、受け取っていないのである。(「はじめに」より)
「ベストセラーはタイトルが9割」と揶揄したくなる程、巧いネーミングが売れ行きに大いに貢献したと思しきベストセラー本。思うに「バカの壁」が大ヒットした辺りから、本のタイトル作りの流れは露骨に煽動的なトーンになって来たようだ。
さて肝心な中身については、正直「どこかで読んだことがあるなあ〜」というような内容が随所に散見され、目新しさは少ないが、かといって全く役に立たないわけでもない。個人的には、マンガ作りにおいて構図が与えるインパクトの違いや、背景処理と心理描写の関連性など興味深く読めた一節もあるが、やはり「非言語コミュニケーション全般」を「見た目」という言葉で括るのは、確信犯的な売れ線狙いのタイトルと言わざるを得ない。
男は嘘をついた時、目をそらす。やましい気持ちが目に表れる。
ところが女は嘘をついた時は、相手をじっと見つめて取り繕おうとする。
つまり女がじっと見つめた時は本来怪しいのだが、これはいまだに「世の一般法則」にはなっていない。(第3話「女の嘘が見破れない理由」より)
[2007年1月21日] この日の感想・書評へ→

「大人」がいない・・・
清水義範
つまりもともとは、なまめかしい女性とは、何でもできるかのようにしゃしゃり出るのではなく、未熟でうまくできないとか、よくわからないかのようにふるまうところに魅力のある女性、という意味だったのである。この、未熟さを愛するという日本人の好みは、まさしく今の「萌え」好みに通じるものだ。(第4章「お子様たちの文化」より)
一人前の大人って何だろう?なんて四十も半ばを過ぎた人間が発するべき問いではないかも知れない。が、年齢に関係なく、「ああこの人って大人だなあ。それに引き替え・・・」と打ちのめされる人に出会うことは少なくない。それは仕事上積み重ねてきた経験や、いくつ修羅場をくぐってきたか、なんて問題ではなく、結局その人が精神的に自分を「大人」として位置づけているかどうかなのだろう。要は自覚の問題である。ただその一方でいい仕事をするクリエイターの中には、人間としてどこかビミョーに欠落しているヤツが多いよなあ、と実体験の中では感じている。そうした大人としての“いびつさ”を無意識に埋めようとするエネルギーが、常人とは一風異なる感性となって、創造のパワーを生み出しているのかも知れない。
日本は経済的に豊かになってきたことにより、あまりちゃんとした大人にならないでも生きていける社会を作ったんだ。そして、資質的に持っている、遊びの文化、おもちゃの文化のようなもので、今や世界をリードしているぐらいのものだというわけなんだ。(第7章「社会の中で『大人』であること」より)
[2006年12月26日] この日の感想・書評へ→

大将論
池宮彰一郎
すべて「司馬史観」だけで固まってしまったら、歴史小説はそこでおしまいになる。・・・(中略)・・・私自身、身の程知らずとは思っていますが、歴史の見方にはいろいろあることを示す、これが司馬さんと同じ年である私の使命だと思ったのです。(「改革者『信長』にいま何を学ぶ」より)
当代屈指の人気歴史小説家が、「高杉晋作」「本能寺」「天下騒乱」「平家」等7つの自作をテーマに、総理大臣になる直前の小泉純一郎や作家の丸谷才一、井上ひさし、ジャーナリストの櫻井よしこ他と歴史人物論を繰り広げた対論集。全て知った作品ばかりなので、人物造型の裏話など興味深く読むことができた。
ただ池宮作品については、司馬遼太郎作品との類似性が物議を醸し、実際に一部作品(「島津奔る」「遁げろ家康」)が回収・絶版になっているらしい。類似箇所を逐一比較したサイトを見る限り池宮氏に分が悪いなと思わざるを得ないが、「司馬史観」の打破を強く意識する余り、いつしか池宮氏の頭の中で、司馬作品が小説ではなく歴史“文献”に変容していったのだろうか。
昔、司馬遼太郎さんと話し合ったとき、意見が一致したことがあります。それは、歴史は光の当て方で、全く様相が変わるということです。・・・(中略)・・・私は、司馬さんの影響を受けていますが、自分のドグマで光を当てて、人物を浮き上がらせるというやり方で歴史小説の分野をもう一度切り開こうと思いました。(「真の改革者とは」より)
[2006年10月 1日] この日の感想・書評へ→

世界一旨い日本酒
古川修
麹と酵母がちゃんと働き、完全発酵した酒は、周りの雑菌に冒されにくい。従って、常温で置いても、開栓して空気に触れさせても、劣化が少なく、味乗りが勝って美味しく熟成していくのである。(第一章「本当に旨い飲み方」より)
無濾過純米生原酒は冷蔵保存が必須、それも業務用の大型冷蔵庫でなければ上手く熟成させられないものと思い込んでいたが、本書を読んで考えが変わった。きちんと手間暇かけて造られた酒であれば、たとえ生であっても常温で保存することによって味乗りがし、格段に美味しくなる場合がある、というのが本書の説である。
そう言えば私自身、以前「飛露喜」の純米無濾過生原酒を思い付きと気紛れでぬる燗にした時、意外と旨くて驚いた記憶がある。また開栓後、日を置く程に旨味と膨らみを増す酒があることも幾度か体験している。それでもさすがに生酒を常温で保存しようとは思わなかったが、本書を読んでからは一度試す価値はあるかもなと考え始めている。少し勇気はいるが・・・。
口開けした翌日は、その前日よりも味乗りを感じる。もし酒がしっかりとした造りの純米無濾過生原酒であれば、三日目あたりで最高の味乗りになっているはずだ。日にちが経つにつれて、味がだらける酒も多いが、それは、しっかりとした造りをしていないためだ。(第七章「自宅での晩酌とお勧め銘柄」より)
[2006年6月10日] この日の感想・書評へ→

乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない
橋本治
「勝ち組・負け組」という二分法の登場は、「守護大名と戦国大名の交替」に該当するもので、これは一般的に思われている「戦国時代」の前半部分に当たるのだということです。・・・(中略)・・・今の日本の「乱世」とは、そのようにややこしい「日本の戦国時代みたい」なのです。(第一章「乱世と勝ち組」より)
「勝ち組」「負け組」という品のない言葉が横行する今日の日本を「戦国時代」になぞらえた下りを読んでいる間、思わずホリエモンの事が頭に浮かんだ。「『勝ち組』になった者には、永遠に『勝ち組』であり続けなければならない困難が課されて、『私は勝ち組だ』という自賛も禁じられます」と書かれた本書が世に出たのは2005年11月。まさにホリエモンが「勝ち組」として我が世の春を謳歌していた時であり、その後の転落は、まさに「勝ち組」であり続けることの難しさを如実に表している。そしてその転落を酒の肴にする時期も過ぎ去り、今はもう世間にとってどうでもいい人になってしまったようだ。まあ要するに、勝つにせよ負けるにせよ程々がよろしいようで・・・。
バブル以後の経済で「勝ち組」になるためには、「消費者の欲望を刺激する」というファクターが欠かせません。というわけで、ほとんど野放し状態の「欲望」に引きずられる形で、現在の日本経済は存在しているのです。(第三章「悲しき経済」より)
[2006年5月22日] この日の感想・書評へ→

