WEB関連
キュレーションの時代
佐々木俊尚
商品の消費から、「行為」や「場」の消費へ。
モノから、何かをする「コト」へ。
記号消費による逃走から、接続と承認の象徴としての共鳴へ。
この消費社会の変容は、われわれの社会の強い背景放射となっています。そしてこの背景放射が広く世界を覆っていき、そのうえでさまざまな情報はやりとりされ、マスメディアではなくミクロなビオトープが無数に生まれていっている。(第二章「背伸び記号消費の終焉」より)
読み終えて、思わずもう一度読み返した。本書には、これからの時代を読み解く上でかなり重要なモノの見方、考え方が呈示されている。
マスメディアによる画一的な情報発信が影響力を失いつつある中、押し寄せる情報洪水の中から真に価値あるものだけを選別するのは、なかなか容易ではない。そこで著者が着目したのが、無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有する「キュレーション」という概念だ。本書では芸術や音楽、茶道、陶器、歴史といった文化的エピソードを紹介しながら、実に分かりやすくかつ説得力を持って、既に胎動を始めた「キュレーションの時代」を解説している。
以前話題を呼んだ梅田望夫の「ウェブ進化論」は、検索アルゴリズム、即ち“テクノロジー”の進化を礼賛しつつウェブと共生する未来を語った。それに対し、情報を濾過・加工し発信する“人”の力に重きを置いているのが本書である。前者に知的刺激を受けてからはや5年。時代の動きはますます速さを増しているようだ。
情報のノイズの海の中から、特定のコンテキストを付与することによって新たな情報を生み出すという存在、それがキュレーター。
あるアメリカ人のブロガーは「コンテンツが王だった時代は終わった。いまやキュレーションが王だ」と書きました。
一次情報を発信することよりも、その情報が持つ意味、その情報が持つ可能性、その情報が持つ「あなただけにとっての価値」、そういうコンテキストを付与できる存在の方が重要性を増してきているということなのです。(第四章「キュレーションの時代」より)
[2011年5月10日] この日の感想・書評へ→
アーキテクチャの生態系
情報環境はいかに設計されてきたか
濱野智史
ネット上で動画を観る行為は、〈客観的〉な時間の流れから見れば、各ユーザーが自分の好きな時間に・自分の好きな動画を(オンデマンドに)視聴するという、「非同期的」な行為である以上、基本的にライブ感を生み出すことはできません。
これに対し、ニコニコ動画は、動画の再生タイムという「共通の定規」を用いて、〈主観的〉な各ユーザーの動画視聴体験をシンクロナイズさせることで、あたかも同じ「現在」を共有しているかのような錯覚をユーザーに与えることができるわけです。(第六章「アーキテクチャはいかに時間を操作するか?」より)
Google、2ちゃんねる、ニコニコ動画、mixi、ツイッターなど、ウェブ上の各種サービスやコミュニティをアーキテクチャを切り口にして分析し、なぜそれらが日本で独自に発展していったのかを考察した書。本書で言うアーキテクチャとは「環境管理型権力」であり、要するに「仕掛けによる制約・行動規制」のこと。携帯電話カメラのシャッター音が盗撮を抑制したり、ニコニコ動画のコメント機能が擬似的なライブ感を生み出すように。巧妙に設計されたアーキテクチャは、意識的/無意識的に関わらず人の行動様式に影響を与える。そうした観点からそれぞれの製品・サービスを見ていくと、通常のウェブ論とは異なる価値基準が見えてくるし、図らずも一つの「日本人論」に成り得ている点が興味深い。
また「恋空」を題材に、携帯電話の操作に関するミクロな描写−操作ログーこそがケータイ小説の心理描写であり、そこに若者が共感できる独自のリアリズムがあるのではないか、との指摘はまさに目からウロコ。プロットの安易さや語彙の拙さを冷笑するだけの議論よりは、遥かに今を理解するための有用な視座を与えてくれる。
日本のウェブ上には、2ちゃんねるにミクシィと、日本特殊型のソーシャルウェアが生まれてきます。そうしたいわば「ガラパゴス的」な−日本独自の進化を遂げてしまった日本のケータイがしばしばそうたとえられているように−進化の原動力ともなってきたのが、「繋がりの社会性」です。つまりニコニコ動画は、ユーチューブよりも、もっと直接かつ強力に「繋がりの社会性」を実現するためのアーキテクチャとして生まれてきたということです。(第六章「アーキテクチャはいかに時間を操作するか?」より)[2010年12月25日] この日の感想・書評へ→
ネット・バカ
インターネットがわたしたちの脳にしていること
ニコラス・G・カー著/篠儀直子訳
われわれの脳の可塑性からすれば、オンラインでの習慣が、オンラインでないときも、シナプスの活動のなかで反響しつづけるだろうことがわかる。スキャニングやスキミング、マルチタスクに使われる神経回路が拡張したり強化されたりすれば、一方で、持続的集中をともなう深い読みや深い思考に使われる回路は、弱まったり侵食されたりするだろうと推測できる。(第7章「ジャグラーの脳」より)
一言でいえば「ネットが人間の脳を劣化させる」ことを憂いた本だが、論旨の展開はタイトル程軽くはない。センセーショナルに読み手を煽るだけの理想主義的 (or懐古主義的)な議論とは一線を画し、「(著者自身も含め)我々はネットなしの生活には戻れない」との現実認識と諦念を前提に議論をスタート。文字の発明からテレビの普及に至るメディアの発達史を軸に、哲学的観点と脳科学の最新の知見を随所に織り込みながら、説得力ある筆致でネットが我々の思考に与える影響を周到に分析してみせる。
原題は「浅はか、底の浅い」を意味するShallows。ネットへの過度な依存が人の思考にどんな影響をもたらすか、を喩えた言葉であろう。先日読んだ「単純な『脳』、複雑な『私』」同様、本書でも「脳の可塑性」が論旨のキモとなっているが、外的環境への優れた適応力を発揮することで、人類の脳は静かに「退化」への道をたどるのだろうか。
われわれは、助けてくれるフレンドリーなソフトウェアを欲している。そうしないわけがあるだろうか。だが、骨の折れる思考作業をソフトウェアに譲り渡すにつれて、われわれはみずからの脳の力を、微細だが大きな意味を持つかたちで減じているようなのだ。溝掘人がシャベルを堀削機と交換すれば、作業効率は上がるだろうが、彼の筋力は弱まる。同様のトレードオフが、われわれが心的作業を自動化する際にもおそらく起こるだろう。(第10章「わたしに似た物」より)
[2010年11月 6日] この日の感想・書評へ→
グーグルは「本音」を語る
ぐちやまだとも
男が「ほかのみんなは、髪型とか眉毛とかどうしてるのかなー♪」と思っているときに女は【一人旅】について調べている。実にたくましい。
【女 好きな人 態度】は一見、女らしいが、ちょっと待ってほしい。女が恋愛しているならば【男 好きな人 態度】となるはず。
女の態度を調べているのは…どう考えても男のほうだ。(「検索ワード【男】と【女】」より)
ある単語をグーグルで検索すると、その語と頻繁にセットで検索されるワードを紹介する親切(別名:おせっかい)な機能が付いている。本書はこの「サジェスト検索」に目を付け、様々な事柄に対して日本人がどんな事を考えているのかを探ろうとしたもの。例えば「夫」の後にスペースを打ち込むと「夫 死んで欲しい」「夫 嫌い」が自動表示されるし(今は違うようだが…)、「若者」と打てば「若者 車離れ」、「仕事」なら「仕事 辞めたい」、「社員旅行」だと「社員旅行 行きたくない」とそれぞれ表示される。「後輩 タメ口」「遊び人 見分け方」「既婚者 好きになった」「姑 死ね」なんてのもある。結果に対する著者の気の利いたツッコミもあり、1時間で気軽に読めるが、下手な世論調査より人々の本音が透けて見えるから面白い。
穏やかではないのが、【使えない】ほうだ。【新人】【上司】【社員】【部下】…。これはもうみんな言われているってことだよな。
だから、もし【使えない】と言われているのが耳に入ったとしても、気にしないのが吉だろう。
大体、こういうことを言っているヤツに限って使えない社員だったりする。(検索ワード「【使える】と【使えない】」より)
[2010年7月24日] この日の感想・書評へ→