コミュニケーション力
斎藤孝
これに対して対話的なセックスのスタイルの場合は、お互いにツボをわかり合い、回数を重ねるほどに質が高くなる。ピッチャーとキャッチャーでいえば、ピッチャーの球種をすべて知り尽くし特性をわかっていればいるほど、リードが上手くなるようなものだ。(第1章「コミュニケーション力とは」より)
「ていうか症候群」「人間ジュークボックス」「文脈力」「会話で迷子になる」「コメント力」「質問力」etc.、これらはすべて本書に出てきた著者自身による造語であるが、説明不要の的確な表現だ。「コミュニケーションは、響き合いである」「コミュニケーションの基本かつ奥義は、『沿いつつずらす』こと」というフレーズも、シンプルで奥が深い。くっつくのでも並ぶのでもない、「沿う」という心の距離感が当を得ている感じがする。使える表現が随所に満載の一冊。
使えると言えば「偏愛マップ・コミュニケーション」。白い紙に自分の好きなものを具体的に、適当に散らしてマップになるように書き、それを元に赤の他人同士が二人一組になり、いきなり「好きなこと」を巡って話をするという手法だが、単なる自己紹介より速く仲良くなれるのは確実だろう。ぜひ何かの折に試してみたい。
私がいつも不満に思っているのは、日本では否定的な意見を言う人がそれなりの評価を受けている、ということだ。人の作品をけなす、弱点を指摘する、アイディアの不備を指摘する、といったことが、意味あることであるかのように考えられている。(第3章「コミュニケーションの技法」より)
[2006年5月18日] この日の感想・書評へ→

他人を見下す若者たち
速水敏彦
甘い自己認識、社会認識の結果として、「何をしてでも生きていける自信はある」ということになるのだが、高校生になるまで仕事らしい仕事を何もしたことのない人たちが「何をしてでも」という言葉を、どのように受けとめているのだろうか。(第四章「自己肯定感を求めて」より)
大学四年の秋になっても就職活動を始めていなかった私は、ある教授に「君は何がしたいのかな?」と問われ、「特にはないですが、どんな仕事でもそれなりにこなせる自信はありますから」と言い放ったことがあった。そんな小生意気な発言をとがめることもなく、教授はある小さな広告代理店を紹介して下さり、結局そこの社長と2時間面談し意気投合した結果、翌日からバイト、翌春から入社の運びとなった。私の企画&ライター人生は、わずか2時間の就職活動がきっかけである。
「仮想的有能感」が本書のキーワードとなっているが、イマどきの子らに限らず、誰でも若かりし頃は根拠のない自信に溢れているものだろう。ただ自分の能力に幻想を抱いて上ばかり見ることはあっても、本書のタイトルの様に、他人を見下すことはなかったように思う。
現在の社会では、若者だけでなく、大人も仮想的有能感を持つ人が少なくないことは、既に述べてきたとおりである。電車の中で肩がふれただけでチェッとつぶやく人たちは、「こいつめ、オレ様を誰だと思っているんだ」というような目をしている。おそらく、このような仮想的有能感は、多かれ少なかれ誰にも存在する(第五章「人々の心に潜む仮想的有能感」より)
[2006年5月13日] この日の感想・書評へ→

社会は笑う−ボケとツッコミの人間関係
太田省一
つまり「キャラ」とは、付け替え可能な覆面のようなものである。それは「素」が見えないくらい演じられるような場合もあれば、「素」が透けてみえるような場合もある。だがいずれの場合も含めて、「キャラ」のゲームは成立している。(第4章「現代日本社会と笑い」より)
ここ数年、ごく日常的な風景として、「とりあえずボケる人」「何気ない相手の言葉にすかさずツッコミを入れて笑いを取る人」が増えた。素人にも蔓延したこの種の笑いの風潮がいつからどのような経緯をたどって生まれてきたのかを、コント55号時代の萩本欽一から「ナイナイ」「あいのり」に至る「テレビ的お笑い」の変遷をたどりながら、社会学的視線で極めて真面目かつロジカルに論考した一冊。
特に最近テレビ番組で頻発している「なぞるテロップ」について、個人的には「大きなお世話」に思えるものの、「『仲間』空間の空気をすくい取り、出演者と視聴者の間に屈折しつつ共振するような磁場を形成するもの」と積極的に位置づけている辺りは興味深いものがある。
ここで認識すべきなのは、そうした二人のお笑いの能力の高さではなく、そこに宿る一九八〇年代以降のマンザイ的「笑い」の空間に対する批評的視線のほうである。八〇年代以降の「笑い」とは、「ツッコミがそこにないにもかかわらず、あるかのように振る舞う」ことにあった。そしてそのことが、とりあえずボケることを正当化してきたわけである。(終章「『笑う社会』の行方」より)
[2006年1月 1日] この日の感想・書評へ→

超・居酒屋入門
太田和彦
一杯やってほっと一息つき、今日の仕事を振り返る。それも肯定的にふり返ってこその酒だ。一日、疲れているのに更に明日はこうして、こう目標たててなどは考えたくもない。まあ、ちょっと休ませてくれ、そのために居酒屋へゆく。(実技編「古い居酒屋を選ぶ」より)
最近はもっぱら一人酒である。居酒屋だったりバーだったり屋台だったりと場所はまちまちだが、一人でぼんやりしたり、店主と当たり障りのない話をしながらウダウダ飲むのが心地よい。若い頃からつい数年前までは、勤め先の先輩や仲間と飲んで仕事について議論するのが楽しかったが、今は少々辛くもある。目一杯仕事して頭と気を使った後位は、自分をそっと解放してやる時間がほしい。
そして誰かと飲むのであれば、利害関係や仕事の話題抜きで話せる学生時代の友人がいい。若い頃にさんざん口角泡を飛ばし議論し合った友達同士も、この歳になると互いに色々辛い立場にある事が分かっているから。「お互い大変やけど、今夜位のんびり飲ろうぜ」などと心中で呟きながら、穏やかな気持で酒杯を交わせるのがいい。
男が一人になって何をするか。それはやはり、酒を飲むのが一番ふさわしい。・・・(中略)・・・一切の人間関係から離れて自分を取りもどす。取りもどすと言っても何かするわけではなく、ただぼんやりしている。その時に居酒屋ののれんをくぐるのである。(実技編「孤独を愉しむ」より)
[2005年12月 1日] この日の感想・書評へ→

シネマと書店とスタジアム
沢木耕太郎
誰にも「それさえあれば」というもののひとつやふたつはあるような気がする。釣りさえできればという人もいるだろうし、音楽さえ聴ければという人もいるだろう・・・(中略)・・・私なら、とりあえず映画と書物とスポーツのゲームがあれば、と言うかもしれない。もしかしたらその三つに酒を加えてもいいが、それだと四つになって、少々バランスが悪くなってしまう。(「あとがき」より)
ここ数年、すっかり映画を観なくなってしまった。大学時代は毎月最低でも3本、卒業後も、かつて大阪・堂島にあった「大毎地下劇場」の会員になり、仕事帰りに旧作のリバイバルを楽しんだものだった。残念ながら時間と心に余裕がない今は、映画に2時間を割く気になれず、つい読書か酒、あるいはその両方を選んでしまう。ただ本書の映画評を読んでいるうち、ここで紹介されている数本の映画を無性に観たくなった。
それにしてもこの人の文章には、読み手を駆り立てる力があるなとつくづく思う。対象との距離の取り方、主観と客観の程よいバランス、そして独特のレトリックと、硬質ではあるが適度なウェット感と“熱”を帯びた文体。時にそのダンディズムが多少気障に感じる作品もあったが、やはり表現者としては今もなお憧れの存在である。
そこでハルバースタムは、一九四九年を闘った選手たちの、フロントの、ジャーナリストたちの、ファンの持つ「記憶」の収集に取り掛る。「記憶」は氷づけにされた「記録」に生命を吹き込む。そう、この『男たちの大リーグ』は、スポーツ・ライティングの基本が「記憶」にあるということを雄弁に物語るものなのだ。(「いつだって本はある」より)
[2005年11月14日] この日の感想・書評へ→

coyote No.8「深夜特急ノート」
沢木耕太郎
私が未知の外国を旅行するときにほとんどガイドブックを持っていこうとしないのも、できるだけ素のままの自分を異国に放ちたいからなのだ、と。放たれた素のままの自分を、自由に動かしてみたい。実際はどこまで自由にふるまえるかわからないが、ぎりぎりまで何の助けも借りないで動かしてみたい。(旅の掌編4「素のままの自分を異国に放つということ」より)
「深夜特急」を初めて読んだのは家庭を持ってしばらく経った頃だった。もっと早くこの本に出会っていたら、何かが自分を突き動かして、衝動的に旅に出ていたかも知れないと真剣に思った。一瞬家庭を持ったことを後悔するほど、この本には人の心を駆りたてる魔力があったのだろう。
この本は一見旅を描いているようで、実はその視線は常に内側へ向けられている。旅先での様々な景色や出来事、人との出会いを描きつつ、実はそれらを通じて何かを感じ、何かを思う自身の内奥を描いている。つまり本質的には沢木耕太郎が旅を描いた本というより、「旅する沢木耕太郎」について描いた本なのだ。
いつかの折「沢木に憧れてノンフィクションが書きたいという人は、結局ライターになりたいのではなく、沢木のように書きたいのだ」と喝破した一文を読んだことがあるが、まさにその通りだろう。
なぜユーラシアなのか。それもなぜ乗り合いバスなのか。理由は自分にもわかっていなかった。きっと日本の平均的な若者と同じように、ぼくもまた「どこかへ行きたい」とは思っていたが「どこへ行きたい」かはわかっていなかったのだ。(「飛光よ!飛光よ!香港流離彷徨記」より)
[2005年10月23日] この日の感想・書評へ→

東京居酒屋はしご酒
伊丹由宇著
「伊勢藤」と双璧を成すと思われるのが、根岸の「鍵屋」である。
江戸末期安政3(1856)年に創業、現在のご主人・清水堅太郎さんは、なんと六代目となる。最初は酒屋だったが、やがて居酒屋になったという歴史も興味深い。
永井荷風も通ったというこの店に入ると、そこは時代劇のセットそのものである。(第一章「春の章」より)
根岸の「鍵屋」に初めて行った時は驚いた。JR鶯谷駅から徒歩5分。住宅街の路地に佇む外観は、それこそ何でもない木造の古い民家であるが、暖簾を潜って中に入るや、上の一文にもある如くまさに時代劇のセットそのもの。電球色の灯りの下、何とも言えない温かい空気が漂う。
お通しは毎度薄く味付けられた大豆の煮豆、肴は薄い板の上に墨文字で書かれた定番の10数種で、田楽、鰻のくりから焼、煮奴(鶏・玉葱・豆腐をすき焼風に煮込んだ小鍋立て)辺りがオススメ。酒は灘の櫻正宗、菊正宗、大関の3種のみで、お燗番の亭主が手のひらで徳利の温度を確かめながら、絶妙の燗をつけてくれる。創業は江戸末期の安政年間。今の建物は二代目らしいが、お江戸の居酒屋文化の懐の深さを思い知らされる一軒。
いい居酒屋の最低の条件は、主人や店の人の応対が親切で期限が良いことである。主人の態度が横柄だったり、店員が不機嫌だったら、その店はすぐに去って、二度と行かないこと。「店の空気が冷たい店」にいい店はない。雰囲気も味の内であり、値段の内である。(コラム3「いい居酒屋の見つけ方」より)
[2005年10月16日] この日の感想・書評へ→

銀座の酒場 銀座の飲り方
森下賢一著
酒場はみな顔を持っている。
バーの顔は酒の棚だ。そこに並んでいる酒の種類、並べ方、壜やグラスの輝き具合などが、その酒場の考え方をはっきり語っている。(第一章「自分の飲み方を見つける」より)
東京で飲むと言えば、新橋か浅草・上野、あとは虎ノ門の「鈴傳」か鶯谷の「鍵屋」と行動範囲が決まっている。思えば銀座の酒場には、もうかれこれ10年以上も足を踏み入れてはいない。一人前の飲み手を気取るのであれば、銀座辺りになじみの店が一、二軒ある方が様になるのだが、関西人にとっての北新地同様、下手に入るといくら取られるかわからん・・・といった漠たる不安感が拭えないのである。
ましてや当方は、元々おネエちゃんが隣で侍ってくれる事より、旨い酒と肴をいかにリーズナブルに楽しむか、という一点に賭けるタイプなので、恐らくこの先も一人ふらりと銀座の店に足を踏み入れる・・・なんて勇気はないだろう。 クリエイティブなギョーカイ人の端くれとしては、本来銀座が様になる方がカッコいいんだけどね。
森鴎外は「男は四十になったら自分の顔に責任を持て」と言ったそうだが、ぼくは「男は月給をもらうようになったら、自分の行きつけのバーに責任を持て」と言いたい。(第一章「自分の飲み方を見つける」より)
[2005年7月18日] この日の感想・書評へ→