インターネット心理学のフロンティア
三浦麻子・森尾博昭・川浦康至
しかし、本章で述べた知見は、このような通信技術の発展の方向は必ずしも望ましいものとは言えないことを示唆している。非言語的手がかりが伝わりにくいからこそ、われわれは自己開示ができ、本当の自己を表現でき、自己呈示効力感が高まっているのである。もしCMCに対面と同等の非言語的手がかりが備われば、そのようなメリットは消えていってしまうだろう。(第3章「インターネットにおける自己呈示・自己開示」より)
インターネットがもたらした社会の変化に、社会心理学等の研究者たちがどのようにアプローチし、どのようにそれを読み解いて来たかを、ここ10年程の動きに焦点を当てて多様な観点から論じた研究書。5年前に「インターネットにおける行動と心理—バーチャルと現実のはざまで」という似た様な本を読んだが、この5年でネットを取り巻く技術的環境が結構大きく変わった割には(ex.SNSやブログによる情報発信が日常化し、 YouTubeが動画を主役に押し上げ、ケータイ小説が映画やTVドラマの原作供給源になり、気が付くとGoogleがモンスター化した…)、ヒトの心理や行動は今のところ大して変わってないな〜、というのが正直な感想。
共通しているのは、孤独な人がインターネット上でも消極的な対処行動をとることである。周辺的アイデンティティをもつ人のように、インターネット上でなければ現実社会での居場所を見つけるのが困難な場合を除くと、周囲の対人関係に「何となく」満足感がもてず、孤独を感じているという程度の人は、多くの場合、わざわざインターネット上で積極的に自分の居場所を探そうとはしないのかもしれない。(第5章「CMCと人間関係」より)
[2009年11月14日] この日の感想・書評へ→

グランズウェル
ソーシャルテクノロジーによる企業戦略
シャーリーン・リー、ジョシュ・バーノフ著/伊東奈美子訳
重要なのはテクノロジーではない。ネット上での人々の行動が根底から変わろうとしていることだ。つまり、グランズウェルは次のように定義できる。
グランズウェルとは社会動向であり、人々がテクノロジーを使って、自分が必要としているものを企業などの伝統的組織ではなく、お互いから調達するようになっていることを指す。(第一章「なぜ今、グランズウェルに注目すべきなのか」より)
書名のグランズウェルとは「大きなうねり」を表す言葉。副題にもある様に、ブログやSNS、動画投稿サイト、Wiki、ポッドキャスト等に代表されるソーシャルテクノロジーを、マーケティングや経営のプラットフォームとしてどの様に活用していくべきかを、豊富な事例をふんだんに盛り込みながら解き明かした書である。えてしてこの類の本は賢そうな理論や問題提起を並べ立てた後、いかにも机上で考えた「応用例」でお茶を濁す場合が多いが、本書の提言はかなり具体的・実践的なレベルに踏み込んでおり、「大きなうねり」を企業に取りこんでいくための指針や手順が分かりやすく説明されている。元々が耳馴染みのない言葉なので、かつての「第三の波」や「メガトレンド」程は人口に膾炙しないだろうが、世の中の流れを大づかみにするのに知っていて損はない一冊。
我々はグランズウェル的思考の実践者たちから七つの教訓を学んだ。これらの教訓は、読者がこの重大な変化を成し遂げる助けになるだろう。 一 グランズウェルでは、すべてが「人対人」であることを忘れない
二 良い聞き手になる
三 辛抱強くあれ
四 好機を待つ
五 柔軟であれ
六 協力する
七 謙虚であれ(第一二章「グランズウェルの未来」より)
[2009年6月 1日] この日の感想・書評へ→