下町酒場巡礼もう一杯
大川渉/平岡海人/宮前栄著
この手の大衆酒場で、やたらと味の濃い煮込みを出すところがある。ビールや酒をたくさん売ろうという魂胆だろうが、そんな店には二度と足を運びたくなくなる。下町酒場に入ったらまず煮込みを頼めばいい。煮込みのうまい店は、ほかの肴もたいていいける。煮込みは店の善し悪しをはかる試金石である。(第三章「立ち飲みブルースが聞こえる」より)
ちょうど二年前、6月の本として紹介した「下町酒場巡礼」の続編。この二年の間に当方もすっかり大衆酒場贔屓となってしまい、多少酒の品揃えが物足りなくても、旨い煮込みや焼きとんが喰える店に好んで足を運ぶようになった。
さて、東京の酒場で言う“煮込み”とはモツを大根や人参、こんにゃく等と一緒に味噌で煮込んだもので、関西ではあまりお目にかかれない。関西の主流は専らシンプルな「牛すじ煮込み」。そしてコイツが旨い店は、それだけで飲んべえを引き付ける強力なアイテムを手にした事になると言えよう。少なくとも私にとっては。
女手がない店なのに、棚にはきちんと酒瓶が整列し、床も塵一つ落ちていない。カウンターも磨き上げられている。もつ煮込みを頼んだら、「ネギを入れますか」と息子さんに聞かれた。ぞんざいに、刻みネギをぶっかける店が多い中、うれしいじゃないか。(第四章「わが麗し、セピア色の本格派」より)
[2005年6月23日] この日の感想・書評へ→

以下、無用のことながら
司馬遼太郎
池波正太郎さんは、ごく自然な意味での隠喩がうまかった。
あるとき、池波母堂が上方料理の薄味について感想を洩らされたそうである。
「なんだか、白っぱくれてるね」
私は、池波さんからその表現をきいて大笑いした。(「若いころの池波さん」より)
連続での司馬遼太郎、今回は昨年文庫化された71篇のエッセイ集である。小説とは違って、エッセイや講演録に関しては、死後9年近く経った今でも未発表のものが刊行されることが多く、ファンにとっては思わぬ贈り物を頂いたような心持ちになる。
そして本書には、若き日の池波正太郎との思い出が語られていたから尚の事うれしい。同年生まれで、ほぼ同時期に直木賞を受賞したため自然と交流が深まり、独り旅で京大阪や高野山に来るとふらりと司馬氏のアパートを訪れていたという。「江戸の錺職人のようにさりげなくて、みごとなたたずまいだった」と、初対面での印象が描かれている。池波氏が司馬家の台所に立って、“どんどん焼”を手早く作ってくれたというエピソードも興味深い。
池波さんのよさは、たれしも多少はある自己陶酔症という臭い気体のふたをねじいっぱいに閉めていて、気もなかったことである。江戸っ子ぶるなどは、およそこの人にはなかった。(「若いころの池波さん」より)
*司馬遼太郎のその他の本:
大盗禅師/城をとる話
宮本武蔵
新選組血風録
侍はこわい
[2005年5月 8日] この日の感想・書評へ→

完本居酒屋大全
太田和彦
太田 カウンターで男ひとり、バーボンをなめてる、ってのはアメリカンハードボイルドの典型だが。
秋元 小説や映画に出てくる。
日野原 うん。それでね、若い頃やってみたんだ。これがつらい。シーンとして重苦しい。タバコ吸い終わるとやることがない。ガブガブ飲むわけにもいかないし。(第一章「正しい居酒屋とは」より)
つい数年前までは、誰かと一緒でなければ酒場に行けなかった。カウンターにいても何となく間が持たないので、つい杯を重ねたり煙草の本数が増えたり、安らぐつもりがどうにも落ち着かない。根が日本酒好きなので、オネエちゃんが水割りしか作れない様な店に行く気もない。で、結局旨い酒でも買って家で呑もう、となりがちである。
ただ歳を重ねると人間ずうずうしくなるのだろう、近頃は一人で呑むのが楽しい。誰に気を遣うでもなく、議論を吹っかけられる心配もない。食べたくないものは注文しなくていいし、懐具合に見合った飲み方ができる。もちろん旨い酒とそこそこ以上の肴があり、値段はお手頃、気の利く店主がいて、メニューにない美酒をこっそり出してくれたら尚の事良い。
主人は黙って働いている。客も静かに酒を飲んでいる。肴は酒の友として申し分ない。何ものにもわずらわされず酒の世界に浸っていけるこの雰囲気は素晴しい。最高の居酒屋で飲んでいるという、静かで充実した幸福感がわいてきた。
壁の柱時計が、ぼおーんと鳴った。(第五章「究極の居酒屋」より)
[2005年2月 4日] この日の感想・書評へ→

ニッポン全国酒紀行 酔っぱライター飲み倒れの旅
江口まゆみ
3つのテーブルに6種類ずつ、合計18種類の純米酒が並ぶ。それぞれに、ラベルのある瓶と番号だけの瓶があり、「全部飲み比べて銘柄と番号を一致させよ」というのが課題なのだ。私は、純米酒ばかり18種類もの酒を、どうやって一致させるのか、と頭をかかえてしまった。・・・(中略)この大会で、松崎さんはみごとパーフェクトをとり、24回目の名人となったのだ。まさに神業である。(「きき酒修業」より)
不肖私もこの松崎氏と同じ会で2回名人となり、昨年は幸運にも関西地区で初のパーフェクトを達成したが、24回ともなると気が遠くなる。年2回開催の東京と違って大阪は年1回だけなので、最低あと22年かかる計算だ(おまけに毎回全問正解できる保証もない)。
きき酒は通常、口に含んで香りや味を利いた後にペッと吐き出すが、私は酒には卑しい性分なので口に入った酒は全部飲み干す。だからマジできき酒する場合は、香りに頼って極力飲まない。でないと舌は麻痺するわ頭はボーっとするわで後々キツくなるからだ。パーフェクト達成も、18種のうち約3分の1はあえて香りだけで判断し、飲むのを我慢したおかげだ。
さて本書は日本酒は勿論のこと、陶陶酒からホッピーまで国内のあらゆる酒の造り手を訪ね歩いた軽いタッチの取材記。著者は、“酔っぱライター”として国内外を飲み歩いている有名な存在だが、写真で見る限り美形なので、「大酒のみで文章が書ける美人」というユニークなポジショニングに成功している。
松崎さんは、「きき酒は才能ではない」と言い切る。なるべくいろいろな種類の酒を飲み、飲んだらメモをとる習慣をつければ、誰でもできるようになるという。ただし、自分の言葉で味や香りを言い表せる「表現力」と、メモを見ればその酒が思い出せる「記憶力」は必要不可欠だ。(「きき酒修業」より)
[2004年12月 9日] この日の感想・書評へ→

酒場歳時記
吉田類
酒場マニアの話題によく上る店から見ると、まず日本酒で一杯やるには「松風」ということになる。酒はベーシックな本醸造と純米酒をそろえ、一人三本までの限定付き。肴はあくまで添え物の範囲内と、飲酒スタイルにこだわりを持つ店だ。(第一部「ディープな酒場暮らし」より)
浅草の松風で呑んだのはかれこれ三年前。「真澄」の樽酒の前に立つ燗番娘、ならぬ燗番おやじが名物の正統派居酒屋だ。酒は一人三合までだが、一合注文するたびに異なる種類のお通しが出る。確かその時は大七の生もと純米をぬる燗で呑んだ記憶があるが、ゆったりとした時間が流れる良い店であった。あれから浅草で宿を取る度に店を訪れるが、いずれも定休日か閉店後でなかなか縁がない。近々ぜひ行きたい店である。
そして東京の居酒屋といえば、やはり虎ノ門の鈴傳。近くの某社で打合せをする毎に・・とはいかないものの、夕暮れ時に仕事を終えた時にはついふらふらと立ち寄ってしまう。一合コップになみなみと注がれた酒を新幹線の時間までに一杯、また一杯。喧噪の中、名物の肉豆腐をつまみながら、至福の時間が流れていく。
地酒を安く飲ませる居酒屋として「鈴伝」の知名度は高い。開業は古く、昭和三十一年に四谷の酒屋が出した店。・・・(中略)・・・ボリュームたっぷりのおぼろ豆腐などをつつきながら吟醸酒を比べてみる。とはいえ一合コップで飲みすすめるには、かなりの呑んべいでなければならない。(第二部「名物酒場・吟遊の抄」より)
[2004年10月18日] この日の感想・書評へ→

大阪下町酒場列伝
井上理津子
「一人だから、少しずつ盛っとくね」
と、出てきたお惣菜は素朴な甘辛味。が、「どこが少しずつやねん」と突っ込みたくなるような大盛りだ。こちらの「唖然」顔を見たおかあさんは、
「これで、普通の半分くらいの盛りよ。さもしいのはイヤやから」(「桜橋 大輝」より)
桜橋の「大輝」に初めて、今は亡き当時の上司Kさんに連れられて行ったのは社会人1年生の頃。「ちょっこし」(ちょっぴりの意)と言いつつ山程の総菜を入れてくれる白塗りの女将さんは、一回会えば忘れられないインパクト満点の人だった。
そして昨年。中之島のホテルで利き酒会があった帰り、SAKE王国のヒデさんに「いい店があるんですよ」と連れて行ってもらったのが、久々の「大輝」だった。女将さんとは恐らく18年ぶりの再会であったが、向こうは当然覚えているはずもない。ただただこちらは、亡くなった上司と毎夜飲み歩いたうちの“一日”を偲びつつ、相変わらず豪快に盛ってくれる美味しい総菜に、舌鼓を打つのであった。
「ほんまにおいしいて安いですね」
と言えば、オッチャンは目を細めてこう返す。
「儲けよて思たことないから、二十年間一回も値上げしてへんの。おいしいて安いねんから、お客さん来はって当たり前。お客さんが得する店やねんから」(「大正 クラスノ」より)
[2004年9月10日] この日の感想・書評へ→

江戸そば一筋-並木藪蕎麦そば遺文
堀田平七郎
その朝、柳橋(台東区)の自宅で、私は病床の親父の枕元に座り、いつものように「行ってきます」と挨拶をすると、親父は「木鉢とタンポ(辛汁を入れて湯煎するための素焼きの壺のような容器)に気をつけろよ」と、ボソッと言ったのです。その夜、親父は帰らぬ人となりました。(第一章「そば屋の仕事」より)
左の欄に書いた「蕎亭大黒屋」で蕎麦屋酒を飲んだ翌日、開店間もない午前11時半近くに浅草の並木藪蕎麦へ行った。一番乗りだ。大正二年(1913年)の創業以来江戸そばの味を守り続けているこの店は、つゆの辛さでも有名である。つゆに蕎麦の先だけちょいと浸して食うのが江戸の粋とよく聞くが、どっぷり浸けると辛すぎて旨くない、というのが真相らしい。本書でも「私の店のつけ汁(辛汁)は辛いですから、そばはつゆに三分の一ほどだけつければよいのです。しかし甘口の汁でしたら、たっぷりとつけて召し上がらないと、やはりおいしくないと思います」と書いてある。
ただ実際食べてみると、確かに辛いことは辛いが、さすがに出汁の風味の効いた辛さであり、ちょっと多めに浸してもなかなか美味しい。もちろん仕上げの蕎麦湯で薄めても絶品。これで酒が飲めたら最高だったが、午後から打合せが控えていたので、ぐっとこらえて我慢我慢・・・。目の前で、午前中から旨そうに蕎麦屋酒を飲む初老の男性が、これ程うらやましく思えた事はない。
暖簾大事とよくいいます。暖簾大事ということは、お店大事ということで、商品大事ということです。一つひとつの商品は自信を持って出さなければいけません。それには、やはりそれだけの注意を払わなければいけないということなのです。そばがきにしてもそうです。簡単なようですけど、それだけにむずかしいのです。ですから、少し手があいたときに、注文があれば受けますが、品書きには書き出していません。(第二章「そば屋の技術」より)
[2004年9月 6日] この日の感想・書評へ→