ブログ論壇の誕生
佐々木俊尚
たとえばイデオロギーの異なる勢力がウィキペディア上でおたがいの意見を声高に言い合う「編集合戦」と呼ばれる衝突は、これまでにもさんざん起きている。・・・(中略)・・・アニメ『クレヨンしんちゃん』に出てくる有名なセリフを引用すれば、 「正義の反対は悪ではなく、また別の正義」
なのである。(第2章「ウィキペディア」より)
仕事柄ネットの使用頻度は高い。社会ネタから芸能ニュースまで、日々ほとんどの情報をネットから取得している状態である。にも関わらず「毎日新聞低俗記事事件」や「光市1.5人発言論争」、「ニコニコ動画」に民主党・小沢代表の動画がアップされたこと等は本書で初めて知った。“著名ブログ”のチェックに熱心な人達にとっては、いずれも馴染みある出来事なんだろう。ただ私の様に“論壇的ブログ”と縁遠いお気楽型ネット住人の場合、ネット上の事件をリアルな「本」で初めて知る、という皮肉な現象が頻繁に起きる。
だからこそネット上の出来事に乗り遅れないために、毎日300余りのブログに目を通す著者の様な人が出す「本」を、これからも頼りにしていく事になるのだろう、たぶん。
「・・・携帯メアドにくっついているdocomo.ne.jpみたいなもので、ケータイメールでおかしなことを言ったからってドコモが言論責任を問われることが無いのと一緒」
それでもなお大学や企業に対し、「サーバーの管理者として」の責任を求めるというのは、実のところ「おまえじゃ話にならない、上司を出せ」と恫喝するのと同様の行為に他ならない。(第13章「光市『1.5人』発言」より)[2008年11月25日] この日の感想・書評へ→

ウェブを変える10の破壊的トレンド
渡部弘美
リアルタイムなイベント情報は常に発生してはいるが、それらはこれまで情報の流通経路に乗っていなかったり、流通してはいても垂れ流されるだけで活用されていなかった。今まで利用されてこなかったこれらの「プレゼンス」情報に目を向ければ今後、産業分野への応用は破壊的に広がる可能性がある。(Chapter 4「プレゼンス(Presence)」より)
ニューヨークでIT分野の調査に携わっていた著者がウェブの世界の最先端トレンドをつぶさに紹介した労作。さすがはプロの調査員の仕事、分析も的確で読みやすく、紹介されている事例やURLリストの量も半端ではない。
取り上げられている10の破壊的トレンドとは、ダイレクト/フリー/クラウドソーシング/プレゼンス/ウェブオリエンテッド/バーチャル&リアル/ビデオ /インターフェース/サーチ/セマンティックテクノロジーのこと。一つひとつの中身については知らないものも多く、ツボを押さえておくだけでも大変だよなぁというのが実感。でも本当に大事なのは個々のディテールを雑学的に知ることより、これら些細な予兆の積み重ねから、ウェブの世界全体が向かっている方向性や本質をどの様に捉えていくか、ということなんだろう。
すでにグーグルが巨大化した今となっては、ストックオプションのインセンティブは相対的に小さくなりつつある。社員にとっても、同社で働くことは、以前ほどにはうまみがなくなっている。グーグルから優秀な人材がフェイスブックやプリンクスなどに流出しているとの報道もされている。元グーグル社員が、グーグルをしのぐ企業を興すことだって十分にあり得るのだ。(Chapter 9「サーチ(Search)」より)
[2008年3月15日] この日の感想・書評へ→

ウェブ時代をゆく
いかに働き、いかに学ぶか
梅田望夫
自分の内から湧き出てくる何かが具体的に見えずとも、「ある対象に惹かれた」という直感にこだわり、その対象をロールモデルとして外部に設定する。そしてなぜ自分がその対象に惹かれたのかを考え続ける。それを繰り返していくと、たくさんのロールモデルを発見することが、すなわち自分を見つけることなのだとだんだんわかってくる。(第四章「ロールモデル思考法」より)
ネットで世界中の様々な人の考え方・生き方に触れることができる時代だからこそ、ロールモデルを一人に固着させず、断片的でもいいから自分と波長の合う生き方ピースを山ほど収集し、それらを灯台代わりに使いながら人生を歩んでは如何?というのが、本書の中核的キーワードの一つ「ロールモデル思考法」の趣旨。で、ある意味図々しくも、著者自身が自らの生き様をロールモデルの一つとして呈示している。これって一歩間違えば「何様のつもり?」と揶揄されかねないが、不思議と嫌みを感じさせないのは、様々なメディアで著者が発し続けている“ウェブ時代”に対する一貫した楽観主義が、読む者をカラッとした気分にさせているせいだろうか。
また、著者が二十代半ばの頃沢木耕太郎の初期作品に耽溺していたと知り、同時代に同じ本を読み、同じ様な感慨にふけった同世代の人間がここにもいたのかと、たったそれだけで親近感を感じてしまった。
ネットは個をエンパワーする。「もうひとつの地球」はこれからますます大きくなる。世界の難題の解決という難しい挑戦から、日々の仕事や知的生活の充実、趣味や楽しみの意外な発展にいたるまで、サバイバルした先にあるさまざまな未来の可能性をイメージしてみてほしい。(終章「ウェブは自ら助くる者を助く」より)
[2008年3月 6日] この日の感想・書評へ→