蕎麦屋酒
古川修
蕎麦屋で飲む酒は格別であり、居酒屋とは一線を画する。シンプルな酒肴で酒を楽しみ、最後に蕎麦をたぐる。・・・(中略) 蕎麦屋は元来庶民が仕事を終えて帰宅する途中で、さっと酒を楽しむための憩いの場所であった。すなわち、蕎麦屋で酒を飲むということは、日本の歴史、伝統を飲んでいることになり、旨くて当然なのである。(「はじめに」より)
そろそろ新蕎麦の季節、日本酒がひときわ美味しく感じられる季節である。本屋の店先にも、「サライ」や「一個人」をはじめ、蕎麦特集を組む雑誌やムック類が並び始めた。このところ蕎麦屋酒とも無縁の無粋な暮らしを送っているが、あまりの忙しさにそろそろ頭も体も悲鳴を上げつつあるので、何とか東京出張の合間にでも、昼下がりの蕎麦屋酒を楽しむ心のゆとりを持ちたいものだ。ああ、旨い蕎麦が食いたい~!
裏表紙のプロフィールによると、現在芝浦工大教授である著者は、元ホンダの開発責任者で、自動車業界では知らぬ者のない美食家とのこと。本格的な栽培まで手がける程蕎麦にのめり込んでいる一方、日本酒について書かれた一章を読んでも、その知識と造詣の深さが生半可なものではないことが分かる。スノッブで気障な爺の蘊蓄本かと高を括っていたが、なかなかどうして、読み応えのある楽しい一冊であった。
蕎麦切りをすするときの香りはほんの僅かな上品なもので、香りが独立して存在するものではなく、味とバランスして感じられる。利き酒でいう立ち香ではなく、含み香がするのである。だから、蕎麦を食べる前にいくら鼻で嗅いでも、強く香ることはない。僅かな香りが漂うだけである。(第三章「蕎麦屋のロードマップ」より)
[2004年8月28日] この日の感想・書評へ→

怪獣な日々-わたしの円谷英二100年
実相寺昭雄著
「要するに、あのころは、怪獣たちが毎週登場する下地があったわけだ。時代的にも、環境的にも。これが、怪獣出現の作劇上の支えである。 だから、感情移入は滅びゆくものへの挽歌という趣になった。」(「ウルトラ・シリーズの怪獣たち」より)
いい年こいた大人のくせして、いつまでもウルトラマンやウルトラセブンを熱く語るのってどーよ、なんて思わないではない。我々より少し上の世代が、何かにつけて(ホントか嘘か分からんけど)「ビートルズに影響を受けて云々・・・」と語るのに比べて、何と幼稚に思えることか。同窓会の様な集まりでこの種の話題に火がつくと、いっぺんに男女の間に断層ができてしまう。でも当時の男の子でウルトラシリーズを見ずに育った者はいない訳だから、男同士の共通言語としてこれに勝るものはないのだ。特にセブンは、ドラマとしても良く出来ていたしねぇ。
実相寺氏の著書を読んだおかげで、もう一度全編通してウルトラセブンが見たくなった。TSUTAYAで借りて、夜中に一人でこっそり楽しむことにしようか。
「つくり手としては、どうしても眠りを妨害される地霊のほうへ感情と関心がかたむいていたわけで、ヒーローを熟知させ、正義の御旗を担ぐ気にはなれなかったのである。 その地霊とか、水の精とか、樹霊といったものが怪獣というかたちをとって、毎回、ヒーローに対峙していたわけだ。端的にいえば、自然と開発の対立という図式が、怪獣とヒーローの根本にあったものだろう。」(「『ウルトラマン』二十五周年偶感」より)
[2004年8月 1日] この日の感想・書評へ→

オモロイやつら
竹本浩三
「さーえらいこっちゃ。チンがどアップで全国に放送されてしまった。別風景へ逃げようとするカメラを鶴瓶はなおも掴んで離さず、執拗に股間を写させた。」(第9章「笑福亭鶴瓶」より)
著者は吉本新喜劇の脚本を700本以上手がけた上、舞台、テレビ、ラジオの演出を5000本以上こなして来たという、本の帯の表現を借りれば「吉本の“ぬし”みたいなオッサン」。西川きよし・ヘレン、花菱アチャコ、今いくよ・くるよ、藤田まこと、トニー谷、宮川大助・花子、人生幸朗、桂文珍、笑福亭鶴瓶、伴淳三郎、レツゴー三匹、林正之助・吉本せいの総勢12組に関する様々な珍談・エピソードが紹介されている。
息抜きとしてはちょうどお手頃な本ではあったが、約200頁の新書で12組分詰め込んでいるため、1組あたりに割ける誌面はわずか16頁。という訳で、“ぬし”と呼ばれる人が書いたエピソード集としては、随分と物足りない感じが否めなかった。でも実際は、ここに書けないディープで危険な逸話を一杯知っているのだろうね、こういう人は。
「昭和十三年、吉本せいは念願の大阪の象徴『通天閣』を三十一万円で買い取った。これには亡夫泰三との積年の思いがあった。いつかあの通天閣を買い取り大阪の全演芸場をテッペンから俯瞰してみたい。その時こそ吉本が寄席の天下を取った時。『大将(せいは泰三のことをそう呼んだ)に一回でよろしいさかい、ここからの大阪を見せてあげたかった』と泣いたという。」(第12章「林正之助・吉本せい」より)
[2004年5月18日] この日の感想・書評へ→

東京酒場漂流記
なぎら健壱
「店の壁には御世辞にも上手いと言えない字で書かれた書(?)が、額に入って掛けられている。大往生の親父さんが書いたもので、そこには、 『人生-酒=ゼロ』 と有る。なんと破天荒でメチャクチャな割に、うれしい言葉であろうか。(中略) 久しぶりにこの言葉を目にしたとき、モンゴルの諺『飲めば死ぬ--飲まなくても死ぬ』という言葉が、親父さんの大往生と重なってぼくの頭に浮かんだ。」(「人生-酒=○」より)
前回と同じ漂流記続きだが、こちらは酒場の漂流記。夜な夜なの飲み歩きが一冊の本になるとは誠にうらやましい限りだが、マニアックでもスノッブでも蘊蓄たれでもなく、あくまで自然体で、それぞれの店への愛情と思い入れが素直に伝わって来る。内容に応じて文のタッチを変えるなど構成にも飽きさせない工夫があり、出張帰りの新幹線で一気に読み切ってしまった。読んでいると、それぞれの店で馬鹿話をしながら飲んでいる著者の姿が脳裏に浮かんで来るようだ。細か過ぎず、程よくユルい感じで描き込まれたイラストでのお店紹介もなかなかイイ感じ。
「まあそうした店を探して歩くのが好きなんですよ。一見の店に入り、これが自分に填まる店だったとき、呑兵衛冥利につきるってもんなんですよね。ということは裏を返せば、自分の好みの店というものはやはり無理強いするもんじゃないのかな。自分の填まる店を自分の足で探す、これにつきますな。」(「文庫版あとがき」より)
[2004年3月 3日] この日の感想・書評へ→