ネット未来地図
佐々木俊尚
そしてこのネタ視聴の台頭は、動画コンテンツのユーザー・インターフェイスを根本から変えてしまうことになった。ネタ視聴では、リアルの友人や知人、あるいはネット上でつながっている人たちとともに動画を楽しみ、コミュニケーションを交わすのが主たる目的となるから、高画質や大画面は必要な要素ではない。(論点9「ユーチューブは『ネタ視聴』というパンドラの箱を開いた」より)
2007年秋の時点でのウェブ2.0の方向性と将来性が、20の論点から包括的に考察された本。レコメンデーション、行動ターゲティング、仮想通貨、プラットフォーム、マネタイズ、動画、セカンドライフ、ネット下流、トゥイッターetc.、この一冊を押さえておけば最新のウェブ業界の話題で後れを取らずに済むし、そうした流れの中、既存のマスメディアがビジネスをどう再構築していくのかもざっくりと把握できる。各項の説明も適量かつ要領を得ており、尚かつ著者自身の分析も程良く加えられ非常に分かりやすい。
あとがきにもある様に、ネット業界は「数週間でも目を離せば、知らない用語、知らない枠組み、知らないサービスが次々と誕生しているという恐ろしいスピード」で動いている。こうした動きに日々振り回されるのも面倒なので、願わくば手練れの業で、08年版、09年版の「未来地図」を編み続けてほしいものだ。
しかしインターネットのコミュニケーションツールは、少なくともこの日本においては、〈論点16〉でも書いたように「つながりの社会性」を先鋭化する方向へと常に進み続けている。時間や空間の制限から徐々に解き放たれ、お互いの「つながり」だけに純化する方向へと進んでいるのだ。(論点17「『つながり』に純化するコミュニケーションの登場」より)
[2008年3月 3日] この日の感想・書評へ→

ソーシャル・ウェブ入門
滑川海彦
アリストテレスは今から2千300年も前に「人間は本性からしてソーシャル・アニマルだ」と断言している。しかもその原因を「人間だけが言葉を持っている」ところに求めた。
現代風に翻訳すれば「人間がコミュニケーションを求めるのはDNAの配列に書き込まれた種としての本来的性向」ということになろうか。(2章「とうとう世界が変わり始めた」より)
たまたま目にした著者と糸井重里氏の対談(日経BPオンライン&「ほぼ日」同時連載)で本書の存在を知った。ちょいと見は「Photoshop入門」の様なテキスト風の佇まいだが、実は啓蒙性と実用性の両方が高次元でバランス良く融合した良書。Web2.0の世界観やバックグラウンドを手際よく俯瞰しつつ、一方でブログの作り方やGoogleの便利な利用法など“使える”ノウハウも細かく押さえている。例えば、Googleの検索窓がWebの検索だけでなく、四則演算やレート換算等にも使えることや、「mixiを開いたままエロサイトを見に行く」ことがどれ程危険かを、本書を読んで初めて知った次第。
新しいWebワールドの特長は「小さな断片のゆるい結合」だといわれる。一枚岩的な巨大組織や巨大アプリケーションではなく、軽く身軽な小さいユニットが Webを通じて有機的に結合するという新しいパラダイムが生まれつつある。そのひとつの典型がタグ(tag)による情報の整理だ。(Column「固くて重いツリーからゆるくて軽いタグへ」より)
[2008年2月24日] この日の感想・書評へ→

みんな力
ウェブを味方にする技術
新井範子
ウェブの場は、思いや意識だけの場だ。そこには肉体もないし、物理的な存在もない。仮想や実際を問わず、気持ちだけでできている世界だ。今までは触れられなかったいろいろな人の思いを知ると、それは現実の行動にも大きな影響力を及ぼすだろう。・・・(中略)・・・そして、もうひとつ考えなくてはならないは、その思いが、いろいろな人たちの思いや知が重なり合って、集まっているということだ。(第3章「『みんな力』を味方にする企業戦略」より)
ウェブによる情報伝達の原点は、言葉にある。それは著者が述べている様に、ウェブの「場」が本質的に人の「思いや意識」だけで成り立っているからであり、多くの場合その思いや意識は、モニターやスピーカーを介した言葉によってコミュニケートされるからだ。ただ言葉というのは、思いを「伝達する」手段であると同時に、思いを「増幅×減衰×変容」させるフィルターでもあるため、思いを「思い通りに」言葉にするのは実に難しい。
という訳で、本書のサブタイトル「ウェブを味方にする技術」を得るためには、人目を惹く仕掛けやデザイン等の前に、まず何より「言葉を味方にする技術」が必要なんだと改めて感じた次第。
私はウェブのなかで一番大切になっていくのは「リスペクト」であると思っている。・・・(中略)・・・「リスペクト」を尺度として考えることで、ウェブ上でどうふるまったらいいのかが、指針が明らかになる。一つひとつの行動もとりやすくなる。それはめぐりめぐって、企業の価値へと転換されるのだ。(第3章「『みんな力』を味方にする企業戦略」より)
[2008年2月 5日] この日の感想・書評へ→

フラット革命
佐々木俊尚
だからネットの世界は、坩堝ではなく「サラダボウル」のようなものなのだ。サラダボウルの中にはトマトやレタス、キュウリ、セロリなどさまざまな野菜が投げ込まれ、しかし決して混じりあうことなく、しかしひとつの調和を保ってそこに存在している。(第四章「公共性をだれが保証するのか」より)
権威や肩書きではなく、言論の内容でのみ評価される時代が既に始まっていることを実例で論理的に説明しながら、大新聞社をスピンアウトしたフリーのジャーナリストとして、自己批判を含めて自らの覚悟を表明した本。最近読んだネット論の中では最も胸に刺さった。内容もさることながら、新聞社で鍛えられた論旨展開の明解さと文章力はやはりプロの技。既に到来しているフラットな言論世界の中では、ある意味今まで以上に文章の構成力、表現力、レトリックの巧拙が武器になるのだろう。言いたい事をしっかりと持った人が、言いたい事をしっかり伝える能力と、議論の応酬に絶えうる情熱を持ったら強いよなあと、改めて感じさせられた。
まあ私については、せいぜいそのフラットな言論空間の中を、ふらふらと好きな酒に酔い、おもろい本に耽溺しつつ、感じたことを気儘に書き連ねる活字ドランカーであり続けたい。
一般の人々から批判され、自分の言論をまな板の上に載せる覚悟を持てない言論人は、もう消えていくしかないのだ。
自分への批判を、決して恐れてはならない。(中略)
批判、それに対する反論、そして再反論、そうした議論のすべてが可視化されていくことこそが、新たな公共性を生み出していくのだ。(第四章「公共性をだれが保証するのか」より)
[2008年1月27日] この日の感想・書評へ→

ウェブ炎上
ネット群衆の暴走と可能性
荻上チキ
そもそも必要な情報を選択するということは不必要な情報を排除するということと同じであり、似た者同士で集まりたいという欲望は、異質な者を排除したいという欲望と表裏一体です。「デイリー・ミー」を実現するためには自分(たち)にとって不都合な情報を切り離さなくてはなりません。いうなれば「デイリー・ミー」は、「デリート・ユー(delete you=あなたを削除する)」という要素を常に潜ませているのです。(二章「サイバーカスケードを分析する」より)
ブログなどの炎上をテーマに、ネット上で流言飛語が飛び交い燃え盛るメカニズムを、「サイバーカスケード」をキーワードに、様々なケーススタディの考察を通して分析した書。サイバーカスケードとは、サイバースペース上で各人が欲望のままに情報を獲得し、議論や対話を行っていった結果、極端な言説パターンや行動パターンに集団として流れていく現象を指す。
論旨は一貫して、「ウェブ上だからデマが起こりやすいのではなく、元来人はデマにまみれた社会に生きており、ネットがもたらした『可視化』と『つながり』によって、デマの見え方や広がり方が変わってきたのだ」というスタンスに立つ。巷を賑わす「ネットいじめ」の問題で言えば、ネットが誕生したからいじめが誘発されたのではなく、ネットがない時代から子供の世界には陰湿ないじめが存在しており、その顕れ方がネットによって変わったのだ、という視点だ。結局どんなメディアだって、社会に登場した当初は諸悪の根源的な扱いをされてしまうし、ある意味仕方のないことかも知れない。
ウエブ上においてサイバーカスケードが起こるとき、オフラインのもの、「ウェブ以前」のものとの大きな違いは、(繰り返しになりますが)可視化とつながりによってもたらされる過剰性にもとづいています。過剰な可視化(東浩紀はこれを過視化と名づけています)は、人々の行動や予期に変化をもたらします。(四章「ウェブ社会はどこへ行く?」より)
[2008年1月13日] この日の感想・書評へ→
ネット君臨
毎日新聞取材班
ネットには匿名による情報発信を是とする言論が多い。ネットは報道の特権意識にあぐらをかいてきたマスコミに個人でも対抗できる手段−という考え方が、それに拍車をかける。もちろん、個人が企業の内部告発をする場合などには有効であることを否定しない。だが、もはやネットの負の部分を放置できないのも事実だ。(「ネット君臨−プロローグ」より)
毎日新聞が、2007年の年頭から7月にかけて3部に分けて連載した特集を書籍化したもの。ふだんネットに縁が薄い人が読むと、ネットの世界が、欺瞞と底意地の悪さに満ちた、何ともおっかない世界として印象づけられることだろう。
そもそも「ネット君臨」というタイトル自体に、今まで言論の中心に「君臨」してきた新聞社の、ネットへの危機感と畏れが表れており、その隠れた危険性について大衆に啓蒙するのが自らの使命である、との強い意思が記事の中に見え隠れする。加えて柳田邦男氏が寄せた巻頭言は、ネットへの反発心・警戒心をあからさまにしており、そのことが本書の方向性を冒頭から明示している。
ただ結局のところ、これまでマスコミが一括して代弁していた(とされる)「われわれ」とか「国民感情」という主語は、ますます実体と乖離したものになっていかざるを得ないだろう。
ネットの中でこそ、他人に惑わされない「本当の自分」を表現できると思う人がいる。しかし、いくらそのつもりでも、やはり読み手を想定した文章の書き方になっている。言葉というのは、それによって表現する対象と完全には一致しないから、自分が「本当」だと思っていても、そこには必ずズレがある。その言葉でからめ捕られる「自分」。一人の人間がかかわる世界が一つ増えたことで生まれる複雑さに僕は関心を持つ。(第四章「私の提言−1 作家・平野啓一郎氏 人間と言葉」より)
[2008年1月10日] この日の感想・書評へ→

ウェブ社会の思想
〈遍在する私〉をどう生きるか
鈴木謙介
ユビキタスな環境の中に立ち現れる〈バーチャルなわたし」の遍在によって、私たちは、自分自身が何ものであるかについての語り(自己物語)を後景化させ、自分に関するデータの蓄積から導かれた「宿命」を、端的な事実として受け容れるという未来へ向かいつつある。宿命という島宇宙に閉ざされた環境の中で、私たちはどのようにして、その外側の未来を選択し得るのか。(第五章「公共性とマスメディア」より)
物を買う、調べ物をする、知人とコミュニケーションを取る、「酒」と「本」について偏愛的に語る(!)・・・etc.、多くの人はネットの中に、意識的にも無意識的にも自らの痕跡を残している。で、これらの行動履歴は第三者によって公然と蓄積され、amazonならお奨めの本を、iGoogleならお奨めのWEBページを呈示してくれる。そうやってネット上に様々な足跡を残していくうちにデータは精緻化され、“お奨め”はますます確度と便利さを増す。いずれネット上に〈遍在する私〉の履歴=個人的興味と偏愛の記録を基に《Google Job》が「Bestな仕事」を、《Google Partner》が「Just fittingなHの相手」を見つけてくれるのだろう。
そして自発的な検索/行動履歴に基づいている事で、ネット上に遍在する〈バーチャルな私〉の方が、自ら物語る〈私〉よりも〈リアルな私〉を体現していると周りは、いや私自身さえ思うのかも知れない。
情報化されたコミュニケーションの増大により、私たちは自らのコミュニケーションを相対化して反省することなく、ますます「小さな真実」を信仰するようになっているように思われる。・・・(中略)・・・このように、めいめいの生きる〈現実〉を、情報環境が補強するという事態が加速していくことで、能動的であることや公共的であることは、ますます困難になっていく。(第七章「宿命と成長(2)」より)
[2007年10月 1日] この日の感想・書評へ→