養老孟司の〈逆さメガネ〉
養老孟司
「知るということは、本質としての自分も変わるということです。それを大げさに表現するなら、自分が別人になる。若い世代には、その感覚がまったく消えたということでしょう。~(中略)~習うほうの学生が、自分が変わっていくとは思っていない。それでは教育になりません。育つというのは、変わるということじゃないですか。」(第5章「変わる自分、変わらない自分」より)
爆発的に売れている「バカの壁」の発行部数が19日、累計で311万部に達し、ノンフィクション系新書の新記録を作ったとのこと。続編まで出るらしい。
で、この本である。内容はほぼ教育にフォーカスされているが、「『知る』の本質は『変わる』こと」「個性は心ではなくカラダにある」など根幹のメッセージは「バカの壁」と同じ。それを踏まえた上で、都市的合理性や多数決による社会常識を無批判に受け入れがちな今日、「逆さメガネ」をかけなきゃ世の中の本当の姿は見えてこないよ、というのが本書独自のテーマとなっている。
それにしても売れそうなタイトルを付けるのが上手だと思う。ご本人のセンスなのか、編集者の腕なのか。
「私はこれでも医者の端くれで、臨床医になれなかったのは、患者を何人殺すか、その決心がつかなかったからです。解剖なら、患者はもう死んでますからね。これ以上、死ぬ心配はない。」(第7章「ふつうの人が幸福に暮らせる社会」より)
*養老孟司のその他の本:「バカの壁」
[2004年2月22日] この日の感想・書評へ→

バカの壁
養老孟司著
「今の若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるところです。会社でもどこでも組織に入れば徹底的に「共通了解」を求められるにもかかわらず、口では「個性を発揮しろ」と言われる。どうすりゃいいんだ、と思うのも無理の無い話。」(第三章「『個性を伸ばせ』という欺瞞」より)
クリエイターの仕事は、ユニークなアイデアを競う場面が目立つため、人材を採用する際も「個性」のユニークさが優先されると思われがちだが、違う。まずはまじめで、努力家で、バランス感覚を持つ常識人であることが条件であり、頭の回転が良ければなお結構。アーチストではなくビジネスマンである限り、個性を表現する前にクライアントの要望をいかに満たすかが先決だ。それをクリアして初めて“プラスα”の「個性」が武器になる。そのとんがった部分は、実は地味な「努力」の賜物なのだ。ただ、アウトプットに到達するスピードやクォリティには残念ながら個人差があり、誰もが同じレベルの答えを出せる訳じゃない。いわば、厳然たる“センスの壁”が横たわっているのだよ。
「『君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこに咲いている桜が違って見えるだろう』と話してみます。・・(中略)・・ では、桜が変わったのか。そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。知るということはそういうことなのです。」(第四章「万物流転、情報不変」より)
*養老孟司のその他の本:「養老孟司の〈逆さメガネ〉」
[2003年11月 1日] この日の感想・書評へ→

魯山人の食卓
北大路魯山人
「どじょうなべの要点はだしで、表側の卵を汚さぬ工夫、だしを笹がきごぼうの下にだぶだぶ残さない工夫、卵を笹がきの中まで沈めない工夫、この三つができたら本格である。」(「一癖あるどじょう」より)
前回の東京出張時に、午前中から午後にかけてぽっかり時間が空いた。浅草に宿を取っていたので、松屋で「古本市」をひやかし、浅草寺や仲見世界隈をぶらぶらした後、有名な「駒形どぜう」に初めて行った。
どじょうはこの時期が旬、店の前に「どぜうの季節」ののぼりがはためく。中に入ると、小振りな寺の御堂を思わせる木造一間の渋い空間。整然と並んだ座布団の上に胡座をかいて小鍋を食するスタイルである。案内されたのは年配の紳士の隣。独り旨そうにビールグラスを傾け、熱々のどぜう鍋をつついている。一瞬迷ったが、約束までにまだ3時間程ヒマがあったので、常温の本醸造(伏見「ふり袖」)一合と「柳川定食」を注文した。田楽付き。どじょうは思ったより上品で、卵と笹がきごぼうとの調和は絶妙だ。濃厚な白味噌仕立てのどじょう汁が、仕上げの御飯と香の物を引き立てる。
一合程度の酒では決して酔わないが、情緒ある時空間に浸り、気分だけはほろ酔い加減・・・。
「どじょうなべ。美味くて、安くて、栄養価があって、親しみがあり、家庭でも容易にでき、万事文句なしのもの。ただし、貴族的ではない。」(同上)
[2003年7月28日] この日の感想・書評へ→

いま、時代小説がおもしろい!
別冊宝島
企画の仕事が忙しくて頭が煮詰まってくると、現実とかけ離れた世界に逃げ込みたくなる。時代小説が読みたくなるのはそんな時。何か良さげな本はないかと本書を手に取った次第。
「時代小説をこよなく愛するあなたが本書を片手に、どびきり旨い銘酒のような世界を愉しんでくれたなら、これにまさる喜びはない。」(まえがきより)
時代小説との出会いは三十代半ばの頃で、きっかけは池波正太郎の「剣客商売」。主人公は秋山小兵衛という爺さんであるが、これがただの爺さんではない。孫ほど歳の違う後妻さんにかしずかれ、懐具合が豊かでお金の使いっぷりが見事な上、おまけにめっぽう腕が立つ。行きつけの蕎麦屋、小料理屋で酒を飲む姿も自然体でカッコいい。一発でハマった。
「将来こんな爺さんになりたい・・・」。
自分を振り返ると、ヨメさんは同い年ですこぶる元気だし、使いっぷりを誇る金もない。ならば剣の遣い手になってやろうと、三十五の手習いで剣道を始めた。しかし弛んだ肉体で強くなれる程、剣の世界は甘くない。
結局、蕎麦屋で飲むひとときだけが、自分を秋山小兵衛に重ねられる幸福な時間となって残った。せめてこの姿が様になるよう、一生かけて飲み続けることにしよっと。
「かつて剣豪作家と言われ一世を風靡した五味康祐は、ある評論家に『あの史料はどこで見つけたのですか』と聞かれ、『史料があったら苦労しないよ』と言って、ニヤッと笑ったという逸話があるくらいなのだ。これに似た話はまだあって、眠狂四郎の生みの親、柴田錬三郎は、『小説にとって大切なのは、出来がよくて面白いことだ。小説とはつくりものなのだ。面白くするのに史料が必要なら、上手につくればいい』と語っていたくらいなのである。」(本文より)
[2003年7月21日] この日の感想・書評へ→

下町酒場巡礼
大川渉/平岡海人/宮前栄著
「構えを見て『いい店に違いない』とぴーんとひらめく時がある。さらに、夜の街を歩いていて飲み屋の暖簾やちょうちんが『ここは酒も肴もいいからおいでよ』と呼び掛けているような感覚にとらわれる時もある。別に酒毒がまわって頭がおかしくなったわけではない。」(第三章「店構えに吸い寄せられて」より)
東京出張の時、早く仕事にケリが付くと、たまに明るいうちから蕎麦屋で呑むことがある(たまにですよ)。別に蕎麦屋でなくてもよいのだが、常連客がカウンターで大きな顔をしている飲み屋さんと違い、誰に対しても分け隔てなく静かに呑ませてくれる雰囲気があるので、独り呑むには居心地がよいからだ。
でもこの本に紹介されている下町の大衆酒場なら、ふらりと行ってもよいかなあ。
「エイヒレを頼んだ。親父さんは、まず酒を振りかけ湿らせ、焼き始めた。裏表に焼き目をつけると、今度は、振りかけたとき受け皿に残った酒をもう一度エイヒレにかけて皿に盛った。最も簡単な肴である乾き物にこれだけ手をかけるのに感心した。・・・『美は細部に宿る』という。こうした仕事ぶりを見ただけで、店の善し悪しがたいてい分かるものだ。」(第一章「煮込みには焼酎が似合う」より)
[2003年6月25日] この日の感想・書評へ→

男の作法
池波正太郎著
ひょんなことから「ロータリークラブ」の例会で講演を頼まれた。聴衆は、ほとんどが60代以上の会社経営者や医師など個人事業主ばかり。「本当に俺でエエんかいな?」と思わないでもなかったが、あれこれ考えても仕方がない。開き直って壇上から偉そうに、ネットビジネスについて30分近く喋らせて頂いた。
さてその前段階で、世話人の方々に銀座の老舗「天一」の神戸店で天ぷらをごちそうになる機会があったのだが、後になって、年輩の方々を相手に自分の振舞で何か粗相はなかったかと少々心配になり、久々に池波先生の「男の作法」を読み返してみた。
「てんぷら屋に行くときは腹をすかしていって、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくようにして食べていかなきゃ、てんぷら屋のおやじは喜ばないんだよ。よく、てんぷらの揚がっているのを前に置いて、しゃべっているのがいるじゃないの。そういうのはもう、一所懸命、自分が揚げているのに何だというので、がっかりするんですよ。こういう客だとね、油の加減というのは、待っていなきゃならないからね。やりにくいわけだよ。 」(てんぷら屋に行くときは・・より)
別に本の内容を覚えていた訳でもないが、揚げたての美味さについ惹かれ、揚げた尻からパクパクと食っていた自分を思い出し、何となくほっとした次第。
[2003年6月14日] この日の感想・書評へ→

毎月新聞
佐藤雅彦著
世の中には生理的に好きになれない言葉遣いがある。
「学生を中心に始まったこの言葉使いは、まず若い会社員に拡がった。『こういう仕事って、手間がかかるじゃないですか』一般論とせず、なぜ自分はめんどくさいと言えないのか。『こう暑いと出かけるのいやじゃないですか』なぜ、得意先に行くのが自分はイヤと言わないのか。その内に、この言い方は中高年層にまで拡がってきた。『こういう案は上に通すのが難しいじゃないですか』なぜ、自分は上に通す自信がないと言えないのか」(「じゃないですか禁止令」より)
私が広告畑でコピーをシコシコと書いていた90年代前半、「バザールでござ~る」「ポリンキー」他ヒットCMを次々と生み出す著者は業界のスター選手だった。その後はゲーム(I.Q.)、歌(だんご三兄弟)、出版(経済ってそういうことだったのか会議他)の分野でもマルチな才能を見せつけている。
本書は毎日新聞の月1の連載をまとめたもので、平易な文章の中に数々の“なるほど!”があった。中でも「三角形の内角の和が180°であることの強引な証明」は目からウロコ。気になる人は、三角に切った紙を持って私のもとへどうぞ。
ついでながらコンビニでの「1000円からお預かりします」も(‘から’は要らん!)、居酒屋で料理を運ぶ店員の「ポテトサラダになります」も(お前はジャガイモか!)私は生理的に好きになれない。
[2003年6月 1日] この日の感想・書評へ→

人はなぜバーテンダーになるか
海老沢泰久著
こう見えても(?)スナックやクラブでホステス相手に他愛もない話をするのが苦手だ。だから一人で飲む時は、オーソドックスなショットバーを探す。そしてつかず離れず、客との絶妙な距離感を持つバーテンダーに出会うと、つい嬉しくなって1、2杯余分に飲んでしまうことも少なくない。
「バーテンダーというのは、自分で注文をとって、自分でつくって、自分でお客さんにそれを出すわけでしょう。ですから自分の人間というものがお客さんの前に全部出てしまう。それが怖いんですよ。・・・いつも自分をみがいて中身をたくわえていないと、すぐに空っぽになっちゃいますから。」(銀座「バーロオジエ」上田和男)
「そのときのお客さんの状態に一番よく合った飲み物をつくってお出しするというのがバーテンダーの仕事なんです。・・・そういうふうに考えると、バーテンダーが疲れるというのは、体ではなくて頭がくたくたになるぐらい疲れるんじゃないと駄目なんですよ。」(名古屋「オード・ビー」小森正清)
いつか自分の耳で、こうした味な言葉を酒場から集めて誰かに披露してみたい。
[2003年5月 6日] この日の感想・書評へ→



妻に捧げた1778話
眉村卓
ガンで余命1年と宣告された妻のため、せめて気持ちの明るくなるような話を書いて読んでもらおうと考え、作家の夫は毎日一話ずつショートストーリーを書き続けた。その数は何と5年間で1778話。SMAP草?剛と竹内結子の主演で映画化され、ちょうど1年前に公開されたが、内容は実話である。本書には 1778話のうちの19話と各作品についての自己注釈、そして二人の出会いと結婚生活が本人の筆でまとめられており、神戸に向かう新幹線の中で一気に読み終えたが、ラスト3話当たりから文字が滲んで見えて、最終回の最後の一行で涙腺が決壊してしまった。何とも切ない一冊だ。
人生も半ばを超え、妻と一緒に過ごした日々の方が長くなった今。もし彼女が余命1年なんて宣告されたら…と我が身に置き換えるだけで正気を失いそうになる。きっと著者も、病床の妻を楽しませてあげたいという気持ちに加えて、壊れそうな自分自身の精神のバランスを保つために、お百度を踏むように「一日一話」の創作を自らに課したのだろう。
トラックバック(0)
[2012年1月29日] この日の感想・書評へ→