フューチャリスト宣言
梅田望夫・茂木健一郎
茂木 ・・・フューチャリストになるためにはギーク的なものを突きつめるのとは違う覚悟がいる。人間というものを総合的に理解しないと。そのためには、まさに「知の総力戦」。有りとあらゆるものを動員する。僕の場合、その真ん中に脳科学がある。一方の梅田さんの中核にはウェブの進化の未来とシリコンバレー社会への洞察がある。そうか、僕と梅田さんは「フューチャリスト同盟」だ。(第3章「フューチャリスト同盟だ!」より)
「ウェブ進化論」「ウェブ人間論」と読んで来た印象では、少なくとも梅田氏の場合、GoogleによるGoogle的なウェブの進化が未来に対するオプティミズムの基点となっている様だ。確かにGoogleの登場以来、「学び」であれ「遊び」であれ、ウェブ空間を探索することで効率よく情報が手に入ることが多い。Google前・Google後では、人とウェブの関わり方は確実に変わった。
でもサーチは所詮サーチであり、創造ではない。ウェブ上の文献を適当にコピペして卒論を仕上げる大学生が増えていて、実際頭を使って書くよりその方がそつなく賢そうに仕上がる場合も多いだろう。ただ、そのツケはいずれ人生のどこかで回って来る。
梅田 ・・・『ウェブ進化論』が出てすぐ、読売新聞の書評で、インターネットについて『人類史上、おそらくは「言語」が獲得されて以来の地殻変動」とお書きになった。僕はそれまで、そんなにすごいことを言ったことがなくて、もう少し手前の、印刷以来かなとか、産業革命以来かなとか、コンピュータができて以来だとか、五〇年前か一〇〇年前か、二〇〇年前か、五〇〇年前か、みたいな議論を皆としていた。(第4章「ネットの側に賭ける」より)
[2007年9月23日] この日の感想・書評へ→

ウェブ社会をどう生きるか
西垣通
大切なのはわれわれが生き延びていくための「知恵 (wisdom)」であり、それは社会情報から精選されたエッセンスであって、身体をもったわれわれ人間が随時、あたえられた状況や文脈に応じて紡ぎ出すものです。やたらに機械情報ばかり集積しても、かえってその努力の妨げになるだけです。
真のアイデアを練るには情報は少ない方がいい、という逆説さえ成り立つのです。(第4章「生きる意味を検索できるか」より)
「ウェブ2.0」を発端とする手放しの「ウェブ礼賛論」に警鐘を鳴らすべく、情報やコンピュータの本質を分析し直しつつ、真のIT革命実現の方策を探ろうという意欲的な一冊。論旨が精緻なロジックで組み立てられているため、どこを切り取っても主張に一貫性があって無駄がなく、しかも表現自体明快で分かりやすい。本当に頭の良い学者が文章を書くとこうなるのだなあと、内容とは別の次元で関心させられた。久々に中身の濃い新書を読んだ満足感で一杯。
そして、この極めて論理的なスタンスで貫かれた本書にあって、ただ一カ所著者の主観と感情が剥き出しになっているのが、ウェブ礼賛論を説く人々を「カジュアルな服装をしていても心の底ではエリート意識が強く・・・」と攻撃した下りだ。全体の調和を微妙に乱すこの一節が、“あちら側”の人達に揶揄とツッコミの“隙”を与えた様で残念に思えたが、一方で著者の人間臭さ(=子供っぽさ?)を垣間見た気がして興味深くもある。
(3) ウェブ情報検索機能は一般ユーザーにとって非常に便利だが、すべての情報が検索サービス業者に集中的に管理されてしまう。また、検索エンジンに頼りきりになると、人間の思考力や想像力が衰えていく恐れもある。検索エンジンには人間にとって重要な情報を選別することなどできないので、機械的に集合知が得られるという主張は楽観的すぎる。リンク数によってサイトの重要度を定めるアルゴリズムのもとでは、民主的討論ではなく大衆的な同調作用が起きてしまうのである。(第5章「ウェブ社会で格差をなくすには」より)
[2007年8月21日] この日の感想・書評へ→

ウェブ人間論
梅田望夫・平野啓一郎
梅田 ・・・ピン芸人は、マスメディアを通じて、視聴者の内面の声に語りかけるわけですけど、これは、ネットでブロガーたちがボソボソと不特定多数の人に向けて語っている言葉と近いんじゃないかと思います。ただ、誰に向かって語っているか、というのはどちらも明確ではなくて、誰か分かるひとだけが反応してくれればいい、というスタンスです。(第一章「ウェブ世界で生きる」より)
ウェブの仕事に携わってはや12年近くになるが、BB環境の普及とGoogleの登場を境に、ウェブとの付き合い方は明らかに変容した。以前はテレビや雑誌同様、情報収集や勉強、あるいは暇潰しの道具の一つに過ぎなかったが、今ではそうした用途に加え、私的な意見・論評を自由に発信したり、SNS経由で誰かとつながったりできる「脳の外部装置」と化している。居酒屋での一杯目ではないが、「とりあえずネットで」が習慣となりつつあるのが現状だ。
さてこうしたウェブの進化によって、人間社会は今後どのように変わっていくのか、が本書の主題となっているが、電話がない時代と今とで人間関係のあり方が全く異なる様に、今後の更なるウェブの進化が人間の意識や社会構造を変えないはずはない。その明確な答を本書に求めると裏切られることになるが、「リンクされた脳」「アイデンティティからの逃走」「島宇宙化」「テクノロジーが人間に変容を迫る」といったキーワードが、今後の「ウェブ人間」たちの行く先を示唆しているようだ。
平野 ・・・ネットには、リアル社会やいわゆる「エスタブリッシュメント」を、シニカルに笑い合っているような雰囲気が、まあ、一部にある。・・・ (略)・・・だけど、その笑いは、結局、リアル社会や「エスタブリッシュメント」をまったく動揺させないし、むしろ、システムとしてその安定に手を貸していると思うんです、図らずも。(第二章「匿名社会のサバイバル術」より)
[2007年4月 1日] この日の感想・書評へ→

Web2.0的成功学
近勝彦+MYCOM新書編集部
自分の変化にとって重要な情報は、強いきずなの仲間内からではなく弱いきずなを通じて外の世界からもたらされるのです。実は、この弱いきずなこそが世界を狭くするうえで決定的な役割を果たしています。(第1章「Web2.0と複雑系ネットワーク」より)
確かにこの「弱いきずな」ってところがミソである。「強いきずな」で結ばれた者同士は、基本的に同じ価値観や行動原理を土台に築かれたホットな関係であるから、あうんの呼吸で物事を運べる反面、得てして同じ志向(嗜好)の情報にしか感応できない。だがその点「弱いきずな」の者同士は、互いを深く理解しあっていない分、ふだんと異なる角度・価値観で事物をクールに見るきっかけをもたらしてくれたりする。
そしてSNSやWikiといった「Web2.0的」と言われる多くの仕組みは、まさに直接知らない者同士がゆるやかに「弱いきずな」を結んでゆくのに、現時点では最適なメディアと言えるだろう。でも一方でこうした関係性が一般的になっていく程、この先特に若い世代の間で、“強いきずな的”人間関係を潜在的に希求する心理が働くのではないかとの予感もある。
Web2.0時代のみそラーメンのあり方は、みそラーメンベータ1、ベータ2のように日々改善されていくものなのです。要望を寄せてくれた客の名前を冠したラーメンを作ったり、メニューの人気投票をしてみたりするのも面白いでしょう。(第6章「Web2.0的流行学」より)
[2007年3月24日] この日の感想・書評へ→

ウェブ進化論
梅田望夫
「(≒無限大)×(≒無)=Something」。 放っておけば消えて失われていってしまうはずの価値、つまりわずかな金やわずかな時間の断片といった無に近いものを、無限大に限りなく近い対象から、ゼロに限りなく近いコストで集積できたら何が起こるのか。ここに、インターネットの可能性の本質がある。(序章「ウェブ社会」より)
仕事でインターネットに関わりを持って10年以上が過ぎたが、この1年程はどうやらWEBの世界における転換期に位置づけられるようだ。知の世界を再編するGoogleの発展を軸に、ブログやRSS、SNSの普及、オープンソース現象など、パラダイムの変化とも言うべき“うねり”が確実に押し寄せている。そしてそれはかつての様な“ビジネスモデル”が先行する次元ではなく、確たるテクノロジーに裏打ちされた進化でもある。
ではこの変革の流れの中で、自分たちは何を顧客に提供でき、どんな付加価値を生み出せるのだろうか。正直まだ先は見えない状況であるが、今後進むべき方向を整理し、頭の中にマッピングするきっかけとしては、かなり知的刺激を受ける本であった。
サービス提供者が「個」に対して「あちら側」での利便性を提供する。「個」がその利便性を享受するために、色々な情報を「あちら側でオープン」にしていく。「個」が「あちら側でオープン」にした情報をサービス提供者が集積し「全体」としての新たな価値を創出する。これが、Web2.0時代のサービスの構造である。(第五章「オープンソース現象とマス・コラボレーション」より)
[2006年3月12日] この日の感想・書評へ→

Webブランディング成功の法則55
生田昌弘
企業のWebサイトの存在意義は、ユーザーの問題解決ツールを提供しているかどうかにかかってきます。
しかし、多くの企業サイトは、企業が伝えたい情報の羅列であり、企業が問題と考えている情報の押しつけでしかありません。(法則013「Webサイトはユーザーのための問題解決ツールである」より)
WEB制作会社の“老舗”とも言えるキノトロープの社長・生田氏が、WEBサイトによる企業のブランディングについて、当たり前のことを思い切り平易な言葉で書き綴った本。
約5年程前に氏の講演を聞いた事があったが、話の中味より同社での仕事の進め方事例として持参した、詳細なサイトマップが印象に残っている。何しろタタミ一畳分の大きさで、全てのコピー内容や写真スペース、ページ間のリンクが綿密に書き込まれているから大層だ。このチャート制作だけで数日要するそうなので、そりゃ同社にサイト作りを依頼したら莫大な費用がかかるのも当然だろう。ご本人も平然と「うちは1千万円以下の仕事は受けません」と言い放っておられたし。
問題を抱え、その解決を求めたユーザーがその商品を選び、より深い情報を求める。まさにこのタイミングのみに企業の「志」が伝えられるのです。・・・(中略)・・・逆に、それ以外のタイミングでは、単に広告として、もっと悪ければ、ただの能書きとして認識されてしまいます。(法則020「志を伝えられる唯一のツール」より)
[2005年4月27日] この日の感想・書評へ→

ウェブ戦略としての「ユーザーエクスペリエンス」
Jesse James Garrett著/ソシオメディア株式会社訳
本当にユーザーに来てもらうためには、筋の通った、直感的な、楽しいエクスペリエンスーーすべてが機能すべき方法で機能するエクスペリエンスを提供できるよう、用意しなければならない。(Chapter1「ユーザーエクスペリエンスが重要なわけ」)
ユーザーエクスペリエンス。直訳すれば「利用者の経験」という事だが、正しく補うなら「利用者の(心地よい)経験」と言えるだろう。特にダイレクトに売上に結びつくECサイト等では、不快なエクスペリエンスはEC店舗の経営に即影響し、時に致命傷となる。
もちろん企業のPRサイトでも同じ。これからは情報をいかに効率良く伝えるかだけでなく、いかに心地よく自社の情報に触れてもらい、結果として企業イメージの向上に寄与できるかが問われるだろう。そのため自分たち作り手も、安易に直接的な顧客ニーズだけに合わせようとせず、常にその先にあるユーザーの存在を見据えた上で、真に顧客にとって有益となる付加価値を加えていかねばならない。
ユーザーエクスペリエンスではどんな面も偶然に任せてはいけない。それと同じように、開発プロセスも偶然に任せてはいけないのだ。常時緊急事態で稼働しているウェブ開発チームがあまりにも多い。各プロジェクトはなんらかの危機に反応したものとみなされ、結果として、すべてのプロジェクトのスケジュールに遅れが出てしまうのだ。(Chapter8「段階の適用」)
[2005年3月25日] この日の感想・書評へ→

インターネットにおける行動と心理-バーチャルと現実のはざまで-
A.N.ジョインソン著
/三浦麻子・畦地真太郎・田中敦訳
「インターネットは人々に『現実生活』における自らのあり方を変えようという気持ちを駆り立てる何かを与えているのかもしれない。もしある人がオンライン上である特定のタイプの個人として振る舞う(あるいは振る舞っていると認知する)ことができるのであれば、このことはオフラインでも同じような状況を作り出そうとする誘因となるだろう」(第5章「インターネット上の個人内・個人間行動:肯定的な側面」より)
インターネット上での人間の行動と心理について、学問的な見地から極めて真面目に、豊富な研究・実験事例を挙げながら考察した学術書。でも「インターネット上でのポルノ消費に対する心理学的視点」「インターネット上の恋愛関係」なんて章立てがあったり、「サイバーセックス」とか「1人エッチ(solo sex)」なんて言葉が不意に目に飛び込んで来たりするので、ビミョーに興味をそそられながら読み進めてしまった。
インターネットの心理学的研究と言っても、主な対象はWEBサイトではなく、電子メールを媒介にした人間対人間のコミュニケーションである。特にネットの世界で"匿名性"を得た人間が、どのように自己開示をしたり、愛情を育んだり、他人を攻撃したり、逆にサポートしたりするか等を、近年の幅広い研究成果を元に分析している点が特徴。長年ネット関係の仕事をしていれば感覚的に解る事ばかりではあるが、論理的・学問的に整理された研究成果に触れる事で、より確信を持って語れる様になるのがありがたい。
「一度インターネットで相互作用をしてみれば、匿名性が説明責任に対する懸念を減少させるために、対面よりもたやすく自己開示ができることに誰もが気づくであろう。したがって、その相互作用の効果として、自己に関する情報をすすんで公表したいと思う個人の意志が生じるだろうことが予想される。」(第7章「インターネット行動を理解するためのフレームワーク」より)
[2004年6月 2日] この日の感想・書評へ→

The Online Copywriter's Handbook
Robert W.Bly
「An overlooked technique for getting people to believe you is to tell the truth. When you are sincere, it comes across to your readers and they believe your claims」 信用されるコピーを書くために、見過ごされがちなテクニックが一つある。それは、真実を述べること。誠実に書きさえすれば読者の心に届き、信頼を得られるものだ。~拙訳(「6.Home Pages and Splash Pages」より)
以前勤めていた会社でWEB関連の部門を任されたのが阪神大震災前後。当時は日本にネット関連の参考書が少なかったため、仕方なく拙い英語力を駆使して洋書や洋雑誌から情報を得ていたが、所謂ITバブルの頃からネット関連の書籍も増え、情報収集も随分とやりやすくなった。ケータイマーケティングの分野などは逆に日本の方が進んでいる程だ。
ただ、さすがにプロ向けにオンラインでのコピー制作テクニックを解説した本は日本になさそうなので、八重洲ブックセンターで見かけてさっそく購入してみた。
オンライン用のコピー制作技術といっても、コピーライティングの本質は何も変わらない。要は、文章や段落を極力ムダなくコンパクトに、語りかけるような自然体で、読み手のベネフィットを常に意識して書くこと。
そして何よりウソを書かないこと。都合のいい話ばかり書き並べても、Googleでその裏情報が即発見できる時代、“本当”の話をいかに“本当らしく”伝えられるかが勝負という訳である。
「You can create strong credibility by including a negative or a disadvantage of your product in the copy, not just all the benefits or the advantages. But be selective. Inject one negative only. Do not list all the disadvantages of your product. Choose a flaw that is easily correctable or whose existence doesn't greatly matter to the customer.」 ベネフィットや長所だけでなく、自社製品のマイナス点や短所をあらかじめ盛り込んでおくことで、かえって信頼感は深まるものである。でもネガティブな要素を入れるのは、選び抜いた一点だけにすること。全ての欠点を並べ立てるのではなく、顧客にとってはどうってことのない、簡単に修正がきくような欠点だけをあえて選んでおくのである。~拙訳(同上)
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つながり進化論
ネット世代はなぜリア充を求めるのか
小川克彦
人と人をつなぐネットのサービスを中心に、「技術の進化と心情の変化」の二つの側面から「人のつながり」を論じようというのが本書の趣旨。慶応大の湘南藤沢キャンパス(SFC)で教鞭を執る著者は、普通の大学以上にネットを使いこなせる環境にあるSFCの学生達を対象に、物心付く頃からネットが日常に存在している「ネット世代」の生態を考察している。
結論から言えば、共に暮らす息子(大学生)の生活をつぶさに眺めている私にとって、本書の中味に目新しい点はない。裏返せば、ここに書かれているネット世代の生態はかなり等身大に近いし、正確でもあるのだろう。例えば「あなたの好きな場所は」という質問に対し、過半数の学生が「自宅や自分の部屋」を挙げたとあるが、確かに息子も講義と部活のない日はほとんど自宅にいる。出かけないのか?と聞くと、二日以上休めるなら一日位出かける気になるけど、そうじゃなければ家でのんびりしたいとのこと。休日毎に出かけていた昔の自分とはエライ違いだが、もし当時にネットやケータイがあれば、リアルに友達と遊ぶ回数が減っていたかもな…と思わなくはない。
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